first stage ワタリガラスの止まり木
#ヴァンド
「君ら三人は、今は試用期間中の身の上であるという話はしてあるよな?」
鬼頭マネージャーが、渋い表情をして切り出したのは、シャトルランが終わってから行われたレッスンでのことだった。
いつものように、体幹トレーニングを終えた流れから筋トレや持久力を上げるトレーニングに入ると思っていた三人は、マネージャーによる緊張感のある話から入った事で、何が来てもいいように身構える。
試用期間はその名の通り、労働者を実際に働かせてみて能力や適性を雇用者側が評価や判断する期間の事だ。
少年三人が事務所に入ってから、一ヶ月が過ぎようとしている。
これまでのレッスンの間に、大人たちの方で評価を進めていたのだろう。
試用期間は三ヶ月だと言われていたが、数多のアイドルや練習生を見てきた大人たちは一ヶ月見ただけでも、能力があるかどうか見極められるのかもしれない。あるいは、勘づいたというやつだろうか。
(急にどうしたんだろう?)
(クビが決まったか?)
(ここでクビとか、チョー困るんですけどー)
視線でそんなやり取りを交わしつつ、鬼頭の次の言葉を待つ。
「本来であれば、試用期間終わり次第そのまま正規雇用に移るんだが、この夏から試用期間終了日に正規への採用試験をすることになった。まあ、あれだ。お前らの場合完全に流れ弾ってやつだ」
「運が悪かったな」と、マネージャーは息を吐く。
「流れ弾」という単語に、直哉がいち早く反応して挙手した。
「流れ弾ってことは、俺たちじゃない試用期間中の誰かに問題あるってことですか? 素質とか、素養とか」
「そうなん?」
直哉に続いて、大が言葉を投げる。
受け持つ少年からの問いに、マネージャーは一拍置いてから「そういうことだな」と返した。
「よっぽどやべー奴らなの?」
「常務が拾ってきた子らがな、お前らよりも実績や経験値が高いのは確かなんだが、いささか職務態度に難有りって感じなんだわ」
「高校入ったばかりの俺たちよりも職務態度悪いって最悪じゃない? 常識さに欠けてるってことでしょう?」
直哉が大に話を振る。
大は大きく首を縦に動かした。
「性格やべーお前よりもやべーって最あ、イッテ!」
言い終わるよりも先に、直哉の拳が大の脇腹に突き刺さる。
樹は、ぎゃんぎゃんと騒ぎ出す二人をそのままにして「はい」と挙手した。
「試験の内容って決まってますか?」
「試験は、一般常識の筆記試験と課題曲が一つ。もちろん、振り付けありの歌唱だ」
「課題曲……」
漢字三文字で作られる言葉が、樹の胸にずしりと落ちてきた。
少年三人は、まだ振り付けありの歌唱を習っていない。基礎となるステップもこれから習うところだ。
まだそんな状態なのに、採用試験を受けるのに相応しい出来を夏までに仕上げると鬼頭は言う。
この人、自分の抱えている子どもの状態を見て言っているのだろうか。
樹が唸っていると「大丈夫だ」という鬼頭の言葉が凛とレッスン室に響いた。
三人分の視線がマネージャーに向けられる。
「課題曲が用意されると言っても、見られる場所は振りや発声の正確さではない。課題曲と向き合ってきた姿勢だ。学校で言えば、関心、意欲、態度の部分だな。だから、課題曲が正確にできなかったからといって、クビになるわけじゃない。ただ……」
鬼頭は言葉を区切り、三人の顔をしっかりと見据えて再び口を開く。
「この先、お前らの上に立つ大人は、励まない事をよしとしない。出来なくても大丈夫と思わず、しっかりと取り組むことだな」
少年三人は、レッスン終わりに持たされた課題曲が収録されたCDと振り付けのDVD、一般常識のテスト範囲をコピーした紙の束を抱えて、土曜の昼間から樹の家に集まっていた。
本日、ハル先生が定休日ということもあって、少年三人も休みである。
一日にゆっくりと過ごしても良いのだが、採用試験の話を出されてはそうも言ってられない。おまけに、大型連休が明けて二週間もしないうちに、高校生活初めての中間テストも始まる。
樹の部屋に三人で閉じこもり、「さて」と直哉が口を開く。
「なにする?」
「何するって、勉強する為に集まったんじゃねーの?」
