second stage 疾風炎嵐

#バズリンアイドル
#ヴァンド

 フリールームを電子で作られたピアノの音と子どもたちが発声する音が包んでいく。
 ヴァンドで唯一ピアノを弾ける大が、子どもたちにせがまれて子どもたちが聴きたい音楽を、電子キーボードを使って弾いているのだろう。
 今回の病院ボランティア、お絵描き大会の後はお歌の時間を設けた。
 ヴァンドの人前で歌うという経験値を積み上げられるのももちろんだが、子どもたちの発育にも繋がる。
 声を出して歌うのは、心にも身体にも良いのだと、小児科の看護師長んが言っていたそうだ。
 樹は、控え室用の小部屋で鬼頭に指導されつつ、いつもしている発声練習を直哉と行う。
 歌の時間に歌声を披露するのは、樹と直哉の二人。大は伴奏だ。
 そして今日だけ限定で、マネージャーの鬼頭昴がギターを弾いてくれる。
 橘が「非公式とはいえ、引退したやつをステージに引っ張り出すんだから大したものだよ、君ら」と笑っていた。
 歌う曲は、アナと雪の女王から「生まれてはじめて」と「扉開けて」、アラジンの「ホールニューワールド」、トイ・「」の「君はともだち」、リメンバー・ミーから「リメンバー・ミー」の五曲だ。
 事前に歌ってほしい曲を子どもたちにアンケートで聞いて、得票数の多かった曲と、樹と直哉で歌い慣れているもの、大がすぐ弾けるものを選んだ結果だ。
 音程を確認した後お互いに向き合って、口と喉が開いているか、歌っている時の姿勢に問題がないか確認しながら、八つの音を腹の底から出す。
 樹は一通りの発声を終えると、直哉の左頬をぐにっと引っ張った。

「痛い……」

「なんか元気無くない? 直ちゃんの好きなディズニーだよ。アナ雪だよ? リメンバー・ミーだよ? 暗い表情で歌う歌じゃないよ?」

「ねえ?」と、鬼頭に話を振れば、考え込んでいる様子を見せながら「そうだな」と返ってくる。

「……そんなに暗い?」

「暗い暗い。ほら、もうちょいほっぺ動かして、目も開いて」

 ぐにぐにと、直哉の頬っぺたや額の辺りを揉みしだく。
「痛い、痛い」と言われたが、無視して揉んだ。

「もーう、樹ってば強引なんだからー、変態ー、むっつりー」

 ひとしきりマッサージをして解放すると、恨み節のような言葉を吐かれる。
「誰が変態でむっつりだ」と、奴の肩に拳を入れた。

「ちょっとは気が晴れた? 何を気にして塞ぎ込んでたわけ?」

「別に……」

 直哉は言葉を返しながら、樹から目を背ける。
 問わなくても、樹は直哉の調子が崩れた理由を察していた。
 きっと、妹のことを気にしているのだ。
 お絵描きの時間、麻希が「にいちゃんとかえる」と言ってぐずっていた。
 その場は橘が間に入って宥めてくれたが、直哉が家に帰らないという選択を続けている以上、いつまたぐずってもおかしくない。その事を気にしている。
 ヴァンドの副官は、母親や義父のことは許していないし、好きか嫌いかといえば、嫌い寄り。でも、妹たちは違う。妹たちのことは、大切にしている。寂しい思いはなるべくさせたくないと思っているし、泣かせたくないとも思っている。
 だからといって、今家に帰ったら、直哉の心が死んでしまう。
 母親と離れて暮らして、ようやく心も周囲の環境も落ち着いてきたのに、また元に戻ってしまう。
 麻希は橘の話で、直哉が家に帰らない理由をわかってくれただろうが、幼い妹が寂しいという気持ちをあっさりと消すことが出来たかというと、微妙なところである。ましてや、相手はまだ三歳。もう少しで四歳の誕生日が来るが、幼いことに変わりない。
 直哉は眉間にシワを寄せて悩む様子を見せる。
 家を出たことが、正解だったのか失敗だったのか、わからなくなっているようだ。
「難しい表情していると、眉間にシワが残るよ」と、指の腹で直哉の眉間を押す。

