first stage ワタリガラスの止まり木

#バズリンアイドル
#ヴァンド

 鬼頭は腹の底から息を吐き出して、事務室にある自分の椅子に深く腰掛けた。
 出勤してきたばかりだというのに、肩にどっとのし掛かる疲労に襲われている。
 慣れない電車通勤のせいか。その電車通勤も、今日で最後だ。夕方には、車検を終えた自分の車が帰ってくる。
 が、この疲労は通勤によるものではないと、自覚していた。
 眉間に寄るシワを指の腹で揉み解していると、腐れ縁の喧しい声音が鬼頭の名を呼んだ。
 指の隙間から視線を事務室の扉へ向ければ、キラキラと輝く眩しい笑みと赤毛が視界に入る。
 ゆとりがある長袖の上に春物の薄いコート、色褪せたジーンズパンツと量販店のスニーカーという出で立ちを見て、この男も今しがた出勤して来たのだろうと察した。

「朝からうるさいぞ、マサ。……現役なら、もう少し服に金かけたらどうだ」

「えぇーー。いいじゃん、いいじゃん。それに、今は古着スタイルが流行ってるんだよ昴くん。って、僕の話はいいんだよ。例の子どもたちに会ったんだろう? どうだったー?」

 まだ持ち主が出勤していない、隣の椅子にどかりと腰を下ろす。
 急な重みに耐えられなかったのか、椅子がぎぃぎぃと悲鳴を上げた。
 一度息を吐き出してから、鬼頭は子どもたちに会った昨日の事を思い出す。
 直哉(クソガキ)が発した「戦力外通告」に関しては敢えて省き(省いたところで花房の方から雅臣の耳に入れそうだ)、自分の印象を伝えた。

「よく言えば、令和のズッコケ三人組だな。伸びるか伸びないかは本人次第」

「伸びるかどうかは、君の腕次第でもあるんじゃない?」

 雅臣が、己の顔にかかる髪を耳にかけつつ発言する。
 鬼頭の中を覗き見るように、視線が冷たく鋭利な物に変えられていく。
 まあ、確かにそうだ。伸びるかどうかは、マネージャーのマネジメント次第。
 将来の事を見据えつつ、今の子どもたちに合った教育(レッスン)をさせ、ほどほどに顔が広がる仕事をさせながら、人脈を広げていく。
 この世界は実力主義でもあるが、人脈も重要だ。ドラマ一つ出るにしても、製作する側に顔が利くかどうかで、与えられる枠も変わってくる。大手のプロダクションは、スケジュールに穴を見つけるのも難しい売れっ子を出演させる時に、これから売り出すタレントを一緒に出演させるなら出すという手法をよくやっていた。音楽番組も同様だ。
 鬼頭も、デビューした頃は先輩とセットで出ることもあったし、晩年は後輩と一緒に出ることもあった。
 隣に座る男もそうだ。見た目と性格はさておき、芸歴はバーターをつけられる程長くなった。子どもたちを売り出す時は、この男と一緒に仕事をさせる事もあるだろう。

「他はどうだった? 性格とか雰囲気とか」

 問いを投げられるやいなや、鬼頭は額を手で覆った。
 この世の終わりみたいな友の行動に、雅臣がぎょっと目を丸くさせる気配を感じる。

「え? なに? ヤバそうな感じ? 生意気さが大気圏突破してる感じ⁉ 一発絞めようか?」

「生意気……いやまあ確かに一人は生意気……そうじゃない。そうじゃなくて」

 一言ずつ距離を詰めてくる雅臣に「絞めんでいい」と片手で押し退けつつ、言葉を続ける。

「三人組の中に【はがしの女】の弟がいた」

 ◇  ◇  ◇

「樹……?」

 呆然としつつも、はっきりとした声音で彼女が口にした名前を繰り返す。
 ──俺は今、とんでもなく間抜けな表情をして、彼女を見ているんだろうな。
 彼女の言葉を反復するのがやっとの状況でも、妙に冷静な部分は残っていて自分で自分を分析するが、彼女は気にした素振りを一切見せず大きく頷いた。

「はい! 樹です! 兵藤樹! 私の弟です!」

「とっても良い子なんですよー」と、ニコニコという効果音が聞こえてきそうな笑みを彼女は見せる。
 うん、見事な明るい笑みである。出来ることなら、周囲に……というより他の人間にばら蒔かないで欲しいくらいの笑顔。
 絶対モテてるだろうな。信じられないくらい男の気配がないが、彼女の容姿は男が好みそうなものだ。
 こんな笑顔を向けられるのは、彼女と再会した冬以来だ。
 幾度か深い呼吸をして気を落ち着けた後、噛まないようにゆっくりと口を動かした。