大が、自宅の冷蔵庫からしっけいしてきた炭酸飲料を飲みつつ、直哉に投げた。
樹は一度「うーん」と唸ってから、部屋にある自分用のテレビとブルーレイレコーダーの前に移動した。
「とりあえず、振り付けのDVDもう一回見てみない? レッスンの時も見たけど……」
見たけれど、動きが早くて見てもさっぱり。冒頭のさわりの部分だけやったけど、こちらもさっぱりである。そして歌唱の方も、さっぱりどころか、崖から今にも落ちそうなほどピンチだ。
これで歌唱と振り付け同時にというのだから、あの大人たち鬼である。
実技試験とも言える課題曲。時間はフルタイムではなく、前奏から最初のサビまでの一分半。三人一斉に受けるのではなく、一人ずつ行うと言われた。企業の面接のような試験官は設けず、マネージャーが実技試験の様子を動画に撮って、後日事業部の方で評価するそうだ。
三人一緒ではないというところに、不安と寂しさを抱いてしまう。
まだ先の話しだというのに、樹は試験の事を少し考えただけで緊張していた。
二人が映像を見ている隙に、手のひらにじんわりと浮かんだ汗を拭う。
ごしごしとズボンに手のひらを擦り付けていると、直哉と大の声が耳に響いた。
「ぶっちゃけ、デモだけ見聞きしても、曲のイメージ浮かばないよね」
「あ? ああ、そうだな」
「これ、誰の曲って言ってたっけ?」
直哉に問われて、大の動きが止まる。彼の頭の上にはクエスチョンマークが浮かんでいた。
「そういえば、楽曲の持ち主の名前聞いてなかった。誰のやつだ?」
樹も言われて首を傾げた。
そういえば、曲と振り付けは教えてもらったけど、誰の楽曲までは教えられていない。
実技試験に関する書類の束を読み返しても、やはり楽曲名だけ載っていて、歌唱者や作詞作曲者の情報は出ていなかった。
振り付けを覚えるのに与えられたDVDは、振り付け師見習いの人が踊ったものを録画したやつなので、歌唱者本人の情報は一切出ていない。
聞き覚えはある。凄く、うろ覚えだけど。最近発売されたものではない。もっと前。それこそ、自分たちがまだ小さな男の子だった頃だ。
でも、聞いたことはあるのだ。なぜだかは、樹本人もわからない。
うーんと唸っていると、思い出すことに諦めたのか、悩む時間の無駄だと思ったのかは謎だが、直哉がスマートフォンで検索を開始する。
「文明の利器はこういう時に使うんだよー」
「ただせこいだけじゃね?」
「せこくないですー」
直哉のスマートフォンが検索結果を表示する。
直哉は画像一覧に出ていた人物を見て「あ……」と声を漏らした。
「どうしたの?」
「これ見て」
画面に映る男を認めて、樹は大と一緒に「あ!」と声をあげた。
「鬼頭マネージャー?」
「そういえば……アイドルだったんだっけ? あの人も」
入る頃、初めて彼と顔を合わせた時に、花房という男が言っていた気がする。花房は鬼頭が現役だった頃に彼のマネージャーをしていたと笑っていた。
「鬼頭さんの歌か……泉さん持ってるんじゃないの?」
直哉が樹に投げる。
投げられた方は「え?」と漏らして、空気を止めた。
「だって泉さん、あの人のファンだったんでしょう?」
「いや、まあ、本人はそう言ってるけど……」
言ってはいるけど、姉の泉がアイドルを推している姿を、樹はまじまじと見たことがない。グッズを眺めている姿も、CDを聞いている様子も無かった。母と一緒に、音楽番組やバラエティー番組を見ている途中で話題にすることはあったが、偶々だと思っていた。
見ていた番組に偶々アイドルが出ていたから、口にしただけだと思っていた。
泉の口から、「実はこの人を応援してたのよ」と聞かされたのは、鬼頭昴と初めて会った日だ。顔には出さないようにしたが、胸の内側では心底驚いていた樹である。
姉がアイドルを推していたことも、その推しが今は弟のマネージャーをしていることも、樹はその時に初めて知った。
そして、時間が合えば二人並んで歩いて帰るほど距離が近いことも、その時気づいた。
事務所から出た後、泉が帰る時間まで街をぶらぶらとして、いざ夕方になって待ち合わせの駅へ行けば、姉と一緒にあの男(マネージャー)が居たのである。
