first stage ワタリガラスの止まり木
#ヴァンド
「開かずのね、扉があるんですよ」
定食屋の前で、【はがしの女】が至極真面目な表情をして口を開く。
会計待ちをしていた鬼頭は、財布片手に「は?」と気の抜けた言葉を発した。
社会人の昼休み。今日はテイクアウトして事務室でゆっくり食べようと考えて、先日の定食屋に来たところ、またしても彼女と遭遇した形である。昼休みの時間は、どこの会社も似たような時間だ。再び定食屋で会うのは、運命でも偶然でもなく、日常でよくある事の一つだろう。
「この間、樹たちがね。私の部屋のクローゼット開けようとしてたんです」
むすりと、頬を膨らませるような仕草をして、彼女は語り出す。
曰く。鬼頭が抱えている獣たちが、彼女の服や所蔵している本やCDをしまっているクローゼットを開けようとしていたらしい。
絶対に開けるなと小さい頃から言いつけて、扉にも小さな子どもが怖がる熊のステッカーを貼っていたのだが、弟と寺の孫が扉を開こうとしていたそうだ。もう一人の生意気な獣は、樹の部屋で二人が戻ってくるのを待っていたらしいが、扉を開けようと決めたのはこの獣だと、彼女は弟から聞き出した。
鬼頭は彼女の話に耳を傾けつつ、会計を済ませる。
その後三人がどうなったのかは泉は言わなかったが、まあ怒ったんだろうなと察した。
泉も自分の会計を済ませながら、「高校生にもなって」と、怒りではなく、呆れたような、情けないような表情を見せた。
「その高校生にもなった子どもたちは、開かずの扉に何の用があったんだ?」
世間話をする口調で問いたところ、彼女の眉がややつり上がり、じっとりと湿った視線を鬼頭に向けた。
「な…………何だよ…………」
「あなたのせいです」
「はい?」
「あの子たち、『課題曲のイメージが浮かばないから、本人が歌っているところ見て参考にしたかった』とか言ってたんですよー、もう。課題曲の曲名聞いたら、本当にあなたの曲だし。ていうか、採用試験の話も初めて聞いたんですけど?」
「事務所入った頃は言ってなかったですよね?」と、じっとりと湿ったままの視線で見上げてくる。
確かに、言っていない。
つい最近になって、急に決まった事だ。あの獣たちについては、素行不良な先輩たちのせいで、完全に流れ弾で受ける形になってしまった。
「…………なんか…………巻き込んですまなかった」
「まあ、終わっちゃったことなので、いいんですけどね。久しぶりに、あなたの歌を聞いたし」
「久しぶりに?」
思わず問い返すと、またしても「誰のせいだ」という視線が飛んでくる。
むすりとした表情から、鬼頭が電撃引退をしてから推しの歌を聴いていないのだと察した。
「辞めてからずっと聴いてなかったのか?」
鬼頭が問うと、泉の表情からむすりとしたものが消えて、かわりに影が落ちる。
「ずっとではないです。なるべくです。聴いたら、寂しくなっちゃうじゃないですか。【鬼頭昴】の新曲はもう出ないんだから」
あなたが作る曲は出ても、あなたが歌う歌はもう出ない。
泉が応援している他の子達(アイドル)は出しているのに、泉の推しはもう出すことはない。人前でステージに立つこともない。
鬼頭が立たなくなったステージには、まだ見ぬ新しい子が立って、この先の芸能界を盛り上げて行くのだろう。
それはそれで楽しみだが、泉の推しはそこにいないから、やはり寂しい。
鬼頭の心に、ぽつり、ぽつりと、泉の言葉が落とされて行く。
春先に降る雨に似た、細い筋の水滴。
鬼頭は辞めたことを後悔していない。
雅臣たちを置いてステージを降りたことも後悔していない。
引退すると言ってから届いた、ファンからの手紙にもメールにも、労いと辞めないで欲しいという懇願に溢れていて、中には「ずっと応援していたのに」と恨み節を殴り書いたものもあった。労いはともかく、懇願と恨み節は受け入れ難く、届いたファンレターは全て破棄させた記憶がある。名前だけ見て、読まずに捨てた物もある。
