first stage ワタリガラスの止まり木
#ヴァンド
泉は、午前中の仕事をいつものように何事もなく無事に終え、一時間の昼休憩に入った。
今日は母が作ったお弁当を持ち、休憩スペースにあるテーブルに広げ、カップのアイスコーヒーをお供に箸を持つ。
普段であれば、このまま食べ進めるのだが、夕陽と朝田事務所のライブを観に行ってからは、事務所が開設と管理をしているタレントのブログに気を取られてばかりだ。
眉間にしわを寄せつつ、トップページをスクロールする。
特に誰かのを読みたいわけではないのだが、自然とページを開いてしまっている。ブログのタイトルとタレントのアイコンは流し見に近い。
ページの下部へ近づけば近づくほど、並ぶタレントの芸歴は若くなる。タレントの下にあるのは、スタッフが交代で更新しているスタッフブログだ。スタッフの名前はイニシャルで、アイコンも会社のロゴが一つ。内容は、スタッフ仕事の裏側から、抱えているアイドルのプロモーションまで色々だ。
あのライブが終わってから、幾日か経った。
その間、公式サイトを見ても、大きなトラブルがあった事や、規約の変更に関する知らせは出ていない。
出ていないが、出勤時や退勤時に見かけていた出待ちは、とんと見なくなった。中で待機していた警備員とそのデスクも、表から見えやすい位置に配置移動されている。
出待ちが居なくなったのは、この配置移動のおかげだろう。
移動のきっかけは、駅前のあの騒動を鬼頭が会社側に伝えたからな気がするが、あの日以来、泉は鬼頭に会っていない。だから、内部でどういう話があったのかはわからないが、出待ちは元々禁止されている行為。騒動に関係なく、会社側で取り締まりを強化しただけな気もする。
新しいグループもこの先出てくるし、入ったばかりの若い子たちは専用の移動車なの用意されていないので、歩いて出勤する場面がどうしても出てきてしまう。
弟たちが良い例だ。あの子たちはグループを組んで、ライブに参加できるようになった身になった。けれど、専用の移動車はまだ与えられていない。帰る時間が遅くなった時だけ、鬼頭に地元の最寄り駅まで送ってもらっている日々が続いていた。
昼のブログ巡回を終えて、スマートフォンを一度テーブルに置く。
今日のスタッフブログは、まだ更新が無いようだ。今日の更新担当は、順番通りでいくと鬼頭昴である。前回の内容は烏の写真と一言コメントが載っただった。
泉は、ライブがあった日に、夕陽からこのスタッフブログの存在を知らされた。
知らされるまで、気づかなかった。昔応援していたアイドルが、弟のマネージャーがそのブログを時々更新している事に。
気づかないほど、自分はあの人から離れていたのだ。それとも、離れたのはあの人の方か。
いいや、違う。と、泉は首を小さく振った。
元々、離れていたのだ。彼の方は、寄り添ってくれていただろうに、泉の方が勝手に線を引いて、彼から距離を取っていた。
それでも、こうして古巣の事務所で活動している姿を見れるのは、どんな姿でも嬉しい。
裏方でもなんでもいい。そこに居る、生きているとわかるだけでも、安心するのだ。
あまりにも嬉しすぎて、思わず電話をかけてしまったくらいには。
その時の事を思い出して、泉は身震いした。どくんどくんと、血の気が一気に引いていく。
興奮していたとはいえ、あの時の泉はなんという行動をしているんだ。
鬼頭昴の連絡先は、あくまでも緊急連絡先として使用する為に、アドレス登録してあるのだ。事務所で何かあった時、物理的に一番近い場所に居るのが泉だから。私用で使う為に、交換しているのでない。
「なんということを…………!」
何をやっているんだ、私は。
顔を手で覆い、ふるふると肩を震わせる。
あれから何日も経つのに、今になって恥ずかしく、申し訳なくなってきた。穴があったら入ったまま一生でたくない気分である。
後輩の軽やかな声が聞こえてきたのは、己の行いが招いた恥に堪え忍んでいる時であった。
