first stage ワタリガラスの止まり木


#バズリンアイドル
#ヴァンド

 ◇  ◇  ◇

 あの日。
 いつものように「ただいま」と言って、小学校から帰宅した。
 曜日は木曜日。職員会議がある都合、五時間授業の日ではあったけど、授業に休み時間の遊びにと体力をすり減らした小学生のお腹は、給食を食べたはずなのにもうぺこぺこだった。
 この時間なら、木曜は午前の講義しか入れていない姉が、大学から帰ってきているはずだ。
 夕方からは体操クラブの予定が入っているから、それまでになにか腹に入れておきたい。

「姉ちゃーん、腹減ったよー。何かないー?」

 いつものように適当に靴を脱いで、リビングに行く途中にある和室にランドセルを投げ捨てて、リビングへと続く扉を開ける。
 姉からの返事はない。
 おかしい。
 いつもなら、直ぐ言葉を返してくれるのに。
 リビングではなく、二階にある自分の部屋にいるのだろうか。
 そう思ったけど、リビングをキョロキョロと見て、テレビの方へ向けたとき、姉の泉を発見した。
 ローテーブルの影で四つん這いになっていて、視界に直ぐ入って来なかったのだ。
 四つん這いになったままの姉は、床にある何かを見つめながら肩を震わせていた。
 どうしたの?
 どこか、具合でも悪いの?
 姉は元気なのが取り柄だ。それ以外にもあるだろうけど、弟が知ってる姉はいつも元気で、口やかましくて、腕っぷしが強くて、風邪なんて滅多にひかない。
 具合が悪かったらどうしよう。どうしたらいいのだ。
 家にいるのは、樹と姉だけだ。
 父は会社だし、母はスーパーのパートに行ってる時間だし、兄もまだ学校だ。
 隣の家に行けば直哉がいるけど、直哉だって樹と同じ歳の子どもだ。あいつは姉ちゃんのことが大好きだから、具合が悪いなんて聞いたらきっとパニックになるに違いない。

「姉ちゃん……?」

 そろそろと姉に近づいて、もう一度声をかける。
 姉の肩がびくりと上がった。

「あ、ああ、おかえり樹(たつき)!」

 振り返った姉が、にっこりと音が聞こえそうな笑みを見せる。
 いつもと変わらない。いつもと同じ笑顔。
 具合が悪いわけではないようだと、樹は胸を撫で下ろした。
「お腹空いたよ」と、樹が改めて言うと、泉はにこにことしたまま腰を上げた。

「待ってて。パン出してあげる。駅前のベーカリーさんで買って来たんだー」

「樹の好きなウィンナーのパンだよー」と言いながら、泉は台所へと消えていく。
 きっと、パンと一緒に牛乳を用意してくれるのだろう。
 樹は飲み物がないとパンが食べられないのを知っているから、きっとそうだ。
 その隙に、樹は台所の様子を気にしつつ、姉がいた場所へこっそりと近づく。
 その場にあったのは、姉のスマートフォンだ。
 姉と同じように四つん這いになって、消えていた画面を点灯させると、メールの受信画面が出てきた。
 差出人は……英語で書かれていてよくわからない。件名には、ファンクラブ会報と書かれている。
 本文の方を読もうとした矢先、姉がリビングに戻ってきた気配を感じて、慌てて画面を消灯させた。

「どうしたの?」

「な、なんでもない! 俺、手洗ってくる!」

 訝しげな表情を見せる姉の脇を通り抜けて、洗面所へと駆け込んだ。
 姉のところに届いたメールがなんだったのか、結局わからず仕舞いだった。


 あの日。一人のアイドルが引退を発表した。
 少年がこの事を知るのは、高校一年生の春を迎えた頃だった。

 ◇  ◇  ◇

 都会のビル郡に溶け込む形で作られた社屋を、中学校を卒業したばかりの少年三人組が見上げている。三者三様の私服で身を包んでいるが、鞄だけは中学校で使っていたものだ。今日は書類を持たせて帰すから、クリアファイルが入る大きさの鞄か手提げを持ってこいと事前に言われていた。
 時はまだ三月。区分的にはまだ中学生だが、月末にある中学校の離任式を終えて月が変われば、晴れて高校生だ。