寂しいという気持ちを聞いたのは、今日が初めてだ。
あの破棄した手紙の中にも「寂しい」という気持ちが隠れていたものがあったのだろうが、あの時の鬼頭に他人の気持ちを察する余裕はなかった。
「…………すまない」
寂しいという気持ちを心に溶かして、受け入れて開いた口から最初に飛び出して来たのは、謝罪の言葉だった。
何に対する謝罪だろうか。
勝手に辞めたことか。
ステージに立たないことか。
もう歌を歌わないことか。
どこに向けたかわからない謝罪を聞いて、しゅんと肩を落としていた彼女が、顔をあげる。
「なんで謝るんですか?」
「…………わからない」
「何でだろうな?」と、首を傾げていると、彼女の表情が和らいだ。
「なんだか、直哉みたいな真似をしますねえ。不思議ぃーそっくりぃー」
「あれと……?」
つんとした表情の少年が脳裏に浮かぶ。
鬼頭がむむむと唸っている間に「思わず、本人に本人の愚痴を呟いてしまった」と、泉は照れた笑みを見せた。
「いや、いい。勉強になりました」
「ならよかったです。……愚痴ついでに、一つ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「アイドル辞めたの、やっぱりファンのせいですか?」
意表を突く質問に、鬼頭は息を呑み込んだ。
その後に続いた言葉にも目を丸くする。
「私、知ってるんですよ。今も事務所に来てますよね? 出待ちの子たち」
会社と事務所の立地的に、泉は出勤の時も退勤の時も必ず事務所の前を通る。
朝も夜も、事務所の前を通る度に、会社員ではない一般の人間が事務所の前をうろうろと歩いている様子を見かける。
「プライベートには干渉しないでくれって、昴さん現役の頃から言ってるのに……」
泉の肩が、再び下がる。
「よく覚えてるな」
「一応、ファンですから……。ルール破ったり、出待ちするような輩と一緒にされるのはいやだけど……」
苦い思い出が甦ったのか、泉の視線が遠くに向けられ、魂も抜けてそうな深いため息が吐き出される。
「ファンとして申し訳ないです。辞めたときに【昴くんはもう一般人だから、現役の頃みたいな追い方はしてはいけない】って、ファンが有志でSNSに流したんですけど」
そんな事をしていたのかと驚きつつ、鬼頭は「問題ない」と頭を振った。
「大丈夫……今のところ、何も起こってないから」
「本当ですか? 何かあったら直ぐ言ってくださいね。蹴っ飛ばしに行きますから!」
「空手部なめないでください!」と、はがし役顔負けの迫力で言いきって、彼女は自分の会社へと戻っていく。
「俺も、空手部だったぞ……っと」
その気になれば自分で蹴っ飛ばせるが、やる気になってる彼女の気持ちを無下にするのも勿体無いなと思う。
◆ ◆ ◆
平日ど真ん中の水曜日。
渡和成(わたり かずなり)は、事務所をうろちょろと歩く直哉を見つけて、目を丸くした。
まだ午前中の早い時間帯、高校生の直哉が事務所にやって来るのは珍しい。芸能の仕事もまだ入れておらず、なにより今日は彼を受け持っている鬼頭が公休である。
「直哉君、どうしたの?」
直哉の背中に声を投げ掛けると、ぴたりと足を止めて、素直に振り向いてくれた。
つんとした表情と強い口調が特徴的な少年なので、鬼頭や先生以外の大人の言うことは聞いてくれないのではないかと、呼び止める時に頭を過ったのだ。
ほっと息を吐いて、直哉の表情を改めて見る。
和成は、ひゅっと息を詰めた。
少年の顔にあったのは【無】であった。
生気がなく、瞳にも光がなく、何を考えているのか、何を思っているのか悟れない。
生きているのか、死んでるのか。その境目も曖昧にする無の表情。
「な、直哉君?」
再度声をかけると、彼の瞳にふっと光が宿る。
生気が無かった顔も、いつものつんとした表情を見せていた。
「今日はどうしたの? 鬼頭先輩は今日休みだよ」
「知ってます」
「あ、そう……。それで」
「事務所に何か用?」と聞こうとしたところで、直哉が先に口を開いた。
