first stage ワタリガラスの止まり木
#ヴァンド
「大型連休来るの早いねえ。この間来たような気がするんだけどー」
雅臣が、事務室に掛けている日めくりカレンダーをめくる。
四月は何事も無く終わりを迎えとしていて、明日からは雅臣がこぼしたように大型連休だ。
少年三人が事務所にやって来てから、月が一つ終わる。レッスンは問題なく順調に進み、先週からやっとダンスの基礎ステップを学ぶ段階に入った。
入った当初は体幹トレーニングが主であったが、三人は元々の体幹が良かったので、基礎ステップを組み込んでも大丈夫だろうと鬼頭とハル先生、そして雅臣で判断した結果である。
鬼頭は雅臣の呟きを聞きながら、事務室に置かれたホワイトボードの予定表に【外出中】の札を張り付け、その隣に自分の名字を書く。
これから、雅臣をラジオ局まで送るのだ。
生放送ではなく録り溜めである。今日は二本録りだったはずだ。
「お前、一人で行けよなあ」
「やだあー。帰りの運転疲れちゃうもん」
「俺だって疲れるわ」という言葉を呑み込んで、「行くぞ」と声をかける。
どたんばたんと騒がしい音で扉が開き、もう疲れてしまったという気持ちがふんだんに込められた情けない声が、二人の耳朶を突いた。
「雅臣さーーーーん! 助けてくださーーーーいっ!」
びえっと、雅臣の服にすがりついたのは、今年入社二年目の新人マネージャー、渡和成(わたり かずなり)だ。今年度は豪華炎乱の補佐マネージャーをしていて、主に雅臣の管理をしている。
和成がいるなら、鬼頭が雅臣を送っていく必要はないのだが、和成は和成で他の若いユニットの面倒も見ているのである。
その若いユニットは、鬼頭が受け持っている少年たちよりも二ヶ月早く事務所入りして、デビューに向けたレッスンを受けているはずだ。ただ、閉鎖を決めた事務所から常務が直接拾ってきた子なので、いささか態度が大きいのである。本人たちは、行くあてがないから拾って貰ったというより、実力があったから拾ってもらったと思っているのだろう。
和成から聞く限りでは、レッスン中の態度も脱力気味で、彼らの先生も手を焼いているそうだ。
先生でも手を焼くのだ。若手マネージャーの和成は、どうしたらいいのかと取り乱してもおかしくないだろう。
「今日は、ハルがいないんだよなあー」
こういう時、問題有りな後輩の躾は春高が行っている。
その春高は、今日は殺陣の稽古に出ていて不在だ。
「うーん……僕が言いに行ってもいいけど、パワハラだって言われたら嫌だしなあ」
「週刊誌に売り渡されそうですしね」
眉尻を下げる和成に、鬼頭は首を傾げた。
「週刊誌の常連みたいなものだからなあ…………売っても大した金額にはならんだろう」
「そうそ……違う! 酷い! なんてこと言うんだ!」
食って掛かる雅臣に「本当のことだろう」と、至極真面目に返す。
「そういう昴くんも、抜かれたことあるでしょうが!」
「お前よりは少ない!」
「胸を張って言うことでもないかと……」と、和成が突っ込みを入れたところで、外に出ていた豪華炎乱の正式マネージャー花房が戻り、自分の現役アイドルと元アイドルを視界に入れて目を丸くした。
「まだ居たのか、お前ら。そろそろ出ねえと遅刻するぞー」
「あ、すみません! 僕が引きとめてしまって……!」
「いいって。いいって。とりあえず、励まない子たちをなんとかしてくれってことでしょう。僕たちの方でも考えとくよ。まあでも……」
今励めない子達は、デビューしても転落するだけだろうね。
ドレミの音が、体育館に響き渡っている。その音に混ざるのは、どたばたとした駆け足の音と走っている者への声援。
四月末の春から初夏へと季節が切り替わろうとしている中、少年三人が通う高校ではシャトルランが行われていた。この学校は、スポーツテストの持久力を見る項目で、シャトルランを選択したらしい。持久走を行う学校もあるようだが、少年たちは小学校、中学校とシャトルランだった。チェックの付け方も走り方も、慣れたものである。