「泉さん、どうしたんですか? 熱中症?」
夕陽が、コンビニの袋を片手に首を傾げている。
お昼ご飯の買い出しから戻って来たばかりなのだろう。額にうっすらと汗をかいていた。
「外の気温ヤバかったー」と続けながら、夕陽は泉の向かい側に腰を落ち着かせて、食べ物よりも先にペットボトルの麦茶を呷る。よほど咽が乾いていたのか、ペットボトルからしばらく口を離さなかった。
「…………それで本当にどうしたんです? ぷるぷるしちゃってますよ」
「熱中症よりも、まずい事に気づいてしまって」
この世の終わりとばかりに語り出した泉に、始めこそは真剣な表情で聞いていた夕陽も、次第に表情を緩めてけらけらと笑い出した。
「泉さん、気にしすぎですよー」
「でも、さすがにこれは、公私混同が過ぎるでしょう……⁉ 相手昴くんなんだよ……! 真面目で堅物、ライブ中の規約違反者は徹底的に干す事で有名だった男(ひと)だよ……! 怖いんだよ! 恐ろしいんだよ!」
「そんな人を相手に、私は……!」と、泉はテーブルに突っ伏す。
本人から特に何かを言われたわけではないが、これでは……これではまるで、自分の欲を満たす為に規約違反をしている人と同じだ。
出待ちや、サイズオーバーの応援グッズを持ったファンや、アイドル目当てで事務所近隣の会社に入社する人と変わらない。
緊急用だからと貰った連絡先だけど、この連絡先を、一時でもファンクラブに入り、今でもCDやライブの映像を大事に残している人間が持っていていいのだろうか。
今は何もなくても、いつか個人的な事で使ってしまう日が来るのではないか。もう使った後だけど、これが癖になって頻繁にするようになったらどうしよう。
泉は、あくまでも一般人。向こうは、引退したといえど、芸能人。住む世界が違う。畏れ多い。
急に襲いかかってきた恐怖に震えが止まらない。
突っ伏したままの泉の肩を、夕陽がぽんぽんと叩きながら口を開いた。
「泉さんは一般人じゃないですよ?」
泉は、午前中の仕事をいつものように何事もなく無事に終え、一時間の昼休憩に入った。
今日は母が作ったお弁当を持ち、休憩スペースにあるテーブルに広げ、カップのアイスコーヒーをお供に箸を持つ。
普段であれば、このまま食べ進めるのだが、夕陽と朝田事務所のライブを観に行ってからは、事務所が開設と管理をしているタレントのブログに気を取られてばかりだ。
眉間にしわを寄せつつ、トップページをスクロールする。
特に誰かのを読みたいわけではないのだが、自然とページを開いてしまっている。ブログのタイトルとタレントのアイコンは流し見に近い。
ページの下部へ近づけば近づくほど、並ぶタレントの芸歴は若くなる。タレントの下にあるのは、スタッフが交代で更新しているスタッフブログだ。スタッフの名前はイニシャルで、アイコンも会社のロゴが一つ。内容は、スタッフ仕事の裏側から、抱えているアイドルのプロモーションまで色々だ。
あのライブが終わってから、幾日か経った。
その間、公式サイトを見ても、大きなトラブルがあった事や、規約の変更に関する知らせは出ていない。
出ていないが、出勤時や退勤時に見かけていた出待ちは、とんと見なくなった。中で待機していた警備員とそのデスクも、表から見えやすい位置に配置移動されている。
出待ちが居なくなったのは、この配置移動のおかげだろう。
移動のきっかけは、駅前のあの騒動を鬼頭が会社側に伝えたからな気がするが、あの日以来、泉は鬼頭に会っていない。だから、内部でどういう話があったのかはわからないが、出待ちは元々禁止されている行為。騒動に関係なく、会社側で取り締まりを強化しただけな気もする。
新しいグループもこの先出てくるし、入ったばかりの若い子たちは専用の移動車なの用意されていないので、歩いて出勤する場面がどうしても出てきてしまう。