その場の流れで、夕飯を食べに五人でファミレスへ寄って、頼んだ物を待っている間に、泉と鬼頭はどういう関係なのかと直哉が斬り込んだ。樹から見る二人の出会いは、完全に少女漫画のそれで。あの男も姉の方も、関係が進むのはまんざらでもないという空気で、聞いていて恥ずかしくなり、僅かながらの寂しさと胸を焼き尽くさんばかりの怒りを抱いた。
ズバズバと聞いていた本人(なおや)は、嫉妬したのかなんなのか、ドリンクバーで注いできたメロンソーダをずごごと音を立てながら飲んでいた。
マネージャーと顔を合わせたあの日から、約一ヶ月。
その間、姉は「この雑誌読んでみれば?」と、若手アイドルが載っている雑誌を寄越して来ることはあっても、マネージャーのCDを出すことはなかった。
「持ってるかどうかわからないよ」と、樹がこぼすと、大が閃いた様子を見せ口を開く。
「開かずの扉にあるんじゃね?」
「俺が死んでもいいの? 大ちゃん」
「こっそり行ってみれば大丈夫だよ」
「お前らは、マジギレした姉ちゃんを知らないから言えるんだ……!」
開かずの扉は、泉の部屋にあるクローゼットの事だ。中には普段着の他に、泉が買ったアニメのグッズやCD、同人誌等が入っている。
「絶対に開けるなよ」と、小学校の頃から耳にたこができるほど言われていた。
この場にいる三人で、何度か開けてみようと挑戦してみたが、扉に貼られた【熊注意】の標識風ステッカーに怖じ気づいて、開けず仕舞いで終わっている。この歳で開けに行ったのが泉に知れたら、拳骨一発では済まないと、樹は身震いした。
おまけに、今日は姉も休みで家に居るのだ。今ごろ、リビングで録画したドラマかアニメを見ていることだろう。
「無理無理」
樹は頭を横に振るも、直哉がぽんと肩に手をのせて来る。
「いざとなったら、助けてあげるから」
「嘘つけ! お前が姉ちゃんに勝てるわけないだろ!」
「声がでかい! バレちゃうでしょう!」
「いや、二人とも声でかいわ」
結局、ジャンケンで開かずの扉に挑戦するメンバーを決めて、樹と大が勇者に選ばれた。
言い出しっぺの直哉は、安全地帯(たつきのへや)で収穫を待つのみである。
「何で言い出しっぺが行かないんだ」という小言を声音を潜めながらしつつ、泉の部屋に入室する。
弟の樹でも用が無ければ立ち入らない、姉のプライベート空間だ。
忍び足で足を進めて、開かずの扉に向かう。
クローゼットには、まだあの【熊注意】スッテカーが貼られたままだ。
「まーじで、開けるのか?」
大が渋い表情を見せて問う。
樹は「しょうがないよ」と、自分に言い聞かせるように返した。
「それに、俺も本人(マネージャー)がどういう感じで歌ってたのか見たいし」
検索したら出てくるのだろうが、公式サイト以外が投稿している画像や動画は違法投稿された物だ。違法な物は見たくない。
意を決して、クローゼットのノブに手を伸ばす。
姉の声が、耳元で聞こえたのはその時である。
「お姉ちゃんの部屋で、なーにしてるの?」
この日あった出来事は殆ど覚えていないけど、かつてないほど優しい声音が凄く怖かったのだけは覚えている。
「君ら三人は、今は試用期間中の身の上であるという話はしてあるよな?」
鬼頭マネージャーが、渋い表情をして切り出したのは、シャトルランが終わってから行われたレッスンでのことだった。
いつものように、体幹トレーニングを終えた流れから筋トレや持久力を上げるトレーニングに入ると思っていた三人は、マネージャーによる緊張感のある話から入った事で、何が来てもいいように身構える。
試用期間はその名の通り、労働者を実際に働かせてみて能力や適性を雇用者側が評価や判断する期間の事だ。
少年三人が事務所に入ってから、一ヶ月が過ぎようとしている。
これまでのレッスンの間に、大人たちの方で評価を進めていたのだろう。
試用期間は三ヶ月だと言われていたが、数多のアイドルや練習生を見てきた大人たちは一ヶ月見ただけでも、能力があるかどうか見極められるのかもしれない。あるいは、勘づいたというやつだろうか。
(急にどうしたんだろう?)