慣れたものではあるが、少しずつ早くなるドレミの音階に、樹は高校生男子の平均を越える少し前から息が上がっていた。
樹は運動が嫌いというわけではない。小さい頃は水泳教室も通っていたし、兄たちに教えてもらって子供会の野球チームに入っていた時期もあるし、体操クラブに通っていたこともある。
でも、嫌いなものと苦手とするものは別だ。樹は、持久走が苦手だった。直哉と大がすいすいと走っていても、樹だけは早々に体力を切らしている事が多い。
だから、事務所のレッスンを受けている時も、最初に息を切らすのは樹だ。先生からも、君の課題は持久力だねと直ぐ見抜かれた。
樹は息を切らしつつも、二十メートル幅の短くて遠い距離を、ドレミのドの音よりも早く床に貼られた白いテープを踏み、ドの音が始まると同時に走り出す。もう何度、この二十メートルを往復しているのかわからない。放送の中でカウントも出ているけど、音ばかり気になってカウント数は耳の穴をすり抜けてばかりだ。
音に足が合わなくなる。
音に置いていかれている。
白いテープを踏むタイミングが、徐々に徐々に遅くなっているのが自分でもわかる。
そして、二回続けてテープを踏むのが間に合わなかったところで、樹のシャトルランは終わった。
樹は息を整えながら、よたよたとした足取りでテープに沿って並ぶクラスメートたちの所へ戻る。
大が「お疲れ」とまず声をかけてきて、樹のチェックシートに印をつけていた直哉が「おかえり」と出迎えた。
「疲れた……しんどい……」
倒れるようにして、床に膝をつく。息はまだ上がったままだ。
「でも、去年よりは走れたんじゃない? 九十回いったよ」
「ほれ」と、チェックシートの紙を渡してくる。
九十四回。九十五回と九十六回目で失敗したようだ。
確かに、去年よりは走れたかもしれない。去年は八十回そこそこだった。が、樹としてはもう少し走りたかった。
「せめて百は行きたかったなあ……」
紙を片手に、肩を落とす。
持久力をつけるレッスンを取り入れるようになったから、少しばかり百回いけるのではと期待していたのだが、元々の持久力が低かったようだ。
樹と走っていた組の、最後まで残っていた生徒が拍手で迎えられる。
その生徒も疲れた表情をしているが、やりきったという輝きに満ちていた。
その姿に、ステージに立つアイドルの姿が重なる。
「俺さあ……」
「うん?」
樹のぼやきに、大が反応する。
「ライブとかコンサートとか……最後まで居られるかな……」
大が目を丸くする気配がする。
直ぐそこにいる直哉は特に何の反応も出さない。聞いてはいるだろうが。
聞いた限りでは、アイドルのライブやコンサートは二時間ないし二時間半が定番で、三時間やるときもあるという。
樹は、ちゃんと最後までステージに居られるだろうか。
樹のぼやきが、ほんの少しだけ三人の空気を重たくする。
大が口を開こうとした矢先、直哉と大の番がやってきた。
「ま……大丈夫じゃねえの」
よいせと立ち上がりつつ、大が樹の頭をぽんと叩く。
「そうかなあ……」
「そうそう。それに、三十分も一時間もぶっ続けでやらないだろうし。MCとかも入ってくるだろう」
あんまし、よく見たことねえけどさ。
テープの前に、大と直哉が並ぶ。
直哉が軽めのストレッチをしながら、ようやく口を開いた。
「俺のシート、チェックつける場所間違えないでね」
「あ、うん」
鐘が鳴って、ドレミの音が再び鳴り響く。
二人の友が着々と印を積み重ね、百を数え、その先も印は続いていく。
大は、最後の三人まで残ったところで、失敗が二回続いて脱落した。
直哉は大が抜けた後もしばらく続けて、百二十回丁度を数えたところで勝手に止めていた。
途中で放り出した直哉にも、頑張りを讃える拍手がパラパラと送られる。
息を整える為、のんびりまったりと体育館を歩く彼の姿を見ていたら、樹の胸がなんだか痛くなった。
同じように遊んで、同じように育ったはずなのに、この差はどこで生まれたのだろう。
