second stage 疾風炎嵐

#バズリンアイドル
#ヴァンド


 ◇  ◇  ◇

 どうして【あに】は、いえにかえってこないのだろう。
 どうしてママは、【あに】はもう【あに】ではないというのだろう。
 ちいさくても、まだじょうずにしゃべれなくても、からだのちかくでおこっていることは、りかいしているつもりだ。
 ぴんくいろのおはながさくまえに、【あに】はおおきなにもつをかかえて、くろいおとなといえをでた。
 いつかえってくるかな。かえってきたら、なにをしてあそんでもらおうかな。
 かえってくるのを、いいこにしてまっていたけれど、そのひ【あに】はかえってこなかった。
 つぎのひも、そのまたつぎのひも、【あに】はかえってこなかった。
 どうしてかえってこないのか。
 まてどもまてどもかえってこないので、「【あに】はどこへいったの? どうしてかえってこないの?」と、ママにきいたら、とてもこわいかおをして「わすれなさい!」といわれた。
 あれは、もうまきの【あに】ではない!
 あれは、もうママのむすこではない!
 あのこは、ママをすてたのだ! だから、ママもあのこをすてる!
 あなたも、あんな【おとこのこ】のことはわすれなさい! あなたもすてられたのだから!
 とてもこわいかおをして、ママはいいました。
 とてもとてもこわくて、わたしはなにもいえなくなってしまった。
【あに】に買ってもらった、ねこのぬいぐるみをだっこして、まってみたけれど、やっぱり【あに】はかえってきません。
 ママのいうように、【あに】はわたしをすてたのだろうか。
 わたしがいいこにしていたら、かえってくるだろうか。
 わたしがおとなしくしていれば、かえってきてくれるだろうか。
 ねこにはなしかけても、こたえはなくて、【あに】がいないまま、ぴんくいろのはながさいたとき、ひょっこりと【あに】がかえってきました。
 でも、ぴんくいろと、くろいいろのはねをもったしろいとりをおいて、またすぐでていきました。
 しろいとりがいえにきてから、すこしのじかんだけ【あに】はかえってくるようになりましたが、すぐにどこかへいってしまいます。いっしょにあんぱんまんをみることも、いっしょのおふとんでねることもしません。わたしのすきなおうたもうたいません。
 わたしとおねえちゃんのかおをみただけで、ママにもパパにもあわず、どこかへいってしまう【あに】。
「こんどはいつかえってくるの?」ときくと、「もうかえってこないよ」といっていました。
 どうして、かえってこないの。
 わたしはいいこにしてまっているのに、どうしてかえってこないの。
 そうおもっているのに、どうやってことばにしたらいいのかわからなくて、けっきょく「だっこ」といってしまうのです。

 ◇  ◇  ◇

「みなさーん、画用紙とクーピーは行き渡りましたかー? 無い人はいませんかー?」

 樹がホワイトボードの前に立ち、フリールームに集まった子どもたちに呼び掛ける。
 子どもたちは子ども用の机と椅子に座って、大きな声で返事をした。
 これから行われるのは、お絵描き大会だ。樹の背後にあるホワイトボードには、無地の模造紙が貼りつけられている。ほんの数分前……子どもたちが準備している間は、ホワイトボードにはベレー帽を被り、パレットと筆を持ったエナガのイラストが飾られていた。
 お絵描き大会は、エナガのデザインを担当している樹が中心となって行われる。直哉と大はその補佐だ。部屋を見渡せる窓際には、ティアゼの種田朱雀と、ティアゼのリーダーであり、この病院の院長の息子である白鶯士葵が並び立っている。今日は見学と手伝いをしに来たと、着いた時の挨拶で教えてくれた。
 直哉が「やってる振りでいいから、お二人もどうぞ」とスケッチブックとクレヨンを渡している間に、大が進行させる。