「……担当、です」

「…………?」

 鬼頭の言葉を耳に受けた彼女が、きょとんとしたまま静止する。

「その子のマネージャー、俺です」

 少しずつ、言葉の意味を理解していったのだろう。
 真ん丸の目が、ゆっくりと大きく開かれる。彼女の手から力が抜けて、肩に下がっていた鞄がずり落ちた。

「うっそ……」

 彼女の口から、驚きに満ちた声音で単語がこぼれた。
 わかる。俺も信じられない。
 まさか、自分のファンだった女性の弟を自分が面倒見ることになるなんて、誰が思おうか。
 道路はびゅんびゅんと自動車が行き交っているのに、この場だけ音を遮断する膜に包まれたみたいで、沈黙の時間が流れる。
 気まずい。言わない方がよかっただろうか。
 本当に、経った数年前線から遠ざかっただけなのに、トークする力が衰えすぎである。
 この沈黙をどう破ろうかと思考を巡らせていると、彼女がびくりと肩を上げて、鞄の外ポケットに入れていたスマートフォンに手を伸ばす。

「ああ、ごめんなさい、弟からメールが……! 一緒に帰る約束してたんです……!」

「……電話してみたらどうです?」

 文字を打つよりも、話した方が早い時もある。
 歩道のど真ん中では邪魔になると、彼女を建物沿いに導いて、鬼頭は人間二人分ほど離れた場所で電話が終わるのを待つ。
 彼女の弟と違い、一緒に帰る約束を鬼頭はしていない。偶々、鉢合わせただけだ。このまま彼女を置いて駅へと向かってもいいのだが、中途半端な場所で会話を止めたまま帰るのは無責任だと思って、その場に残った。
「あのガキ、まだ帰ってなかったんだな」と、腕にある時計で時間を確認していると、電話を終えた彼女が戻ってきた。

「ごめんなさい……! 弟たち、事務所出たあとずっと遊んでたみたいで…………これ週刊誌に撮られてませんかね? 大丈夫ですかね⁉」

「あーー……その辺は大丈夫なはず。今日来たばかりだし、大人たちも気にせず歩き回ってますし」

 脳裏に喧しい腐れ縁の顔を思い浮かべつつ、言葉を返す。
 雅臣(あのバカ)は何度か女と歩いているところを撮られているが、今もこの世界に居座っている。
 今日来た子どもたちはまだ契約書を提出していないし、仮にこの帰り道で問題を起こしても事務所は「うちの人間じゃないので」と突っぱねられるはずだ。というか、子どもたちが週刊誌を気にするのはいささか気の早い話である。まだ俺の方が警戒すべきだ。
 そこに思い至ってから、鬼頭は思い出したように周囲を見回した。
 行き交う車。早足で駅に向かう人。
 その中に怪しい車や人物は見当たらない。
 あのサイン会を終えた頃から、道路に停まる車一台一台が敵に見えたものだし、電柱の影や木の影はもちろん、飲食店での隣席にも注意を払っていた。事務所を出入りする時も、事務所周辺に輩が来てないか確認してから動いていた。一連の行動は、辞めた今も変わらない。
 鬼頭昴というアイドルの輩(ファン)は、今も度々鬼頭昴という一般人の前に姿を現していた。
 彼女と鉢合わせたせいか、少しだけ気が緩んでしまった。ひとまず、今は何も居ないようだ。
 ──好きになってくれたのは有り難いが、好意というものにも限度がある。
 彼女と輩を鉢合わせる事にならなくて良かったと胸を撫で下ろしていると、首を傾げる彼女の姿が視界に入った。
 突然黙ってしまった男を不思議に思っている表情がそこにある。

「そろそろ、駅行きましょうか。弟さん待ってるでしょう?」

 彼女を弟に引き渡して、部外者はさっさと改札を抜けて電車に乗って帰る。
 そう考えて、駅前まで彼女を送って、先に来ていた彼女の弟に引き渡し「じゃあ、俺はこれで」と別れようとした刹那。
 左腕を、強い力で掴まれた。

「これも何かの縁ですし、一緒に夕飯でもどうですか? ……鬼頭マネージャー。アイドルの先輩と後輩、親睦を深めましょうよ。泉さんも来ますよ?」

 小鬼(クソガキ)が、泉(よわみ)背負ってやってきた瞬間である。

 ◇  ◇  ◇

 雅臣に、顔合わせの日にあった事を一通り話してから、肺にたまった息を吐き出す。
 腐れ縁の顔を確認すると、ぽかんと口を開けて間抜けな表情を見せていた。
 俺もこんな表情をしていたのかと思うと、彼女に幻滅されていないか心配である。

「まじで……?」

「マジだよ」

「……チャンスじゃん」

「…………は?」

 何を言ってるんだ、この男は。
 眼鏡越しにじっとりと湿った視線を送ると、腐れ縁は急に俺と間合いを詰め、肩をがっしりと掴んできた。

「【はがしの女】とお近づきになるチャンスじゃん!」

「はあ⁉」

 鬼頭の口から、裏返った声が飛び出る。
 何を突然言い出すんだ、この男は。心臓が変な跳ね方をして、胸の奥が痛い。あと、掴まれている肩も痛い。
「放せ、バカ」と、雅臣の手を外させてから、深い呼吸を二度繰り返す。

