first stage ワタリガラスの止まり木


#バズリンアイドル
#ヴァンド

 樹は、事務所の地下にあるレッスン室でそわそわと落ち着かない様子を見せていた。

「緊張する……」

 手を頻繁に擦り合わせて、吐息を吹きかける。
 緊張しているからか、それともこの室内が乾燥しているのか、妙に手が寂しくて、肌も乾燥している気がする。
「うーん、うーん」と唸っていると、背後から前触れも無く両肩にぽんっと手を置かれた。

「うわっ」

「まあまあ、落ち着きなさいよ。樹くん」

「そうだぞー。今日はレッスンを担当する先生たちとの顔合わせと、軽めの運動だって、言われてるだろう」

 ぽんと両肩を叩いたのは直哉で、気怠い口調で言葉を続けたのは大だ。

「いや、まあ、そうだけど……」

 何で、この二人は余裕綽々なのだろうか。
 確かに、今日は顔合わせと三人の身体能力を見る為に軽めの運動をするだけだとマネージャーから言われている。
 けれど……と、樹は部屋にある鏡を見やる。
 壁一面を埋める形で設置された鏡。板張りの床に、レッスンで使われる電子ピアノと、ヨガマット。後は、荷物を置く長机とパイプ椅子が数脚あるだけ。地下なので窓はなく、レッスン室だと言われなければ閉鎖的な会議室だと思ってしまう窮屈な部屋だ。
 三人が踊って歌うレッスンをするには、十分な広さがあるけれど。
 この窮屈さにも、通い続けたら慣れるのだろうか。
 樹が緊張をやり過ごそうとしている間、直哉が凝り固まった樹の肩を揉む。
 ぐりぐりと肉を掴まれ、押されて、痛いんだが気持ちいいのかもわからない。
 頭の中は先生のことと、レッスンのこと、そしてこれからの事でいっぱいだ。
 兵藤樹は、アイドルをやれる器なのだろうか。

「直ちゃんはレッスン終わったら、家庭訪問だっけ?」

 大が直哉に問う。
 直哉が頷く気配を、樹は背中で感じ取った。
 家庭環境を見るという名目で行われた、マネージャーによる家庭訪問。
 樹と大は、レッスンが始まる前に完了したが、直哉の家は親の都合がつかず、今日のレッスンが終わってからということになったのだ。
 親と……特に母親と不仲の直哉は「気乗りしない」と、肩を落とした。
 見栄っ張りな母親の事だから、直哉の性格やできる事を盛って話すに違いない。嘘で塗り固めた自慢話には、もううんざりだ。

「学校の家庭訪問も嫌だったのに……」

 樹は、力無く呟かれた言葉を聞いて、くるりと身体の向きを変える。
 僅かな差ではあるが、自分よりも上にある直哉の目を覗き込みながら、樹も直哉の肩に手を置いた。

「だいじょーぶ。直ぐ終わるよ」

 樹の所に鬼頭が来たときは、契約の話を親にしただけで、親の仲だとか経済状況とか、深い場所まで入ってくる事はなかった。鬼頭の態度も、学校の先生が見せるもと変わりなかったと思う。
 あの男の顔色が変わった瞬間を強いてあげるなら、家庭訪問での鬼頭の態度も事務所で何かあった場合の緊急連絡先が両親ではなく、姉の泉に決まった場面だろうか。
 泉の会社が事務所に近いから、親よりも先に対応できるという事で両親がオススメしたのだが、親が申し出た時、あの男(マネージャー)は僅かに反応が遅れていた。
 本当に僅かな反応だ。両親も姉も、男の微妙な変化に気づかず、とんとん拍子で話しは進み、二人は連絡先を交換するに至った。

「迷惑行為してきたら、直ぐクビにしてやる……」

「…………何の話?」

「なんでもない、こっちの話」

 ぽんぽんと肩を叩いて、訝しむ直哉を落ち着かせる。
 緊張を解して貰っていたのに、気づけば宥める側に回っている。
 小さい頃から一緒に行動しているせいか、樹が心折れそうになったときは直哉が支え、直哉が折れそうになったときは樹が支えるという流れが出来上がっていた。大は、二人揃って折れた時に支えてくれる縁の下の力持ちだ。今も、二人のやり取りを見守りつつ、周囲に気を配っている。
 樹が、口を挟まず、黙って寄り添ってくれる大に「ありがとう」と口を開きかけたところで、レッスン室の扉が二度打ち鳴らされた。
 乾いた音に、三人の肩がびくりと揺れる。
 三人分の瞳が扉に向けられるのと同時に、男が二人レッスン室に入室した。
 片方は、マネージャーの鬼頭昴だ。いつもの仏頂面で、ファイルを四冊脇に抱えている。
 もう片方は、樹たちは初めて見る男であった。
 肩よりも少しだけ長く伸ばした、青とも灰色とも言えない髪。身長は鬼頭より低いものの、四月から高校生になる樹たちに比べれば十分高いだろう。鬼頭はスラックスとワイシャツという出で立ちだが、男の方は半袖のシャツに運動用のパンツと動きやすい装いだ。年齢も鬼頭より若い気がする。人に好かれそうな顔立ちがそう思わせるのかもしれない。
 男の方がレッスンの先生だなと、少年三人は視線でやり取りした。
 団子状態で固まったままの三人に、男は柏手を二回打ってから口を開いた。