「…………っ⁉ なにすんの……⁉」

「気晴らし、気晴らしー」

 樹が微笑んで見せると、直哉はむすりと頬を膨らませた。
 直哉が口を開こうとしたところで「大丈夫」と言葉を被せる。

「直ちゃんは間違ってないよ。ていうか、間違っているかどうかも、まだわからないでしょう?」

「……そうかな」

 自信も無く、不安そうな表情で眉を下げる副官に、リーダーは「そうだよ」と頷いてみせた。

「だからさ、今日はもうなにも考えずに歌いなよ。直ちゃんが大丈夫だよって姿見せれば、麻希も大丈夫ってなるよ」

「小さい子って、大人をよく見てるから」と続けると同時に、橘が「そろそろ時間だよ」と呼びに来た。

「大君が子どもたちに囲まれて泣いてるよ」

「はーい。じゃあ、俺先行ってるから、直哉はその表情なんとかしてから来てね」

 直哉の肩を一つ叩いてから、樹は橘と小部屋を出る。
 あんな気弱な様子を見せていたが、ヴァンドの副官は大丈夫だ。
 二月も無事に帰ってきた。
 今回だって、ちゃんと帰ってこれる。
 それに、小部屋には鬼頭が残っている。
 直哉は鬼頭になついているから、樹が居なくなった隙に鬼頭(パパ)に甘えて、元気を分けてもらっているはずだ。


 二人っきりになった部屋で、直哉は大きく息を吐き出した。
 心配させないようにと、悟られないようにと気を付けていたのに、結局全部気づかれてしまった。
 樹の言ったことは全部当たりだ。迷っていた事を言葉にされて、気づいたことがある。
 マネージャーの家に逃げた事が間違いでないなら、俺はあの家にあと何年いていいのだろう。
 引っ越した時は、大学を卒業するまでと話していたけど、生活環境は変わるものだ。
 引っ越した時、鬼頭は独り身だった。でも、春が本格的に始まった頃に、彼女ができた。直哉もよく知る女性(ひと)だ。女性の正体は、樹の姉。直哉が、このお姉さん好きなタイプだなあと、初めて想った人。
 交際は順調で、籍を入れる日もそう遠くないだろう。
 籍を入れたら、そのお姉さんも一緒に暮らす。夫婦の間には子どもが生まれて、その子はきっとどちらにも似ていて、養い子の俺は、また居場所がわからなくなって、迷子になる。
 家族の中で、俺だけ違う存在。
 あのマネージャーのことだから、放置するとか追い出すとかはないだろうけど、悪い方ばかり想像して、全身から血の気が引いていく。
 まだ夏に入ったばかりなのに、寒さを感じてぎゅっと自分の身体を抱いた。
 ぽふっと、頭に大きな手が乗せられたのは、その時である。
 びくりと身体を震わせて、見上げて見ればマネージャーの顔が視界いっぱいに入ってきた。

「こら。本番前にぼさっとするんじゃない」

 何も言えずに、視線を床に向ける。
 息を吐く気配を、旋毛の辺りで感じとる。
 前にも似たような事があった。
 たぶん、俺が、直哉が家出する前。
 家のことで精神が不安定になって、レッスンに身が入らなくて失敗ばかり繰り返して、「今日は駄目だね」と春高に匙を投げられた時。
 早退が決まって、帰る前にこの男に呼び出された。
 叱責されると思って、男が待つ部屋に行って、戦々恐々としながら男と向かい合うように座って。
 投げられた言葉は、レッスンに集中できない叱責でも呆れたものでもなく、直哉を心配するものだった。
 今も、男の声音に気遣うものが含まれている。
 黙ったままの直哉に、男は息を吐いてから再び言葉を投げた。

「俺、いつも言ってるよな。ステージに立つ前はどうするんだ?」

「背筋を伸ばして、前を向く」

「今のお前は?」

「俯いてる……」

「直さないのか?」

 マネージャーの問いの後、直哉は顔を上げて男を見た。

「ねえ……」

 俺はいつまでパパの家に居ていいの?