「大型連休来るの早いねえ。この間来たような気がするんだけどー」
雅臣が、事務室に掛けている日めくりカレンダーをめくる。
四月は何事も無く終わりを迎えとしていて、明日からは雅臣がこぼしたように大型連休だ。
少年三人が事務所にやって来てから、月が一つ終わる。レッスンは問題なく順調に進み、先週からやっとダンスの基礎ステップを学ぶ段階に入った。
入った当初は体幹トレーニングが主であったが、三人は元々の体幹が良かったので、基礎ステップを組み込んでも大丈夫だろうと鬼頭とハル先生、そして雅臣で判断した結果である。
鬼頭は雅臣の呟きを聞きながら、事務室に置かれたホワイトボードの予定表に【外出中】の札を張り付け、その隣に自分の名字を書く。
これから、雅臣をラジオ局まで送るのだ。
生放送ではなく録り溜めである。今日は二本録りだったはずだ。
「お前、一人で行けよなあ」
「やだあー。帰りの運転疲れちゃうもん」
「俺だって疲れるわ」という言葉を呑み込んで、「行くぞ」と声をかける。
どたんばたんと騒がしい音で扉が開き、もう疲れてしまったという気持ちがふんだんに込められた情けない声が、二人の耳朶を突いた。
「雅臣さーーーーん! 助けてくださーーーーいっ!」
びえっと、雅臣の服にすがりついたのは、今年入社二年目の新人マネージャー、渡和成(わたり かずなり)だ。今年度は豪華炎乱の補佐マネージャーをしていて、主に雅臣の管理をしている。
和成がいるなら、鬼頭が雅臣を送っていく必要はないのだが、和成は和成で他の若いユニットの面倒も見ているのである。
その若いユニットは、鬼頭が受け持っている少年たちよりも二ヶ月早く事務所入りして、デビューに向けたレッスンを受けているはずだ。ただ、閉鎖を決めた事務所から常務が直接拾ってきた子なので、いささか態度が大きいのである。本人たちは、行くあてがないから拾って貰ったというより、実力があったから拾ってもらったと思っているのだろう。
和成から聞く限りでは、レッスン中の態度も脱力気味で、彼らの先生も手を焼いているそうだ。
先生でも手を焼くのだ。若手マネージャーの和成は、どうしたらいいのかと取り乱してもおかしくないだろう。
「今日は、ハルがいないんだよなあー」
こういう時、問題有りな後輩の躾は春高が行っている。
その春高は、今日は殺陣の稽古に出ていて不在だ。
「うーん……僕が言いに行ってもいいけど、パワハラだって言われたら嫌だしなあ」
「週刊誌に売り渡されそうですしね」
眉尻を下げる和成に、鬼頭は首を傾げた。
「週刊誌の常連みたいなものだからなあ…………売っても大した金額にはならんだろう」
「そうそ……違う! 酷い! なんてこと言うんだ!」
食って掛かる雅臣に「本当のことだろう」と、至極真面目に返す。
「そういう昴くんも、抜かれたことあるでしょうが!」
「お前よりは少ない!」
「胸を張って言うことでもないかと……」と、和成が突っ込みを入れたところで、外に出ていた豪華炎乱の正式マネージャー花房が戻り、自分の現役アイドルと元アイドルを視界に入れて目を丸くした。
「まだ居たのか、お前ら。そろそろ出ねえと遅刻するぞー」
「あ、すみません! 僕が引きとめてしまって……!」
「いいって。いいって。とりあえず、励まない子たちをなんとかしてくれってことでしょう。僕たちの方でも考えとくよ。まあでも……」
今励めない子達は、デビューしても転落するだけだろうね。
ドレミの音が、体育館に響き渡っている。その音に混ざるのは、どたばたとした駆け足の音と走っている者への声援。
四月末の春から初夏へと季節が切り替わろうとしている中、少年三人が通う高校ではシャトルランが行われていた。この学校は、スポーツテストの持久力を見る項目で、シャトルランを選択したらしい。持久走を行う学校もあるようだが、少年たちは小学校、中学校とシャトルランだった。チェックの付け方も走り方も、慣れたものである。
