first stage ワタリガラスの止まり木
#ヴァンド
悔しかった。
苦しかった。
切なかった。
事務所の後輩や先輩たちの活動を見かける度に、〝どうして彼は居ないの〟と、虚しくなった。
本当なら、あの後輩の位置には彼が居る。
何もなければ、あの先輩の位置には彼が居る。
彼がデビューした季節が来る度に、今ごろアルバムのリリースを発表して、同時にツアーの発表も出ていたのにと、唇を噛む。
身を焦がして応援していたのに、〝どうして〟と永遠に姿を消した彼を恨む。
彼から与えられるものを受けとるだけ受け取って、彼に還元しなかったファンを憎む。
彼にもっと声が届いていれば、ファンクラブの会員数が増えていれば、辞める選択はなかったかもしれない。
良い時間だった
良い思い出だった。
彼の選択を受け入れたファンのように、綺麗に浄化することは舞にはできなかった。
とても、できる所業ではなかった。
受け入れるには、あまりにも酷な結果だった。
「だから、この会社に入ったの」
ここなら、あの人の側に居られるから。
表舞台から姿を消したあの人を、感じ取ることができる。
SNSで嘆き、悲しみを綴るだけの日々を続けるくらいなら、線を飛び越えてしまおう。
洗面台を擦る音が止まり、静けさがトイレの中を満たす。
つらつらと、自分の思いの整理をしていた舞の背中には、大きな疲れが見て取れた。
舞の肺から、重たい息が吐き出される音がする。
「だからといって…………他人に手を出すつもりはなかったけどね。コンビニで朝田繭と偶然出会ってから、急に攻撃したくなったのよ。昴くんに何もしなかった連中に」
今までは、鬼頭昴に対する意見やメッセージを見ても見ないふりができていた。
朝田繭と出会ってから………彼女の目をじっと見たときから、舞の中で順調に動いていた歯車が軋む音がしたのだ。
彼への意見やメッセージだけでなく、他のグループを称賛する声や応援する前向きな声も鼻につくようになり、SNSを眺める度に苛々とした感情が渦を巻いた。
渦巻く心に導かれる形で吐き出し用のアカウントを作り、自分とは異なる意見を言う者……見ず知らずの鬼頭昴ファン相手に手当たり次第攻撃的なメッセージを送り、現実世界では泉や夕陽に当たり散らした。
泉は、これまで会社では一切知ることが無かった彼女の一面に、言葉を失う。それと同時に、胸の内側をぎゅっと掴まれる感覚が襲いかかった。
泉は、彼女の言う事に殆ど賛同できない。
誰をどういう形で応援するのかは人それぞれであり、彼が辞めたことで自分とは違う応援をしていた人に八つ当たりするのは違う。
悔しいという気持ちと寂しかったという気持ちはわかる。泉も、彼のパフォーマンスを演技をもっと見ていたかった。
ただ、それ以上に、忘れられない姿がある。
「舞さんは、昴くんの最後のライブ、ちゃんと見ましたか?」
久しぶりに開いた口から出たのは、酷く冷たい声音だった。
気を抜けば、声が震えそうだ。
自分勝手はどちらだと、怒鳴り散らしそうだ。
その気持ちをぐっと堪えて、舞の背中を見つめる。
問いを投げられ、振り向いた彼女は訝しげな表情を浮かべている。
感情的にならないように。あくまでも、冷静に。
「昴くん、楽しそうだったけど、辛そうな表情も少しだけ出してました。不本意とかではないだろうけど……」
彼はライブをするのは好きなのだろう。
好きでなければ、自分のライブで細部に渡って演出に拘ったり、今も後輩たちのライブを手掛けたりしない。
最後のライブを迎えた頃、鬼頭昴の年齢は二十代の終盤、三十歳が近づいて来た頃だった。仕事の取り組み方を考える節目の年齢と言ってもいいだろう。
自分のやりたい仕事、ファンが望む仕事、事務所が持ってくる仕事。
この先、五十年と続いていく人生の基盤を試行錯誤しながら作っていく中で「あれやって」「これやって」と言われたら。
お客様面で、我が儘を言われたら。
そんな声が届いていたなら。
「正直、口がへの字になります」
彼の感情とファンの感情が噛み合わない状態で続けるくらいなら、辞めて正解だ。苦しみに、痛みに耐える表情を見せられるよりずっと良い。
