first stage ワタリガラスの止まり木


#ヴァンド

「泉さんは一般人じゃないですよ」

 夕陽の発言に、泉は目を瞬かせる。
 後輩の目は至って真剣だ。ふざけて言っている様子はない。
 泉が反応を返せないままでいると、夕陽は表情を変えぬまま泉の肩にしっかりと手を置き、同じ言葉を繰り返した。

「芸能活動とかはしていなくても、泉さんは一般人ではないです。ちょっと前まではそうだったかもしれませんが、今は弟さんが芸能界に入って、直ぐ隣にある世界の住人になったんですよ」

 扉一枚、隔てた向こう側に、今まで近づけなかった世界がある。
 夕陽の指に力がこもる。ちょっとだけ眉間にしわが寄ってしまう、そんな力の入れ方だ。
 泉は、確かに一般人である。でも、普通の一般人とは違う。
 弟を介して、遠い場所だと思っていた芸能界と繋がれる位置に居る。
 でも、だからこそ、気を付けねばいけないのではないか。
 近い場所に居るからこそ、不用意に近づいてはいけないのではないか。
 泉が不安を吐露すると、夕陽は首を横に振った。

「だからといって、全部の連絡を途絶えさせたら、何かあった時に弟君が困っちゃいますよ」

 少なくとも、事務所側は泉の番号でも書類を受理した。それは、姉の番号でも問題ないと判断したからだろう。
 そういえば、と思い出す。
 夕陽も弟が芸能界に居ると言っていた。いつ入ったのかは知らないが、芸能人の身内となった期間は泉よりもきっと長い。彼女の方が、芸能界との付き合い方と振る舞い方を熟知しているだろう。
 泉はまだ、その点が割りきれていない。
 ファンだった頃の自分と、芸能人の家族である自分。
 どこで境目をつけて、どう振る舞うべきなのか。

「それに、昴くんもあれから何も言ってきてないじゃないですか。先輩の態度で何かあれば、苦言の一つや二つ飛んで来てますよ」

 現に、あの場では何も言っていなかった。繭と舞の件があったので失念しただけかもしれないが、落ち着いた今も何も言ってこないのではあれば、今まで通りで良いという判断をしている可能性がある。
 泉の方から関係を気にして、あれこれと変える必要は無い。逆に手続きの変更等の連絡で、手を煩わせることだろう。
 何事もなかった時と同じく、堂々としていれば良いのだ。
 夕陽の説得に、泉は咀嚼しきれなかった部分もあるが、「そういうものか」と遠慮がちに頷きかけた時、午前中不在だった人物の声が耳の奥を突いた。

「だからと言って、馴れ合うのも違うでしょう」

 低く冷たく響いた女性の声に、泉と夕陽は同時に肩を上げ、瞬時に声がした方へ顔を向ける。
 久方ぶりに姿を見せたのは、安野舞その人だった。
 泉と夕陽がそろって息を呑んだまま硬直していると、舞は肩が動くほど大袈裟なため息を吐いて腰に手を置く。

「まったく、二人揃って、お化けを見た反応見せてんじゃないわよ」

 呆れた様子の声音が耳に届き、夕陽が我を取り戻した。

「ど、どうして会社に? 今日も有休だったはずでは?」

 あれ遭遇以来、舞は会社を休んでいた。勤務表に年休の印が手書きで入っていたので、今日も休みだと思っていた後輩たちである。
 夕陽の問いに、舞は再び息を吐き出した。

「いつまでも、拗ねてるわけにはいかないでしょう」



 柔らかなスポンジで洗面台のボウルを擦る音が、トイレに壁に反響している。
 舞も含めて、泉と夕陽の午後の業務は、会社にある事務用のトイレ掃除から始まった。男子トイレは朝方社長がやっているのだがなにぶん男性なので、女子の方は事務に常駐している女性で、手が空いた時にやっている。
 今日はたまたま午後の始めに時間ができた。舞も久しぶりに出勤したので、頻繁に使われる一階のトイレは泉と舞が、二階のトイレは使用者が少なく、個室も二つしかないので夕陽一人で作業を進めているところだ。
 泉が床のモップがけをしている最中、洗面台を掃除していた舞がおもむろに口を開いた。

「休んでいる間、ずっと身の振り方を考えてた」

 淡々と放たれた言葉に、泉はモップを動かす手を止めて、洗面台に顔を向ける。鏡に居る泉の目が、僅かに開いているのが視界に入った。
 舞の方は、変わらず手を動かし続けている。毎日掃除しているので、黒ずみや水垢も目立つほど無いはずだが、動くことで頭の中にある言葉を整理しているのかもしれない。その証拠に、話す速度がゆったりとしていた。

「写真とはいえ、会社で使った個人情報を持ち出したのは規則違反だし、後輩相手に酷い真似も酷いことも言った。未遂とはいえ手も出した。それに……」

 言葉の途中で息が長く吐き出され、動かす手も止まる。
 洗面台を見ていた顔が上がり、芯のある視線と泉の戸惑う視線が鏡の中でぶつかる。
 流れる静寂に、ほんの少しの時間身を浸した後、舞が再び口を開いた。

「このままここに居ると、境界線が曖昧になりそうだから。というか、なっていたんだと思う」

 鏡の中に居る舞の口許が緩み、自嘲を含んだ声音が空気を震わせる。
 泉は言葉を返さず、耳を傾ける。
 まだ口を挟む時では無い。
 今はきっと、舞の気持ちを整理する時間だ。曖昧になった境界線を元の線の位置で結ぶ為に、必要な時間。

「私は、昴くんの事が好きだったのかもね。鬼頭昴のパフォーマンスじゃなくて、鬼頭昴という〝アイドル〟の男にご執心だったのよ」

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