「まずは、うちの樹(リーダー)が手本を描いてくれるぞー!」

「どんなエナガちゃんを描こうか?」

 樹が子どもたちに問いかけると、子どもたちから「桜エナガ!」や「夏エナガ!」、「先生エナガ」や「かわいいエナガ!」などの声が上がる。
 樹は「詳しいねえ」と苦笑してみせながら「うーん」と首を捻る。

「じゃあ、夏エナガを描いてみようか。エナガちゃんのポイントは、大福みたいな身体ともふもふの羽毛と──……」

 時折、説明を入れながら、樹は模造紙に夏エナガを描いていく。
 ヴァンドの羽織りと同じ柄の法被を着て、麦わら帽子を被ったエナガと、スイカを食べているエナガだ。
 模造紙にするすると描かれていくエナガを、子どもたちはきゃあきゃあと楽しそうに声を上げて、エナガが生まれる瞬間を見守っている。
「よし、描けた」と、樹はマジックペンのキャップを閉じた。

「夏エナガちゃんの完成でーす!」

「おーー! また商品化出来そうなやつが生まれましたね、先生!」

「先生は言いすぎ!」

 大の一言に突っ込みを入れつつ、エナガちゃんの描き方とポイントを赤いペンを使って丸で囲っていく。

「じゃあ、今度はみんなでエナガを描いてみようね。可愛く描けた子には、エナガちゃんとアヌビスのステッカーをプレゼントしますよー」

「これだよー」と言って樹が取り出したのは、真ん丸に描かれたエナガとアヌビスの顔型ステッカーだ。顎の辺りに白塗りになった箇所があり、名前を書ける仕様になっている。
 樹は「可愛く描けた子にステッカーを渡す」と言ったが、参加者全員分用意してあるので、元から全員に渡すつもりだ。仲間外れは出さない。
 和気あいあいと喋りつつも、子どもたちは夢中になってスケッチブックにエナガを描いていく。
 樹が描いた夏エナガを真似したもの。
 羽根を虹色に塗られたもの。
 頭にモヒカンを描いたもの。
 チアガールのポンポンを持ったエナガもいる。
 輪郭が上手に描けない子や、色に迷った子はヴァンドが見て周りながら手を貸した。
 ヴァンドが小さかった頃は、姉や兄たちが手伝ってくれたものだ。
 樹は、子どもたちの間を歩きつつ、絵を描く様子を見ていると、一人拗ねた様子で隅っこの方へ移動する麻希を視界に入れた。


 色塗りに迷っている子の手伝いを終えた直哉の耳に「うまくかけないー」とぐずる声が届く。
 直哉の後ろに居た子だ。利き手を怪我しているらしく、白い包帯で指が隠れている。
 直哉が利き手を怪我して使えない子の代わりにエナガの輪郭を描いていると、とんと肩を叩かれた。
 振り返ると、樹があらぬ方に指先を向けている。

「あれ大丈夫なの?」

「あれ?」

 指で指した方向に、直哉は視線を動かす。
 末の妹がぶーたれた様子で、エナガマペットを使って、隅っこで一人遊びをしていた。
 スケッチブックとクーピーを持たせてあるけど、触っている様子はない。

「なんだかなあ、もう」

 ぼやきつつも、樹に礼を言ってサポートを交代してもらい、麻希のところへ向かう。
 光希の方は、この時間で仲良くなった同じ歳の女の子とエナガを描いて遊べているのに、麻希の方は何度なだめても機嫌が斜めになる。
 やはり、樹が言ったように、彼女の寂しい心が機嫌を斜めにさせるのだろうか。

「まーき」

 ──寂しいのは俺だって同じだ。
 末の妹に近づいて、ぺたりと床にお尻をつける。
 一人遊びをしていた妹は、エナガマペットから兄の方へ視線を移すが、直ぐにそらしてしまった。