言い放つと同時に口角がつり上がる。
鏡に居る泉の表情は、憂いがさっぱりと落ちた爽やかな笑顔だった。
対して、舞の方は頬が引きつっている。
「あんた…………」
なかなか、いい性格してるわね。
八谷貢は、アイスのパネルが並ぶ自販機を前にして、首を傾げた。
今日の合同レッスンは無事終了した。
時刻はもう夕暮れ時で、練習生たちは帰り支度を進めたり、個人レッスンに向かったりと好きなように過ごしている。
八谷も今日のスケジュールは全て終えているので、あとは家に帰るだけだ。
なのに、胸の内側に引っ掛かった物が取れなくて、うんうんと唸って居る。
「嘘吐かれた気がする」
あの黒い男。絶対に、昔出会った少年だ。
不完全な確信を確かなものにしたくて、あの黒い男の子と同じグループに居る男に聞いたのに、上手い具合に牽制された。
むすりと頬を膨らませても、宥める者は側にいない。
自販機を放置したままで居ると、横から手が伸ばされ勝手にボタンを押された。
「あ」と思った時には遅く、がこんと取り出し口にアイスが落ちる。
ティラミス味コーンタイプ。この自販機で一番高いやつ。
誰が勝手に。金返せ。
一つ文句を言ってやろうと、口を開きかけたところで、相手の声に遮られた。
「詮索したらいけないんだー」
降ってきた声に、八谷の動きがぴたりと止まる。
その隙を突いて、ボタンを押した張本人はアイスを引っ張りだし、八谷から離れていった。
「待って!」
八谷は、気配が遠ざかっていく中で我に返り、慌てて去り行く背中に言葉を投げる。
ぴたりと、相手の足が止まる。言葉を聞いてくれる気はあるらしい。
八谷は、言葉を慎重に選びながら口を開いた。
「どうして、辞めちゃったの? 君、上手だったのに。どうして…………?」
直ぐには答えてくれなかった。
名前に「直」という字が入っているのに。
たっぷりと深呼吸ができるくらいの時間が過ぎてから、相手が…………藤直哉がゆっくりと振り向いた。
立てられた人差し指が、彼の唇に触れる。
返ってきた言葉は、あまりにも簡素なものだった。
「内緒」
悔しかった。
苦しかった。
切なかった。
事務所の後輩や先輩たちの活動を見かける度に、〝どうして彼は居ないの〟と、虚しくなった。
本当なら、あの後輩の位置には彼が居る。
何もなければ、あの先輩の位置には彼が居る。
彼がデビューした季節が来る度に、今ごろアルバムのリリースを発表して、同時にツアーの発表も出ていたのにと、唇を噛む。
身を焦がして応援していたのに、〝どうして〟と永遠に姿を消した彼を恨む。
彼から与えられるものを受けとるだけ受け取って、彼に還元しなかったファンを憎む。
彼にもっと声が届いていれば、ファンクラブの会員数が増えていれば、辞める選択はなかったかもしれない。
良い時間だった
良い思い出だった。
彼の選択を受け入れたファンのように、綺麗に浄化することは舞にはできなかった。
とても、できる所業ではなかった。
受け入れるには、あまりにも酷な結果だった。
「だから、この会社に入ったの」
ここなら、あの人の側に居られるから。
表舞台から姿を消したあの人を、感じ取ることができる。
SNSで嘆き、悲しみを綴るだけの日々を続けるくらいなら、線を飛び越えてしまおう。
洗面台を擦る音が止まり、静けさがトイレの中を満たす。
つらつらと、自分の思いの整理をしていた舞の背中には、大きな疲れが見て取れた。
舞の肺から、重たい息が吐き出される音がする。
「だからといって…………他人に手を出すつもりはなかったけどね。コンビニで朝田繭と偶然出会ってから、急に攻撃したくなったのよ。昴くんに何もしなかった連中に」
今までは、鬼頭昴に対する意見やメッセージを見ても見ないふりができていた。
朝田繭と出会ってから………彼女の目をじっと見たときから、舞の中で順調に動いていた歯車が軋む音がしたのだ。
彼への意見やメッセージだけでなく、他のグループを称賛する声や応援する前向きな声も鼻につくようになり、SNSを眺める度に苛々とした感情が渦を巻いた。