「はいはい、ぼさっとしないよー。手を広げてもぶつからない間隔で、横一列で並んでくださーい」

 戸惑いながらも指示に従って、手を広げながら距離を確認しつつ、樹を中心に横並びになる。樹の右腕側が直哉、左腕側が大だ。
 三人が位置についたところで、鬼頭が持っていたファイルを一冊ずつ三人に渡し回る。残った一冊は自分用らしい。
 中を開けると、体幹トレーニングと書かれた表紙がまず目に入った。

「それでは、新人用のレッスン、一日目を始めます」

 鬼頭の声が静かなレッスン室に凛と響き渡る。
 尖った視線が大に向けられた。

「萩原、今日一日号令係りな」

「オレッ⁉」

 突然の指名に大の声がひっくり返り、樹の右側で直哉が笑いを噛み殺す。
 わたわたと狼狽える大の姿に、男が「元気でよろしい」とにこやかに口を開いた。

「学校の授業と同じ感じでいいよ」

「え、えーっと、【姿勢を正してー】」

 樹と直哉の背筋が、大の号令に反応してピンと伸びる。

「【礼】」

「お願いしまーす」と、三人分の声と同時にお辞儀をした後で、男も「お願いします」と頭を下げた。
 再び頭を上げた男の顔には、やはりにこやかな笑みがある。
 樹は、優しそうだなと思うと同時に、どこかで見覚えがある顔だなとも思った。
 じっと観察しようとしたところで、鬼頭の声に引き戻される。

「今、三人の前に立っているのが、今日から指導してくれるはるた、」

「ハル先生」

「……だそうです」

 鬼頭の紹介を【ハル先生】は自ら遮って名乗り、遮られた方は渋い表情を見せた。今にも盛大に舌を打ちそうな雰囲気だ。
 咳払いを一つしてから、鬼頭は残りの説明をハル先生に促す。

「はい。ただいまご紹介に預かりました、今日から君たちに色々教えます、ハル先生です。色々、至らない点もあるけどよろしくね」

 ハル先生は、にこにこと歩く楽しげに笑いつつ、胸の前で両の手のひらを合わせる。

「オレが預かった以上、君たちには今日から、黒毛和牛を目指してもらいたいと思います」

 三人の頭上に、クエスチョンマークと緑色の野原で草を食べる黒毛和牛の姿が浮かぶ。

「黒毛……?」

「和牛……?」

 首を捻る樹と大に、春高は視線を向けながら言葉を続けた。

「いいかい? この業界は実力主義な面もありますが、世間や業界から送られる君たちへの評判や好感度で、未来が決まってきます。どんなに実力があっても、こいつら評判悪いとか人気ないとか知られてしまったら、仕事のオファーは来なくなります。びっくりするくらい、スケジュール真っ白」

「はっはっは」と、春高は笑っているが、遠い昔の記憶が頭に浮かんでいるらしく、死んだ視線が遠くに向けられている。
 この先生は見たことあるのだろうか。びっちりと詰まっていた予定が、一夜にして真っ白になってしまった定表を。

「そうならない為に、誰が見ても【わあ、美味しそう】と言ってもらえる黒毛和牛を目指して行きましょうね。わかりましたか?」

 思考の処理が追い付かない三人は、呆然としたままハル先生を見てばかりだ。
 ハル先生は柏手をもう一度打ってから「わかりましたか?」と、問いかけ直す。
 ようやく、「あ、返事をしないといけないのか」と気づいて、三人は「はい」と言葉を返した。

「俺のレッスンでは、問われたらちゃんと返事をするんだよ。わかったね?」

「はい、先生」

「よくできました。それじゃ、レッスンを開始しようね。まずは、君たちの今の身体能力をチェックさせてもらうね」

 春高の説明を聞きつつ、樹は控えている鬼頭を盗み見る。
 鬼頭はファイルに挟まれたレッスンの行程を静かに眺めたままで、口を出す気配は無かった。
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