(クビが決まったか?)
(ここでクビとか、チョー困るんですけどー)
視線でそんなやり取りを交わしつつ、鬼頭の次の言葉を待つ。
「本来であれば、試用期間終わり次第そのまま正規雇用に移るんだが、この夏から試用期間終了日に正規への採用試験をすることになった。まあ、あれだ。お前らの場合完全に流れ弾ってやつだ」
「運が悪かったな」と、マネージャーは息を吐く。
「流れ弾」という単語に、直哉がいち早く反応して挙手した。
「流れ弾ってことは、俺たちじゃない試用期間中の誰かに問題あるってことですか? 素質とか、素養とか」
「そうなん?」
直哉に続いて、大が言葉を投げる。
受け持つ少年からの問いに、マネージャーは一拍置いてから「そういうことだな」と返した。
「よっぽどやべー奴らなの?」
「常務が拾ってきた子らがな、お前らよりも実績や経験値が高いのは確かなんだが、いささか職務態度に難有りって感じなんだわ」
「高校入ったばかりの俺たちよりも職務態度悪いって最悪じゃない? 常識さに欠けてるってことでしょう?」
直哉が大に話を振る。
大は大きく首を縦に動かした。
「性格やべーお前よりもやべーって最あ、イッテ!」
言い終わるよりも先に、直哉の拳が大の脇腹に突き刺さる。
樹は、ぎゃんぎゃんと騒ぎ出す二人をそのままにして「はい」と挙手した。
「試験の内容って決まってますか?」
「試験は、一般常識の筆記試験と課題曲が一つ。もちろん、振り付けありの歌唱だ」
「課題曲……」
漢字三文字で作られる言葉が、樹の胸にずしりと落ちてきた。
少年三人は、まだ振り付けありの歌唱を習っていない。基礎となるステップもこれから習うところだ。
まだそんな状態なのに、採用試験を受けるのに相応しい出来を夏までに仕上げると鬼頭は言う。
この人、自分の抱えている子どもの状態を見て言っているのだろうか。
樹が唸っていると「大丈夫だ」という鬼頭の言葉が凛とレッスン室に響いた。
三人分の視線がマネージャーに向けられる。
「課題曲が用意されると言っても、見られる場所は振りや発声の正確さではない。課題曲と向き合ってきた姿勢だ。学校で言えば、関心、意欲、態度の部分だな。だから、課題曲が正確にできなかったからといって、クビになるわけじゃない。ただ……」
鬼頭は言葉を区切り、三人の顔をしっかりと見据えて再び口を開く。
「この先、お前らの上に立つ大人は、励まない事をよしとしない。出来なくても大丈夫と思わず、しっかりと取り組むことだな」
少年三人は、レッスン終わりに持たされた課題曲が収録されたCDと振り付けのDVD、一般常識のテスト範囲をコピーした紙の束を抱えて、土曜の昼間から樹の家に集まっていた。
本日、ハル先生が定休日ということもあって、少年三人も休みである。
一日にゆっくりと過ごしても良いのだが、採用試験の話を出されてはそうも言ってられない。おまけに、大型連休が明けて二週間もしないうちに、高校生活初めての中間テストも始まる。
樹の部屋に三人で閉じこもり、「さて」と直哉が口を開く。
「なにする?」
「何するって、勉強する為に集まったんじゃねーの?」
大が、自宅の冷蔵庫からしっけいしてきた炭酸飲料を飲みつつ、直哉に投げた。
樹は一度「うーん」と唸ってから、部屋にある自分用のテレビとブルーレイレコーダーの前に移動した。
「とりあえず、振り付けのDVDもう一回見てみない? レッスンの時も見たけど……」
