first stage ワタリガラスの止まり木
◇ ◇ ◇
『どいてくれませんか……⁉』
サイン会の最中。
唖然とする鬼頭の目前で、輩と呼ばれる類いの女(ゲスト)を相手に、一人の女が毅然と言い放つ。
輩の腕を背中へ回し捻り上げた女は、二十歳にも届かない容姿をしている。高校生だと名乗られても不自然ではない幼さも残っていた。
『ファンサービスの終わり時間、過ぎてますよ。いつまで居座るつもりですか? 後ろが詰まっています。昴君を困らせる方は迷惑者です。お引き取りください!』
はがし役のスタッフよりも先に、輩と呼ばれるゲストを制圧した女は、アイドルの鬼頭(おれ)よりも、真っ直ぐに輝いた目をしていた。
◇ ◇ ◇
「あったま、いってーー……」
同期会のような飲み会をした翌日。
早朝特有の、夜が終わり昼の時間を告げる眩しい日差しが、都会の中に降り注ぐ。雲一つないせいか、日の神は容赦なく、その姿を顕現(けんげん)させている。頭に鈍痛を抱える今の身体で、光を浴びるのは辛かった。
が、仕事は待ってはくれない。季節は年の暮れへと足を踏み入れており、仕事の量も平時と比べたら増えている。
もう二度と、翌日仕事がある状態で飲みに行くもんか。
鬼頭は固く心に誓う。
そもそも、うわばみ(まさおみ)と飲んだのが間違いだったのだ。
酒が抜けきれてない状態での運転は難しいと判断し、今日は久しぶりの電車通勤。
事務所(かいしゃ)の最寄り駅を出てからてくてくと歩き、今は横断歩道につかまって、信号が変わるのを待っている。
ビル壁や道路に反射した光が目を突き刺し、眼球が痛む。
「うちの会社は、駅からこんなに離れていたか?」と思いつつ、目頭を指でほぐしていると、「どん」という音と共に、背中に鈍い衝撃が走った。
「…………⁉」
「わわ……! ご、ごめんなさい…………っ!」
鬼頭は首と僅かに身体を動かし、背後を確認する。
ゆるゆると波打つように伸ばされた、薄い茶色の髪が、まず視界に入る。そこからさらに視線を下に向けると、慌てた様子の女の顔が入ってきた。
身長は、鬼頭よりも頭一つ分ほど小さい。冬用のオフィスカジュアルを着ていることから、この辺の会社に通う女であろうと推測する。
見覚えがあるような、そうでないような顔立ちに、鬼頭が眉根を寄せていると、女が言葉を続けた。
「日光で前がよく見えなくて……! 背中痛くないですか⁉ 大丈夫ですか……⁉」
「俺……私は大丈夫です。あなたは大丈夫ですか?」
あの音だと、顔のどこかは絶対背中にぶつけているはずだ。
鬼頭が問うと、女は大丈夫と言う代わりに、ぶんぶんと首を縦に振った。
「本当に、すみませんでした。今日はコンタクトも眼鏡も忘れちゃってて……。寝ぼけて着けた気になってたみたいです」
「…………その状態で歩いてきたんですか?」
「はい! 毎日通ってる道ですから、直感で!」
「電車の行き先を確認するのは少々難儀したけれど」と、彼女は後ろ髪をかく。
呆気に取られるとは、この事を言うのだろうか。
鬼頭は、あっけらかんと話す彼女に言葉を発するのも忘れて、ただただ視線を送るだけだ。
彼女の顔に、苦い笑いが広がる。
「気をつけてたつもりなんですけど、結局ぶつかってしまいましたね」
「転ぶよりは、マシなのでは?」
ようやく出た言葉が、これだった。
取り繕った言葉ではなく、本心である。
「確かにそうですね。正直、駅の階段降りるときは怪しかったです」
と、女は笑う。
鬼頭の肺にたまっていたものが、口から一気に吐き出た。
このまま行かせたらだめだ。この女、絶対怪我する。
左腕に着けている時計を確認する。
始業の時間まで、まだ余裕があった。二日酔いにも関わらず、早めに家を出た自分を褒めてやりたい気分だ。彼女の会社近くまで送って行っても間に合うだろう。
口を開こうとしたところで、視線を感じる。
時計から視線を移すと、女がじぃっとこちらを見ていた。
「もしかして、Bsプロの方ですか?」
「え…………?」
「何故バレた?」と目を見張ったところで、女が首を指で示す。
「そのネックストラップ、ロゴがついてますよ?」
「あ……ああ、これか。よく見えましたね」
首からかけているネックストラップを引っ張りだし、見せる。
ネックストラップは、会社からの支給品だ。クリップ部分には、社員証とそれを収納するケースがつけられている。
タイムカードを通す時に社員証を鞄から取り出すのが億劫で、首から下げて通勤したのだ。社員証は落とさないようにする為と、見えないようにする為、ジャケットの内ポケットに入れた状態である。
女は楽しそうに微笑む。
「近くで見たことがあるので」
「そうなんですか」
「こう見えて十四年以上Bsプロ応援してるんですよー。ごうえんとか、ノーサスとか、MesseRとか」
十四年という数字に、鬼頭の心臓が跳ね上がる。
その数字は、鬼頭がアイドルとして活動していた時期も含まれていないか。