慣れたものではあるが、少しずつ早くなるドレミの音階に、樹は高校生男子の平均を越える少し前から息が上がっていた。
樹は運動が嫌いというわけではない。小さい頃は水泳教室も通っていたし、兄たちに教えてもらって子供会の野球チームに入っていた時期もあるし、体操クラブに通っていたこともある。
でも、嫌いなものと苦手とするものは別だ。樹は、持久走が苦手だった。直哉と大がすいすいと走っていても、樹だけは早々に体力を切らしている事が多い。
だから、事務所のレッスンを受けている時も、最初に息を切らすのは樹だ。先生からも、君の課題は持久力だねと直ぐ見抜かれた。
樹は息を切らしつつも、二十メートル幅の短くて遠い距離を、ドレミのドの音よりも早く床に貼られた白いテープを踏み、ドの音が始まると同時に走り出す。もう何度、この二十メートルを往復しているのかわからない。放送の中でカウントも出ているけど、音ばかり気になってカウント数は耳の穴をすり抜けてばかりだ。
音に足が合わなくなる。
音に置いていかれている。
白いテープを踏むタイミングが、徐々に徐々に遅くなっているのが自分でもわかる。
そして、二回続けてテープを踏むのが間に合わなかったところで、樹のシャトルランは終わった。
樹は息を整えながら、よたよたとした足取りでテープに沿って並ぶクラスメートたちの所へ戻る。
大が「お疲れ」とまず声をかけてきて、樹のチェックシートに印をつけていた直哉が「おかえり」と出迎えた。
「疲れた……しんどい……」
倒れるようにして、床に膝をつく。息はまだ上がったままだ。
「でも、去年よりは走れたんじゃない? 九十回いったよ」
「ほれ」と、チェックシートの紙を渡してくる。
九十四回。九十五回と九十六回目で失敗したようだ。
確かに、去年よりは走れたかもしれない。去年は八十回そこそこだった。が、樹としてはもう少し走りたかった。
「せめて百は行きたかったなあ……」
紙を片手に、肩を落とす。
持久力をつけるレッスンを取り入れるようになったから、少しばかり百回いけるのではと期待していたのだが、元々の持久力が低かったようだ。
樹と走っていた組の、最後まで残っていた生徒が拍手で迎えられる。
その生徒も疲れた表情をしているが、やりきったという輝きに満ちていた。
その姿に、ステージに立つアイドルの姿が重なる。
「俺さあ……」
「うん?」
樹のぼやきに、大が反応する。
「ライブとかコンサートとか……最後まで居られるかな……」
大が目を丸くする気配がする。
直ぐそこにいる直哉は特に何の反応も出さない。聞いてはいるだろうが。
聞いた限りでは、アイドルのライブやコンサートは二時間ないし二時間半が定番で、三時間やるときもあるという。
樹は、ちゃんと最後までステージに居られるだろうか。
樹のぼやきが、ほんの少しだけ三人の空気を重たくする。
大が口を開こうとした矢先、直哉と大の番がやってきた。
「ま……大丈夫じゃねえの」
よいせと立ち上がりつつ、大が樹の頭をぽんと叩く。
「そうかなあ……」
「そうそう。それに、三十分も一時間もぶっ続けでやらないだろうし。MCとかも入ってくるだろう」
あんまし、よく見たことねえけどさ。
テープの前に、大と直哉が並ぶ。
直哉が軽めのストレッチをしながら、ようやく口を開いた。
「俺のシート、チェックつける場所間違えないでね」
「あ、うん」
鐘が鳴って、ドレミの音が再び鳴り響く。
二人の友が着々と印を積み重ね、百を数え、その先も印は続いていく。
大は、最後の三人まで残ったところで、失敗が二回続いて脱落した。
直哉は大が抜けた後もしばらく続けて、百二十回丁度を数えたところで勝手に止めていた。
途中で放り出した直哉にも、頑張りを讃える拍手がパラパラと送られる。
息を整える為、のんびりまったりと体育館を歩く彼の姿を見ていたら、樹の胸がなんだか痛くなった。
同じように遊んで、同じように育ったはずなのに、この差はどこで生まれたのだろう。