「二回目とはいえ、やっぱ威圧感半端ねえな」

 トレーナーのポケットに手を差し入れた少年が口を開く。
 三人の中で一番身長が低く、真っ黒な髪は左側だけ前髪含めて側頭部に流している。右側の髪は自由にしたままだ。耳には銀色のイヤリングが着いており、日中の日差しをキラリと反射させている。
 その少年の問いに答えるように、彼の右腕側にいた少年が口を開いた。
 三人の中で一番身長が高く、顔立ちも整っており、大人っぽい雰囲気に包まれている。黒い髪は首が隠れるほどの長さで、前髪は頭の中心から二つに分けていた。

「芸能事務所とはいえ、会社の一つだからね。本来、俺たちみたいな子ども(ガキ)が来るところじゃないよ」

 整った顔にある口から、荒っぽい単語が飛び出す。
 大人の世界にあっても変わらない、もう長いこと聞きなれた口調に、まだ言葉を発していない少年が口角をつり上げた。
 柔和な笑みは菩薩のようで、ゆるふわと短く伸ばされた髪の毛先が、ビル風に当たり揺れている。

「とりあえず、中入って受付行かない? 事務の人、もう待ってるかもしれないし」

 二人を先導する形で、少年が一歩踏み出す。
 この社屋にある自動ドアを外から潜るのは二回目だ。一回目は、十二月に訪問した時。この社屋にあるプロダクション、ビーストレンジプロから「アイドルとしてうちで働いてみないか?」という誘いが届き、三人で話だけ聞きに来たのだ。
 あの時は受験も控えていたし、まだ中学生ということで契約という踏み込んだ内容まではいかなかったけど、今日は違う。
 今日はきっと、契約に関する話だ。
 少々、顔の筋肉を強張らせつつ、先導する少年はエントランスを進んでいく。
 先導する少年の名前は、兵藤樹(ひょうどう たつき)。
 その一歩後ろを歩くのが、一番身長が低い少年、萩原大(はぎわら だい)。
 そして、樹の隣を当然のように歩くのが藤直哉(ふじ なおや)。
 この年の七月に、Vent de Rafale(ヴァン・ド・ラファール)として活動を始める、幼馴染み三人組である。


 受付の女性は三人が訪問してくることを知っていたらしく、それぞれ名前を告げただけで、来客者用のパスケースと【来客】と書かれた身分証を出してくれた。
 ケースに身分証を入れて、首からパスケースを下げる。
 前回使った打ち合わせ用のブースに行くよう告げられ、三人は揃ってエントランスを横切り、エレベーターへと乗り込む。
 打ち合わせ用のブースがある階で降りて、廊下をパタパタと進み、指定されていたブースへ行き着くと身体を滑り込ませた。
 中には誰もおらず、長机とそれを挟むようにしてパイプ椅子が六つ置かれている。ブースは、大人が六人も集まれば圧迫されたような気分になること間違いなしな、小さな部屋だった。窓は一面だけだった。本来は、一対一の面接用に使っているのだろう。会議で使うには小さすぎる。
 直哉を中心に置き、上座側の椅子に樹、下座側の椅子に大が座る。
 三人がブースに入ってから五分ほど経って、十二月に会った事務の男が現れた。

「いやあ、ごめんごめん。年度末だから、あっちもこっちも色々ごたついててねえ」

 苦い笑いを見せながら、壮年の男は言う。
 名前は花房(はなぶさ)と言っただろうか。薄くなってきた頭には白いものがちらほらと見え隠れしていた。猫背気味で、腹回りは少々ふくよかである。受け持っているアイドルは、豪華炎乱という名の二人組アイドルだそうだ。十七年近く世話をしていると、半ば自慢げに語られた。
 挨拶もそこそこに、三人と対面する形で椅子に腰かけた花房は、手にあるファイルの束と書類の束を机に置く。
 書類を綴じるタイプのファイルが三冊。学校でも使い、どこのお店でも売っている紙タイプの物だ。

「今日はね、契約関係のお話と、提出書類のお話と、四月からの予定と……」

 にこにこと、人に好かれる笑みを見せながらファイルを一冊ずつ、三人に配る。
 ファイルの中に挟まっていたのは、契約に関する規定や社訓のような物が書かれた紙と入学式までの予定表と緊急連絡先の一覧表だった。
 樹は花房の声を聞きつつ、直哉の向こう側から、ファイルを開いた大が小さく呻いた気配を感じとる。
 まあ、思わず呻きたくなるのも無理はない。書類に書かれたあれやそれは、学校でも聞いたことがない単語で埋め尽くされてるし、文章もぎちぎちだ。樹も、コンプライアンスやOJTって何だって感じで、喉の奥から変な声が出そうだ。
 一方で、直哉は淡々と書類を捲っている。
 事務所の人を前にしても、自分を乱すことなくどっしりと構えていた。