「和成さん。鬼頭さんの家の場所知ってますか?」
「開かずのね、扉があるんですよ」
定食屋の前で、【はがしの女】が至極真面目な表情をして口を開く。
会計待ちをしていた鬼頭は、財布片手に「は?」と気の抜けた言葉を発した。
社会人の昼休み。今日はテイクアウトして事務室でゆっくり食べようと考えて、先日の定食屋に来たところ、またしても彼女と遭遇した形である。昼休みの時間は、どこの会社も似たような時間だ。再び定食屋で会うのは、運命でも偶然でもなく、日常でよくある事の一つだろう。
「この間、樹たちがね。私の部屋のクローゼット開けようとしてたんです」
むすりと、頬を膨らませるような仕草をして、彼女は語り出す。
曰く。鬼頭が抱えている獣たちが、彼女の服や所蔵している本やCDをしまっているクローゼットを開けようとしていたらしい。
絶対に開けるなと小さい頃から言いつけて、扉にも小さな子どもが怖がる熊のステッカーを貼っていたのだが、弟と寺の孫が扉を開こうとしていたそうだ。もう一人の生意気な獣は、樹の部屋で二人が戻ってくるのを待っていたらしいが、扉を開けようと決めたのはこの獣だと、彼女は弟から聞き出した。
鬼頭は彼女の話に耳を傾けつつ、会計を済ませる。
その後三人がどうなったのかは泉は言わなかったが、まあ怒ったんだろうなと察した。
泉も自分の会計を済ませながら、「高校生にもなって」と、怒りではなく、呆れたような、情けないような表情を見せた。
「その高校生にもなった子どもたちは、開かずの扉に何の用があったんだ?」
世間話をする口調で問いたところ、彼女の眉がややつり上がり、じっとりと湿った視線を鬼頭に向けた。
「な…………何だよ…………」
「あなたのせいです」
「はい?」
「あの子たち、『課題曲のイメージが浮かばないから、本人が歌っているところ見て参考にしたかった』とか言ってたんですよー、もう。課題曲の曲名聞いたら、本当にあなたの曲だし。ていうか、採用試験の話も初めて聞いたんですけど?」
「事務所入った頃は言ってなかったですよね?」と、じっとりと湿ったままの視線で見上げてくる。
確かに、言っていない。
つい最近になって、急に決まった事だ。あの獣たちについては、素行不良な先輩たちのせいで、完全に流れ弾で受ける形になってしまった。
「…………なんか…………巻き込んですまなかった」
「まあ、終わっちゃったことなので、いいんですけどね。久しぶりに、あなたの歌を聞いたし」
「久しぶりに?」
思わず問い返すと、またしても「誰のせいだ」という視線が飛んでくる。
むすりとした表情から、鬼頭が電撃引退をしてから推しの歌を聴いていないのだと察した。
「辞めてからずっと聴いてなかったのか?」
鬼頭が問うと、泉の表情からむすりとしたものが消えて、かわりに影が落ちる。
「ずっとではないです。なるべくです。聴いたら、寂しくなっちゃうじゃないですか。【鬼頭昴】の新曲はもう出ないんだから」
あなたが作る曲は出ても、あなたが歌う歌はもう出ない。
泉が応援している他の子達(アイドル)は出しているのに、泉の推しはもう出すことはない。人前でステージに立つこともない。
鬼頭が立たなくなったステージには、まだ見ぬ新しい子が立って、この先の芸能界を盛り上げて行くのだろう。
それはそれで楽しみだが、泉の推しはそこにいないから、やはり寂しい。
鬼頭の心に、ぽつり、ぽつりと、泉の言葉が落とされて行く。
春先に降る雨に似た、細い筋の水滴。
鬼頭は辞めたことを後悔していない。
雅臣たちを置いてステージを降りたことも後悔していない。
引退すると言ってから届いた、ファンからの手紙にもメールにも、労いと辞めないで欲しいという懇願に溢れていて、中には「ずっと応援していたのに」と恨み節を殴り書いたものもあった。労いはともかく、懇願と恨み節は受け入れ難く、届いたファンレターは全て破棄させた記憶がある。名前だけ見て、読まずに捨てた物もある。
寂しいという気持ちを聞いたのは、今日が初めてだ。