見たけれど、動きが早くて見てもさっぱり。冒頭のさわりの部分だけやったけど、こちらもさっぱりである。そして歌唱の方も、さっぱりどころか、崖から今にも落ちそうなほどピンチだ。
これで歌唱と振り付け同時にというのだから、あの大人たち鬼である。
実技試験とも言える課題曲。時間はフルタイムではなく、前奏から最初のサビまでの一分半。三人一斉に受けるのではなく、一人ずつ行うと言われた。企業の面接のような試験官は設けず、マネージャーが実技試験の様子を動画に撮って、後日事業部の方で評価するそうだ。
三人一緒ではないというところに、不安と寂しさを抱いてしまう。
まだ先の話しだというのに、樹は試験の事を少し考えただけで緊張していた。
二人が映像を見ている隙に、手のひらにじんわりと浮かんだ汗を拭う。
ごしごしとズボンに手のひらを擦り付けていると、直哉と大の声が耳に響いた。
「ぶっちゃけ、デモだけ見聞きしても、曲のイメージ浮かばないよね」
「あ? ああ、そうだな」
「これ、誰の曲って言ってたっけ?」
直哉に問われて、大の動きが止まる。彼の頭の上にはクエスチョンマークが浮かんでいた。
「そういえば、楽曲の持ち主の名前聞いてなかった。誰のやつだ?」
樹も言われて首を傾げた。
そういえば、曲と振り付けは教えてもらったけど、誰の楽曲までは教えられていない。
実技試験に関する書類の束を読み返しても、やはり楽曲名だけ載っていて、歌唱者や作詞作曲者の情報は出ていなかった。
振り付けを覚えるのに与えられたDVDは、振り付け師見習いの人が踊ったものを録画したやつなので、歌唱者本人の情報は一切出ていない。
聞き覚えはある。凄く、うろ覚えだけど。最近発売されたものではない。もっと前。それこそ、自分たちがまだ小さな男の子だった頃だ。
でも、聞いたことはあるのだ。なぜだかは、樹本人もわからない。
うーんと唸っていると、思い出すことに諦めたのか、悩む時間の無駄だと思ったのかは謎だが、直哉がスマートフォンで検索を開始する。
「文明の利器はこういう時に使うんだよー」
「ただせこいだけじゃね?」
「せこくないですー」
直哉のスマートフォンが検索結果を表示する。
直哉は画像一覧に出ていた人物を見て「あ……」と声を漏らした。
「どうしたの?」
「これ見て」
画面に映る男を認めて、樹は大と一緒に「あ!」と声をあげた。
「鬼頭マネージャー?」
「そういえば……アイドルだったんだっけ? あの人も」
入る頃、初めて彼と顔を合わせた時に、花房という男が言っていた気がする。花房は鬼頭が現役だった頃に彼のマネージャーをしていたと笑っていた。
「鬼頭さんの歌か……泉さん持ってるんじゃないの?」
直哉が樹に投げる。
投げられた方は「え?」と漏らして、空気を止めた。
「だって泉さん、あの人のファンだったんでしょう?」
「いや、まあ、本人はそう言ってるけど……」
言ってはいるけど、姉の泉がアイドルを推している姿を、樹はまじまじと見たことがない。グッズを眺めている姿も、CDを聞いている様子も無かった。母と一緒に、音楽番組やバラエティー番組を見ている途中で話題にすることはあったが、偶々だと思っていた。
見ていた番組に偶々アイドルが出ていたから、口にしただけだと思っていた。
泉の口から、「実はこの人を応援してたのよ」と聞かされたのは、鬼頭昴と初めて会った日だ。顔には出さないようにしたが、胸の内側では心底驚いていた樹である。