「それからねえ……」

 花房は、一通り書類を配り終えた後、勿体ぶった様子で言葉を続ける。
 少年三人分の視線が、花房に集中した。

「君たちを担当する人も決まったから、今日会わせてあげるね」

「君たちが来るまでの間に、がっつりOJTしておいたから安心してー」と、花房はにこやかに続けた。
 発言を聞き、樹は目を丸くする。

「担当って、花房さんじゃないんですか?」

「うん、違うよ。僕はサブマネで、正式な担当者はこの男」

 大がたまたま緊急連絡先を見ていたので、花房は一覧の一番上の部分に書かれていた名前を指し示す。

「鬼頭昴(きとう すばる)君って言ってねえ、良い男だよー。うーんそうだなー。アイドル側の心構えとか細かいことは、僕よりも詳しいかなあー」

 たーくさん、教えてもらうといいよ。
 花房の目元にあるしわが深くなる。
 なんだかとても楽しそうで…………愉しそうだ。
 この男、表面上は穏和で友好的だが、腹の中に狸か狐を飼っているな。と、少年三人は察した。(「腹回りが狸だし」とは、後の直哉の言葉だ)

「その鬼頭さんは、今どちらに?」

 直哉が問う。

「今、僕が受け持ってるアイドルが、音楽番組の収録中でね。それの付き添いに行ってるよ。もう直ぐ帰ってくるんじゃないかなあー。それまでの間、提出書類のお話進めるね? お給料振り込む口座とか、健康診断とか、扶養控除の申告書とか、出してもらうものが多いからさー」

 花房はぼやきながらも、一つずつ丁寧に提出する書類の書き方を教える。
 三人がブースに入ってから、四十分程経った頃。
 書類の説明が一段落したところで、ブースの扉をノックする音が室内に響いた。
 花房が入るよう促す前に扉が開き「失礼します」という耳触りの良い声が、少年たちの鼓膜を震わせる。
 入室してきたのは、背の高い男だった。三人の中で一番背がある直哉よりも高い。一八〇センチはあるだろうか。花房と違って、背筋がしゃんと伸びている。外から戻って、事務室へも寄らず直接ここへ来たのだろう。カーキ色の春物のコートをスーツの上から着たままだ。真っ黒な髪にはまだ白い物がなく、花房よりも若さを感じる。
 男は、花房と一言二言業務的なやり取りを交わしてから、三人を見据えた。
 男は立ったままなので、自然と少年三人を見下ろす形になる。
 黒縁眼鏡の奥にある黒い眼球から飛んでくる視線が鋭い。片目が、伸ばされた前髪で隠されているのに、両目で見られているような威圧感がある。
 男が放つピリピリとした空気に、樹は唾を呑んだ。背筋も自然と伸ばされてしまう。
 名前を名乗られなくても、入室した時点でなんとなくこの男の正体は察せた。
 この男が、自分達を担当する人間。鬼頭昴だ。
 男と少年三人が、互いに観察と牽制するようにジリジリと視線を飛ばしていると、花房がほけほけと笑いながら割って入る。

「な、良い男だろうー。この男もねえ、ちょっと前までうちでアイドルやっててねえ、ごうえんと一緒に僕が面倒見てたんだよー」

「え?」

「そうなんですか?」

 大に続いて、樹が口を開く。
 鬼頭に一転集中させていた視線を、花房と鬼頭の間で動かす。
 鬼頭は、苦虫を噛み潰した時の表情を見せた。

「ハナさん。勝手に個人情報流さないでください」

「まあまあいいじゃない。うちにいれば、こっちがなにもしなくても耳に入るんだからさー」

「うちには、お喋りな男がいるからねえ」と花房は言葉を続け、鬼頭は大きなため息を吐いた。
 樹たちにはわからないが、鬼頭には心当たりがある男なのだろう。
 鬼頭の表情から、ろくでもない男なんだろうなあと察した。

「アイドルから…………マネージャーさんになったんですか?」

 直哉が、花房が与えた情報を繰り返すように問う。
 渋々ながらも、鬼頭は首を縦に動かした。

「戦力外通告でもされたんですか?」

 続いて放たれた直哉の質問に、室内の空気が凍りつく。
 この事務所に来て初めて行われた、藤直哉の斬り込みであった。
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