「……まだ脳みそが寝てるんじゃないか?」

「寝てませーん! 超ハッキリしてます! まさかとは思うけど、このチャンスを逃す気かい? 今まで独身貫いてたのは何の為⁉」

 痛い所を突いてきたと、渋い味が口の中に広がる。
 鬼頭昴は、年齢=彼女いない歴ではない。
 アイドルを辞める間際に、ドラマの共演で知り合った女優と恋人と呼ばれる関係になった事がある。なんなら、その女優とドラマの監督の三人で食事をしていたところを、週刊誌に撮られた事もある。
 時系列的には撮られた方が先だった。撮られた時は、根も葉もない記事を書かれたが、書かれた内容はいつしか現実になっていた。その関係も長くは続かない。
 深い関係を持ちかけてきたのは、女の方からだ。鬼頭ではない。誘われるがまま、流されるがまま、唇を重ねたり、身体を委ねたりしてみたけれど、女と何かする度にサイン会で出会った少女の姿が脳裏を過って、男女の営みもだが女にもすぐに冷めた。
 女の方は、心此処に在らずな男に愛想を尽かしたのだろう。女が別の俳優(おとこ)に乗り換えたと知ったのは、ワイドショーでの報道だった。
 女の方が二股交際をしていただの、鬼頭は捨てられただの、泥沼の三角関係だのなんだのと面白おかしく報道され、身内からも心配される声をもらったが、鬼頭は他人事のように冷めた態度で報道を見ていた。
 自宅まで突撃インタビューしてくる記者陣は腹立たしかったけど。
「私たちがついてるからね」と気を遣う出待ちファンも鬱陶しかった。
 そんな出来事もあって、芸能界を駆け巡る数多の色恋沙汰にうんざりして、鬼頭は三十半ばに差し掛かった今も独身だ。【はがしの女】とどうこうなりたくて、独身を貫いていたわけではない。
 それに、彼女も成人してから何年か経っている。男の一人や二人いてもおかしくないし、同世代には籍を入れてるやつもいるだろう。
 ──高校生だった彼女も、そんな歳になったんだな。
 無事に育って嬉しい反面、ちょっとした寂しさも抱く。
 どうこうなりたかったわけではないけれど、いざ他の男に行かれると、鬱々とした悔しさに襲われた。
 じんわりと広がるしんみりとした気持ちと、苦い思い出も相俟って、本日何度目になるかもわからないため息を吐き出した。

「悔しくなるくらいなら、取りに行けばいいのにー」

 雅臣が唇を尖らせて、ぶーたれる。

「年齢を考えろ、年齢を。どう見ても、十年は離れてるんだぞ」

「年の差婚なんて、芸能界じゃよくあることじゃん」

 離婚してしまったが有名な俳優さんと女優しかり、大御所芸人と一般人しかり、探そうと思えば年の差を気にせず添い遂げる意思を固めた恋人たちはいくらでもいる。

「気にするだけ損だよー。捕まえとけよー」

「…………カフェ店員をごり押しして落としたお前とは違うんだよ」

「えぇえーーーー」

 腐れ縁の、あの手この口で説得を試みる文句を受け流していると、朝の一服を済ませてきた花房が、鬼頭の名前を呼んだ。

「子どもたちのレッスン始まる前に、家庭の状況確認しておけよー」

「はい」

 鬼頭は花房と一言二言交わしてから、肩の力を抜いた。
「家庭訪問?」と、雅臣がスマホの画面を点灯させつつ問いかけて来る。
 色恋の話は一旦保留にしたようだ。あまりしつこくすると怒られるのをわかっているし、そもそも雅臣自身が追求されるのを嫌っている。
 やっと飽きてくれたかと胸の内で思いながら「正解」と返した。

「当たるとデカイからねえ。この業界」

 だから、色々な事情を抱えて入ってくる若者も多いのだ。
 もちろん、自分の意思や事務所に誘われて入ってくる者もいるが、家庭を支える為や、親の小遣い稼ぎを任されて訪ねて来る者も稀にいる。
 その場合、本人がやりたいと思っていればいいのだが、気が進まないと目に見えて判断できたら追い返し、目に見える暴力の痕があれば警察や児童相談所へ連絡を入れたりしていた。
 虐待を受けている子を所属させて、いざその子に何かあれば、「学校や担任は対応しなかったのか?」「近所の人は気づかなかったのか?」「仕事先は何をしていたんだ?」と一緒に糾弾されるのは目に見えている。
 会社も大きなリスクは負いたくはない。防げるものは未然に対処したい。その為の、家庭訪問だ。

「三人とも、見た目はなんともなかったんだけどな」

「わかんないよー。子どもって、隠すの得意じゃん?」

 知られたら恥ずかしいってことは特にさ。
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