あの破棄した手紙の中にも「寂しい」という気持ちが隠れていたものがあったのだろうが、あの時の鬼頭に他人の気持ちを察する余裕はなかった。
「…………すまない」
寂しいという気持ちを心に溶かして、受け入れて開いた口から最初に飛び出して来たのは、謝罪の言葉だった。
何に対する謝罪だろうか。
勝手に辞めたことか。
ステージに立たないことか。
もう歌を歌わないことか。
どこに向けたかわからない謝罪を聞いて、しゅんと肩を落としていた彼女が、顔をあげる。
「なんで謝るんですか?」
「…………わからない」
「何でだろうな?」と、首を傾げていると、彼女の表情が和らいだ。
「なんだか、直哉みたいな真似をしますねえ。不思議ぃーそっくりぃー」
「あれと……?」
つんとした表情の少年が脳裏に浮かぶ。
鬼頭がむむむと唸っている間に「思わず、本人に本人の愚痴を呟いてしまった」と、泉は照れた笑みを見せた。
「いや、いい。勉強になりました」
「ならよかったです。……愚痴ついでに、一つ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「アイドル辞めたの、やっぱりファンのせいですか?」
意表を突く質問に、鬼頭は息を呑み込んだ。
その後に続いた言葉にも目を丸くする。
「私、知ってるんですよ。今も事務所に来てますよね? 出待ちの子たち」
会社と事務所の立地的に、泉は出勤の時も退勤の時も必ず事務所の前を通る。
朝も夜も、事務所の前を通る度に、会社員ではない一般の人間が事務所の前をうろうろと歩いている様子を見かける。
「プライベートには干渉しないでくれって、昴さん現役の頃から言ってるのに……」
泉の肩が、再び下がる。
「よく覚えてるな」
「一応、ファンですから……。ルール破ったり、出待ちするような輩と一緒にされるのはいやだけど……」
苦い思い出が甦ったのか、泉の視線が遠くに向けられ、魂も抜けてそうな深いため息が吐き出される。
「ファンとして申し訳ないです。辞めたときに【昴くんはもう一般人だから、現役の頃みたいな追い方はしてはいけない】って、ファンが有志でSNSに流したんですけど」
そんな事をしていたのかと驚きつつ、鬼頭は「問題ない」と頭を振った。
「大丈夫……今のところ、何も起こってないから」
「本当ですか? 何かあったら直ぐ言ってくださいね。蹴っ飛ばしに行きますから!」
「空手部なめないでください!」と、はがし役顔負けの迫力で言いきって、彼女は自分の会社へと戻っていく。
「俺も、空手部だったぞ……っと」
その気になれば自分で蹴っ飛ばせるが、やる気になってる彼女の気持ちを無下にするのも勿体無いなと思う。
◆ ◆ ◆
平日ど真ん中の水曜日。
渡和成(わたり かずなり)は、事務所をうろちょろと歩く直哉を見つけて、目を丸くした。
まだ午前中の早い時間帯、高校生の直哉が事務所にやって来るのは珍しい。芸能の仕事もまだ入れておらず、なにより今日は彼を受け持っている鬼頭が公休である。
「直哉君、どうしたの?」
直哉の背中に声を投げ掛けると、ぴたりと足を止めて、素直に振り向いてくれた。
つんとした表情と強い口調が特徴的な少年なので、鬼頭や先生以外の大人の言うことは聞いてくれないのではないかと、呼び止める時に頭を過ったのだ。
ほっと息を吐いて、直哉の表情を改めて見る。
和成は、ひゅっと息を詰めた。
少年の顔にあったのは【無】であった。
生気がなく、瞳にも光がなく、何を考えているのか、何を思っているのか悟れない。
生きているのか、死んでるのか。その境目も曖昧にする無の表情。
「な、直哉君?」
再度声をかけると、彼の瞳にふっと光が宿る。
生気が無かった顔も、いつものつんとした表情を見せていた。
「今日はどうしたの? 鬼頭先輩は今日休みだよ」
「知ってます」
「あ、そう……。それで」
「事務所に何か用?」と聞こうとしたところで、直哉が先に口を開いた。
「和成さん。鬼頭さんの家の場所知ってますか?」