渦巻く心に導かれる形で吐き出し用のアカウントを作り、自分とは異なる意見を言う者……見ず知らずの鬼頭昴ファン相手に手当たり次第攻撃的なメッセージを送り、現実世界では泉や夕陽に当たり散らした。
泉は、これまで会社では一切知ることが無かった彼女の一面に、言葉を失う。それと同時に、胸の内側をぎゅっと掴まれる感覚が襲いかかった。
泉は、彼女の言う事に殆ど賛同できない。
誰をどういう形で応援するのかは人それぞれであり、彼が辞めたことで自分とは違う応援をしていた人に八つ当たりするのは違う。
悔しいという気持ちと寂しかったという気持ちはわかる。泉も、彼のパフォーマンスを演技をもっと見ていたかった。
ただ、それ以上に、忘れられない姿がある。
「舞さんは、昴くんの最後のライブ、ちゃんと見ましたか?」
久しぶりに開いた口から出たのは、酷く冷たい声音だった。
気を抜けば、声が震えそうだ。
自分勝手はどちらだと、怒鳴り散らしそうだ。
その気持ちをぐっと堪えて、舞の背中を見つめる。
問いを投げられ、振り向いた彼女は訝しげな表情を浮かべている。
感情的にならないように。あくまでも、冷静に。
「昴くん、楽しそうだったけど、辛そうな表情も少しだけ出してました。不本意とかではないだろうけど……」
彼はライブをするのは好きなのだろう。
好きでなければ、自分のライブで細部に渡って演出に拘ったり、今も後輩たちのライブを手掛けたりしない。
最後のライブを迎えた頃、鬼頭昴の年齢は二十代の終盤、三十歳が近づいて来た頃だった。仕事の取り組み方を考える節目の年齢と言ってもいいだろう。
自分のやりたい仕事、ファンが望む仕事、事務所が持ってくる仕事。
この先、五十年と続いていく人生の基盤を試行錯誤しながら作っていく中で「あれやって」「これやって」と言われたら。
お客様面で、我が儘を言われたら。
そんな声が届いていたなら。
「正直、口がへの字になります」
彼の感情とファンの感情が噛み合わない状態で続けるくらいなら、辞めて正解だ。苦しみに、痛みに耐える表情を見せられるよりずっと良い。
言い放つと同時に口角がつり上がる。
鏡に居る泉の表情は、憂いがさっぱりと落ちた爽やかな笑顔だった。
対して、舞の方は頬が引きつっている。
「あんた…………」
なかなか、いい性格してるわね。
八谷貢は、アイスのパネルが並ぶ自販機を前にして、首を傾げた。
今日の合同レッスンは無事終了した。
時刻はもう夕暮れ時で、練習生たちは帰り支度を進めたり、個人レッスンに向かったりと好きなように過ごしている。
八谷も今日のスケジュールは全て終えているので、あとは家に帰るだけだ。
なのに、胸の内側に引っ掛かった物が取れなくて、うんうんと唸って居る。
「嘘吐かれた気がする」
あの黒い男。絶対に、昔出会った少年だ。
不完全な確信を確かなものにしたくて、あの黒い男の子と同じグループに居る男に聞いたのに、上手い具合に牽制された。
むすりと頬を膨らませても、宥める者は側にいない。
自販機を放置したままで居ると、横から手が伸ばされ勝手にボタンを押された。
「あ」と思った時には遅く、がこんと取り出し口にアイスが落ちる。
ティラミス味コーンタイプ。この自販機で一番高いやつ。
誰が勝手に。金返せ。
一つ文句を言ってやろうと、口を開きかけたところで、相手の声に遮られた。
「詮索したらいけないんだー」
降ってきた声に、八谷の動きがぴたりと止まる。
その隙を突いて、ボタンを押した張本人はアイスを引っ張りだし、八谷から離れていった。
「待って!」
八谷は、気配が遠ざかっていく中で我に返り、慌てて去り行く背中に言葉を投げる。
ぴたりと、相手の足が止まる。言葉を聞いてくれる気はあるらしい。
八谷は、言葉を慎重に選びながら口を開いた。
「どうして、辞めちゃったの? 君、上手だったのに。どうして…………?」
直ぐには答えてくれなかった。
名前に「直」という字が入っているのに。
たっぷりと深呼吸ができるくらいの時間が過ぎてから、相手が…………藤直哉がゆっくりと振り向いた。
立てられた人差し指が、彼の唇に触れる。
返ってきた言葉は、あまりにも簡素なものだった。
「内緒」