「みんなとお絵描きしないの? 麻希もお絵描き好きでしょう?」

「…………」

 麻希はエナガマペットに視線を落としてから、口を開いた。

「ねむい…………おうちかえる…………にいちゃんとかえる……」

「かえる、かえる」と、言葉を繰り返す末の妹の発言に、直哉は息を呑む。
 この「かえる」は、ただ家に「帰る」の「かえる」ではないのだろう。

「……兄ちゃん、お仕事が終わらないと帰れません」

 ──俺だって、何もなければ高校を卒業するまで、妹の傍にいてあげたかった。
 戻る道はあるのだろう。でもそれは、あの母親を許さないと行けない道だ。そんな余裕、直哉にはまだない。愛があればなんとかなると言うけれど、直哉とあの母の間に愛なんてもうない。あの母が直哉の頬を打った日に、否、あの母が実父を裏切った時点で、消えている。
 末の妹はその事を知らないし、直哉も母親がしたことを話す気にはならない。
 どう伝えれば、幼い妹から寂しさを拭えるだろう。
 どう言えば、幼い妹の寂しさを埋められるだろう。
 言葉を操るのもアイドルの仕事なのに、幼い子どもに伝えたい言葉が見つからない。
 顔を俯かせたまま言うべき言葉を探していると、通常版のシナエナガマペットがにゅっと視界に割り込んできた。
 麻希が持っているマペットではない。
 ぎょっと目を開いて、エナガを操る人を見ると久しぶりに見た大人の顔だった。
 毎日黒い髪の大人を見ているせいか、灰色の髪がとても新鮮である。
 改めてじっくりと見ると、根本の方が黒い。きっと染めているのだろうなと、静かに思う。
 日向橘は、エナガの羽根をぱたぱたと動かしながら口を開いた。

「ここだけ空気が悪いなあ。ちょっと高いところへ行って、深呼吸してくるかい?」

 直哉は呆けたまま、橘の顔を見つめる。
 橘は薄く微笑んでから、麻希を見た。

「君のお兄ちゃんは凄いねえ。高校生やって、小さい妹たちの面倒を見て、アイドルもして、先輩(うっさいおっちゃん)の相手もして…………休んでる暇もないって感じ? だから、時々お休みを入れないといけないんだ。じゃないと、潰れちゃうからさ。…………俺や鬼頭(パパ)みたいに」

 麻希は首を傾げる仕草をする。
 一方、直哉は最後についた単語に息を呑んだ。

「麻希ちゃんのお兄ちゃんはね、お兄ちゃんをしている時間よりも、一人でいた時間の方が長いんだ。まだ、お兄ちゃんに慣れてなくて、すぐ疲れちゃうの。麻希ちゃんと光希ちゃんのことが大好きだから、疲れたって姿を見せたくなくて、お休みを入れる為にお家に帰る時間を減らしてるの。二人の前では、いつでも格好いいお兄ちゃんで居たいからだろうね」

 麻希の黒い瞳が、直哉の顔を射抜く。

「休んだ分、会えたら目一杯遊んでくれるでしょう? 今日がその目一杯遊ぶ日だよ。遊ばなかったら、勿体ないと思わない? 君のお兄ちゃんも、他のお兄ちゃんたちも、麻希ちゃんと遊びたいって思ってるよ。どうする? それでも帰る? 帰るなら、おじさんが送ってあげる」

 丸いお目目が、直哉と橘の顔を交互に見る。

「麻希」

 直哉は妹の名前を呼んで、遊ぼうと両手を広げる。
 妹はエナガマペットを抱えたまま、じっと座っている。
 飛び込むかどうか、迷っているのかもしれない。
 抱っこされるの好きなはずなのに、まだご機嫌斜めなのだろうか。
 うーんと首を捻ってから、麻希もよく見ている有名なアニメーション映画のセリフを、エナガちゃんの声で伝えた。

「〈ぼくオラフー! ぎゅーって抱きしめて!〉」
24/26ページ