弟たちが良い例だ。あの子たちはグループを組んで、ライブに参加できるようになった身になった。けれど、専用の移動車はまだ与えられていない。帰る時間が遅くなった時だけ、鬼頭に地元の最寄り駅まで送ってもらっている日々が続いていた。
昼のブログ巡回を終えて、スマートフォンを一度テーブルに置く。
今日のスタッフブログは、まだ更新が無いようだ。今日の更新担当は、順番通りでいくと鬼頭昴である。前回の内容は烏の写真と一言コメントが載っただった。
泉は、ライブがあった日に、夕陽からこのスタッフブログの存在を知らされた。
知らされるまで、気づかなかった。昔応援していたアイドルが、弟のマネージャーがそのブログを時々更新している事に。
気づかないほど、自分はあの人から離れていたのだ。それとも、離れたのはあの人の方か。
いいや、違う。と、泉は首を小さく振った。
元々、離れていたのだ。彼の方は、寄り添ってくれていただろうに、泉の方が勝手に線を引いて、彼から距離を取っていた。
それでも、こうして古巣の事務所で活動している姿を見れるのは、どんな姿でも嬉しい。
裏方でもなんでもいい。そこに居る、生きているとわかるだけでも、安心するのだ。
あまりにも嬉しすぎて、思わず電話をかけてしまったくらいには。
その時の事を思い出して、泉は身震いした。どくんどくんと、血の気が一気に引いていく。
興奮していたとはいえ、あの時の泉はなんという行動をしているんだ。
鬼頭昴の連絡先は、あくまでも緊急連絡先として使用する為に、アドレス登録してあるのだ。事務所で何かあった時、物理的に一番近い場所に居るのが泉だから。私用で使う為に、交換しているのでない。
「なんということを…………!」
何をやっているんだ、私は。
顔を手で覆い、ふるふると肩を震わせる。
あれから何日も経つのに、今になって恥ずかしく、申し訳なくなってきた。穴があったら入ったまま一生でたくない気分である。
後輩の軽やかな声が聞こえてきたのは、己の行いが招いた恥に堪え忍んでいる時であった。
「泉さん、どうしたんですか? 熱中症?」
夕陽が、コンビニの袋を片手に首を傾げている。
お昼ご飯の買い出しから戻って来たばかりなのだろう。額にうっすらと汗をかいていた。
「外の気温ヤバかったー」と続けながら、夕陽は泉の向かい側に腰を落ち着かせて、食べ物よりも先にペットボトルの麦茶を呷る。よほど咽が乾いていたのか、ペットボトルからしばらく口を離さなかった。
「…………それで本当にどうしたんです? ぷるぷるしちゃってますよ」
「熱中症よりも、まずい事に気づいてしまって」
この世の終わりとばかりに語り出した泉に、始めこそは真剣な表情で聞いていた夕陽も、次第に表情を緩めてけらけらと笑い出した。
「泉さん、気にしすぎですよー」
「でも、さすがにこれは、公私混同が過ぎるでしょう……⁉ 相手昴くんなんだよ……! 真面目で堅物、ライブ中の規約違反者は徹底的に干す事で有名だった男(ひと)だよ……! 怖いんだよ! 恐ろしいんだよ!」
「そんな人を相手に、私は……!」と、泉はテーブルに突っ伏す。
本人から特に何かを言われたわけではないが、これでは……これではまるで、自分の欲を満たす為に規約違反をしている人と同じだ。
出待ちや、サイズオーバーの応援グッズを持ったファンや、アイドル目当てで事務所近隣の会社に入社する人と変わらない。
緊急用だからと貰った連絡先だけど、この連絡先を、一時でもファンクラブに入り、今でもCDやライブの映像を大事に残している人間が持っていていいのだろうか。
今は何もなくても、いつか個人的な事で使ってしまう日が来るのではないか。もう使った後だけど、これが癖になって頻繁にするようになったらどうしよう。
泉は、あくまでも一般人。向こうは、引退したといえど、芸能人。住む世界が違う。畏れ多い。
急に襲いかかってきた恐怖に震えが止まらない。
突っ伏したままの泉の肩を、夕陽がぽんぽんと叩きながら口を開いた。
「泉さんは一般人じゃないですよ?」