鬼頭がBsプロからデビューしたのは、今から十四年前だ。今も活動を続けていれば、来年でデビュー十五周年を迎えていた。
十五周年を迎えるどころかデビュー十周年で電撃引退して、決まっていたライブも急遽取り止めにしたわけだが、引退してから数年経っても自分のことを覚えている人間がいると思うと、ひやりとしたものが胸に落ちてくる。
逆恨みとかされてたらどうしよう。
何で急にやめたのかと問い詰められたらどうしよう。
戻ってきてほしいと言われたら、どうしよう。
対応が、面倒くさい。
かつてのファンにあれこれ言われるのが怖いのではなく、対応が面倒くさい。
一人冷や汗を流す鬼頭を置いて、女はニコニコと事務所に所属するアイドルについて語る。
まだ彼女の口から、鬼頭の名前は出ていない。
そもそも、Bsプロを全体的に応援しているだけで、鬼頭そのものを応援していたとは限らない。
杞憂に終わるといい。
何事もなく終われ。
「あ! すみません、長々とお話してしまって! 始業時間大丈夫ですか⁉」
「いえ。久しぶりにお客様の生の声を聞けて新鮮でした。俺は大丈夫ですが、あなたの方は?」
「私も、まだ大丈夫です」
目前の女は、時間を確認するために、鞄の外ポケットからスマートフォンを取り出す。
ちりんと揺れたイヤホンジャックの【それ】を目にして、鬼頭は息を呑んだ。
銀色の金属で作られたワタリガラスが、彼女がスマホを動かす度にゆらゆらと揺れる。
引退する前、最後のサイン会のみで販売された、カラスの根付け風イヤホンジャック。
「そのカラス……」
「ああ、これですか? 推しです!」
彼女の目が一段と輝きを増す。
サイン会で末の弟が買ってくれたのだと。
抽選がなかなか当たらず、ようやく行けたサイン会であったと。
前に並んでいたファンが、時間を過ぎてもなかなか退かず、痺れを切らして割り込む形で注意したと、彼女は恥ずかしそうに眉尻を下げた。
それでも、当時の出来事を楽しげに語る。
鬼頭の脳裏に、最後のサイン会であった出来事が浮かび上がった。
『どいてくれませんか……⁉』
サイン会の最中。
唖然とする鬼頭の目前で、輩と呼ばれる類いの女(ゲスト)を相手に、一人の女が毅然と言い放つ。
輩の腕を背中へ回し捻り上げた女は、二十歳にも届かない容姿をしている。高校生だと名乗られても不自然ではない幼さも残っていた。
『ファンサービスの終わり時間、過ぎてますよ。いつまで居座るつもりですか? 後ろが詰まっています。昴君を困らせる方は迷惑者です。お引き取りください!』
はがし役のスタッフよりも先に、輩と呼ばれるゲストを制圧した女は、アイドルの鬼頭(おれ)よりも、真っ直ぐに輝いた目をしていた。
目前にいる女の容姿と、サイン会に現れた女の容姿を重ねる。
幼さは消え、髪の長さも変わっているものの、顔の部位は寸分違わず、見事に重なる。
この女は、輩を制圧した女で間違いない。
彼女の推し語りを聞く限り、向こうはまだ鬼頭の正体に気づいていないようだ。鬼頭の雰囲気が変わったことと、彼女の視界がはっきりしていないことも幸いしているかもしれない。気づいていたら、驚いたり、叫んだりと、違う反応を見せている。
少なくとも、イベントの手伝いや取引先で偶然出会った奴(ファン)は、大体そのような反応だった。
髪型変えて正解だったなと思いつつ、気づかれないように息を吐く。
「その推しもBsプロなんですよー。少し前に、急にやめちゃったけど……。知ってますか?」
「知ってます…………」
それ、俺です。
という言葉は、全力で喉の奥に押し込んだ。
改めて時間を確認し、刻一刻と始業時間が迫っていることに気づく。
「会社まで送ります」
「え…………⁉ そんな、いいですから…………!」
「視界が悪い状態で行かせて怪我されると、こちらの夢見が悪くなりそうなので」
サイン会での借りを返すなら今だろう。
街の中で偶然出会うような機会は、もう来ないかもしれないのだから。
鬼頭は信号が変わると同時に、足を踏み出す。
肩越しに、わたわたと焦っていた彼女がちゃんとついて来ているのを確認しつつ、普段よりもゆるやかな速度で足を進めた。
「おーーーーい、すばるーーーー! 例の中学生に送るメールの文面作っといたから、確認しといてくれーーーー!」」
事務所に入るなり、事務方の先輩であり自分の元マネージャーである花房(はなぶさ)が、白い紙を掲げてぶんぶんと手を振る。
室内全体に響く大きな声に、鈍痛を抱えた頭がさらに痛みを増す。
鬼頭は花房を一度睨み、大きく息を吐き出しながら自分の椅子に腰を下ろし、机に突っ伏した。
「平静を、保てた俺、ちょーえらい」
「え⁉ なに⁉ どうしたの⁉ 五七五になってるよ⁉」
「おはよう! 事務方の諸君! すばる君! レッスン室の鍵を借りに来たよ! 出したまえ!」
出社早々、大声で催促する頭痛の原因(まさおみ)に向かって、鬼頭は手元にあった鍵の束を投げつけた。