姉がアイドルを推していたことも、その推しが今は弟のマネージャーをしていることも、樹はその時に初めて知った。
そして、時間が合えば二人並んで歩いて帰るほど距離が近いことも、その時気づいた。
事務所から出た後、泉が帰る時間まで街をぶらぶらとして、いざ夕方になって待ち合わせの駅へ行けば、姉と一緒にあの男(マネージャー)が居たのである。
その場の流れで、夕飯を食べに五人でファミレスへ寄って、頼んだ物を待っている間に、泉と鬼頭はどういう関係なのかと直哉が斬り込んだ。樹から見る二人の出会いは、完全に少女漫画のそれで。あの男も姉の方も、関係が進むのはまんざらでもないという空気で、聞いていて恥ずかしくなり、僅かながらの寂しさと胸を焼き尽くさんばかりの怒りを抱いた。
ズバズバと聞いていた本人(なおや)は、嫉妬したのかなんなのか、ドリンクバーで注いできたメロンソーダをずごごと音を立てながら飲んでいた。
マネージャーと顔を合わせたあの日から、約一ヶ月。
その間、姉は「この雑誌読んでみれば?」と、若手アイドルが載っている雑誌を寄越して来ることはあっても、マネージャーのCDを出すことはなかった。
「持ってるかどうかわからないよ」と、樹がこぼすと、大が閃いた様子を見せ口を開く。
「開かずの扉にあるんじゃね?」
「俺が死んでもいいの? 大ちゃん」
「こっそり行ってみれば大丈夫だよ」
「お前らは、マジギレした姉ちゃんを知らないから言えるんだ……!」
開かずの扉は、泉の部屋にあるクローゼットの事だ。中には普段着の他に、泉が買ったアニメのグッズやCD、同人誌等が入っている。
「絶対に開けるなよ」と、小学校の頃から耳にたこができるほど言われていた。
この場にいる三人で、何度か開けてみようと挑戦してみたが、扉に貼られた【熊注意】の標識風ステッカーに怖じ気づいて、開けず仕舞いで終わっている。この歳で開けに行ったのが泉に知れたら、拳骨一発では済まないと、樹は身震いした。
おまけに、今日は姉も休みで家に居るのだ。今ごろ、リビングで録画したドラマかアニメを見ていることだろう。
「無理無理」
樹は頭を横に振るも、直哉がぽんと肩に手をのせて来る。
「いざとなったら、助けてあげるから」
「嘘つけ! お前が姉ちゃんに勝てるわけないだろ!」
「声がでかい! バレちゃうでしょう!」
「いや、二人とも声でかいわ」
結局、ジャンケンで開かずの扉に挑戦するメンバーを決めて、樹と大が勇者に選ばれた。
言い出しっぺの直哉は、安全地帯(たつきのへや)で収穫を待つのみである。
「何で言い出しっぺが行かないんだ」という小言を声音を潜めながらしつつ、泉の部屋に入室する。
弟の樹でも用が無ければ立ち入らない、姉のプライベート空間だ。
忍び足で足を進めて、開かずの扉に向かう。
クローゼットには、まだあの【熊注意】スッテカーが貼られたままだ。
「まーじで、開けるのか?」
大が渋い表情を見せて問う。
樹は「しょうがないよ」と、自分に言い聞かせるように返した。
「それに、俺も本人(マネージャー)がどういう感じで歌ってたのか見たいし」
検索したら出てくるのだろうが、公式サイト以外が投稿している画像や動画は違法投稿された物だ。違法な物は見たくない。
意を決して、クローゼットのノブに手を伸ばす。
姉の声が、耳元で聞こえたのはその時である。
「お姉ちゃんの部屋で、なーにしてるの?」
この日あった出来事は殆ど覚えていないけど、かつてないほど優しい声音が凄く怖かったのだけは覚えている。