 口をついて出てきた言葉は、春頃からずっと胸の片隅にあって、見ない振り、聞こえない振りをしてきた疑問だった。
 答えを聞くのが怖くて、ずっと無視してきた。
 よりにもよって、なぜこのタイミングで聞いてしまったのだろう。
 一度は上げた頭をまた下げてしまう。
「やっぱり何でもない」と、質問したことを無かったことにしようと思った時、頭に大きな手のひらが乗せられた。
 のしりとした重みが、頭の頂点から首へと伝っていく。

「いつまででも」

 静かな声音で発せられた言葉に驚いて、下がった頭がぐいっと自然と上がった。

「好きなだけいればいい」

 大きく開いているはずの目は、いつもなら乾いていくはずなのに、今はどうしたことが濡れていく。
 胸の奥をぎゅっと掴まれたみたいで、ただ息を吸うだけでも苦しくて、熱い。
 はくはくと、二度三度と唇を動かして言葉を探して、ようやく音も喉から出せた。

「本当に…………? 今だけのご機嫌取りじゃなくて?」

 俺の問いのどこかがおかしかったのか。それとも、力無く頼りない声を出したからか、男はふっと笑みをこぼした。

「本当だよ。それに、お前を無理に追い出したら、今度は俺が追い出されるだろう」

 誰に追い出されるとは言わなかったが、言葉のニュアンスで察しがついた。
 この家も、多くの家と変わらずかかあ天下なのだろう。
 十歳下の嫁の尻に敷かれる男の姿を想像して、自然と顔が綻ぶ。
 目を潤ませたままふにゃりと笑ったら「笑うな」と旋毛の辺りを小突かれた。

「だから、胸を張って、しっかりと気持ちを届けろ。ただ話すだけでは伝わらないことも、歌にしたら伝わることもある。俺を引っ張り出したからには、最後までちゃんとやれ」

「はいはい」

 手の甲で、目の水分を乱暴に拭ってから、息を大きく吸ってゆっくりと吐き出す。
 目が赤くなってないか。鼻水が出てないかと気にはなったが、鏡をゆっくりと見ている時間はない。
 ただ話すだけでは伝わらないことを音を操って伝えるのだ。


 少年たちの伸びやかな歌声が、閉めきられたドアを越えて廊下にもわずかに響いている。
 様子を見に来た雅臣は、物音を立てないように静かに扉を開けた。
 扉越しに聞こえていた歌声が、戸を開けたことによって直接鼓膜を叩く。
 耳に響く曲は、ディズニーでも有名なものばかりだ。雅臣も番組の企画で何度か歌ったものもある。
 少年たちの若々しい歌声に浸りたいところであるが、雅臣は進行状況を確認する為、壁際に沿って歩き、部屋の片隅で少年たちを見守る同級生に声をかけた。

「やっほー、たっちばっなくん」

 普段よりも声の音量を落として、同級生の名を呼ぶ。
 灰色の髪を持った同級生は雅臣の姿を認めると、「よっ」と片手を胸の位置で上げた。
 橘は笑顔を見せながら「何しに来たんだ、お前」と問う。

「ちょっと様子見に来たのー。どう? うちの獣くんたちは。順調?」

「順調、順調。直哉の末の妹がぐずったりとかはあったけど、エナガの病室訪問もお絵描き大会も好評だし、歌は次の曲で最後だな」

「へえー」

 雅臣に向けていた視線を、上座の方へ向ける。
 二人分の歌声が終わるやいなや、少年一人分の声と優しいギターの音色が室内を満たしていく。
 本日最後の曲、リメンバー・ミーだ。
 歌っているのは、ヴァンドの副リーダーである鬼直哉。ギターを弾いているのは、ヴァンドのマネージャーをしている鬼頭昴。
 この慈善事業が企画されたのは七月の頭で、披露する曲を決めたのもツアーが終わる前だと鬼頭は橘に話していた。
 ツアーもイベントもあったのに、一体いつ練習したのかと首を傾げてしまうほど、二人の息は合っている。
 鬼頭は、少年が息を吸うタイミングも吐き出すタイミングも、間の取り方もわかっているらしく、彼が歌いやすいように弦を弾いていた。
 子ども相手とはいえ、ステージから去った親友が、久方ぶりに人の前に出て、音を奏でている。
 マネージャーをする前まで、頑なに公の前に出ようとしなかったのに。
 あの頑固な烏の心を動かしたのは、間違いなくあの小さなステージにいる高校生三人だ。
 動いたきっかけは、やはりBtHのステージだろう。烏の心を動かすには十分なパフォーマンスだった。

「やらせて正解だったね、マネージャー」

「そうだな。少なくとも、ヴァンドの方は順調だ。後は、トラの方だな……」

 橘は腕を組み、眉間にシワを寄せる。

「居場所、まだ掴めないのか?」

 投げられた質問に、雅臣は口角をつり上げる。

「いんや。向こうの方から、尻尾を出してくれたよ。あとは、引っ張り出してあげるだけだ」

 その引っ張り出す方法を模索する段階に入った。
 かわいい子らを、早くあの男(よどみ)から、引き剥がしてやらねば。
 歌を披露する少年が、最前列で少年を見守る幼き子に近づく。
 普段のステージでも、淡々と冷静にパフォーマンスを行う少年の表情が慈愛に満ちている。
 あれは本当に心を許した者にしか見せない表情。歌声にも、熱ではなく愛が込められている。
 家族への無償の愛だ。


 このギターの音は、二度と人前で弾かれる事が無いと思っていた。
 聞けるのは、CDの中だけ。DVDの中だけ。直接聞けることはもうないと諦めていた、そんな時。今年のシラバスを見て、選択していた音楽の授業でギターがある事を知った。
 子どもは、ギターを習ったことは一度もなく、弾くのはもちろん、触るのも初めてだ。
 子どもは、認めたくないが不器用な手先を持っている。初めてやることは不馴れであるという面と相まって、より一層不器用さが増す。
 そんな姿、仲間はともかくクラスの連中には見せたくない。
 不器用さを隠すため、子どもは男に「ギターを教えて」とせがんだ。
 ぐだぐだな授業にしてたまるかと思ったのもあるけれど、男の奏でる音を直接聞くチャンスだとも思った。
 男は「しょうがないな」と呆れながらも、ギターを教えてくれた。
 一音一音丁寧に、子どもがわかりやすいように。不器用な子どもがちゃんと弾けるようになるように。
 それはそれは、とても優しく教えてくれた。
 そして、男の音はCDやDVDで聞くのと変わらず、耳にも心にも優しいものであった。

 ──俺はきっと、この男(ひと)の音が好きだ。

 子どもが好きになった女性が好きになった音なのだから、子どもが好きにならないわけないのだ。
 気を抜けば聞き入ってしまいそうな優しい調べに、自分の歌声を忘れずに合わせていく。
 男の色を消さないように。自分の色を乗せていく。
 二人で奏でる音をひろげて、目前にいる子どもたちの心に届ける。
 もちろん、妹たちの心にも。
 妹たちは、最前列で兄の姿を見ている。
 思い返せば、上の妹の前でステージに立ったことはあるが、末の妹の前では初めてだ。
 妹たちよ、忘れないで。離れていても、心は一つ。
 違う家に居ても、俺は君たちを忘れない。俺たちの母親が何と言おうと、嫌いになることなどない。
 いつだって、幼い二人のことを思っている。
 アイドルを知る大人たちが俺たちを見守るように。
 マネージャーが、俺たちの側にいてくれるように。
 兄も、君たちを見守っている。側にいる。
 だからもう、泣くな。寂しいと泣かなくていい。
 幼い末の妹と、兄の視線がかち合う。
 届いてるかな。届いているといいな。
 この歌は、末の妹も大好きな歌だ。
 家を出る前は、寝かしつける時によく歌ってたけど、最近は全くと言っていいほど、歌ってあげてなかった。
 寂しかっただろうな。ごめんね。でももう、寂しく思わなくていい。
 歌いながら、妹に歩み寄って膝を折る。
 そして、ゆっくりと手を差し伸べた。

「一緒に歌ってごらん?」

 きらきらと輝く真ん丸のお目目が、ぱちぱちと瞬いた。
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