first stage ワタリガラスの止まり木

#ヴァンド

 ステージに立った余韻に浸る暇もなく、次の仕事に向けたレッスンが始まった。
 樹も例外ではなく、大と直哉と共に、事務所が借りたスタジオに赴いて身体を動かす。
 次の仕事といっても「これ」と確実に決まった物はない。練習生の主な仕事は、動画サイトに載せる動画の撮影、ライブへのバックダンサー出演、そして事務所が長年行っている舞台への出演。経験を積めば、テレビやネット限定配信のドラマ、バラエティーへの出演もある。出演の殆どは先輩との抱き合わせ出演だが、ドラマは主演を任される事もあるそうだ。
 もう何回同じ曲を聴いただろう。
 慣れ親しんだというよりも、耳どころか身体全体で刻み込まれる勢いで同じ音楽を聴き、同じ振り付けを何度も繰り返す。
 鏡に居るのは、顔から首からだらだらと汗を流す練習生たちの姿。下は小学校の低学年、上は高校生。冷房がついた室内も、運動をしたら汗をかく。
 夏休みが終わる八月末まで、ずっとこの調子で行われるそうだ。学校が始まると、一同揃って練習できる日が限られるから、今のうちに覚えられるものを覚えさせると。過去に出された曲から最新の曲まで、それはもう幅広く。 
 Tシャツの襟元が汗でびしゃびしゃになった頃、ようやく長めの休憩時間が訪れた。
 レッスン室のあちらこちらから、重たく大きなため息が吐き出されると同時に、四つん這いになったり、腰を落としたりする。中には、床で伸び出す者も居た。大がまさにその状態だった。直哉に視線を移せば、ぼうっと突っ立ったまま、天井を見上げている姿が目に入る。
 樹より体力がある二人がこの反応を見せたという事は、今のレッスンは誰が受けても大変だったのだと理解した。

「キツいなあ……」

 心の中で思うだけでいい言葉が、ぽろりと口からこぼれる。
 今日のレッスンは、ハル先生こと豪華炎乱の聖春高が見に来ていた。楽曲も、豪華炎乱の物が多かったが、ハル先生のソロ曲や、ハル先生の相棒榊雅臣のソロ曲、先日出演させてもらった先輩グループの楽曲、そして、鬼頭昴の曲と多種多様で、それぞれ雰囲気も曲調も違うから、集中しないと頭がついていかない。
 振り付けも、豪華炎乱はしなやかさと派手さを、鬼頭昴はメリハリを求められる。
 それに加えて、ハル先生の「揃えるな」という指導があった。
 同じ振り付けで、腕を上げるタイミング等は揃えるけれど、腕を上げるまでの筋肉の動かし方、指先までの伸ばし方は、他人を真似ず、自分で考えて動かせ、と。それが、個性に繋がってくるのだ、と。これが、ハル先生の「揃えるな」という指導だ。
 音楽は止まっているはずなのに、頭の中、耳の奥でまだ鳴り響いている感覚がする。
 水分補給をしようと、壁際の長机に置いた荷物を取りに行こうとしたら、ふわふわとした床に足をつけているような気分になった。床を掴む力が上手く伝わっていない、これは完全に疲れている。レッスン以外でも、体力をつけるトレーニングをした方がよさそうだ。
 鞄の中から水筒を取り上げようとしたところで、ひんやりとした固まりが頬に当てられた。

「…………!」

 急にやってきた冷たさにびくりと肩が跳ねた勢いのまま、冷たさが残る頬側に視線を向けた。
 同じ年齢か少し上に見える男がそこに居た。
 照明に照らされた金色の髪が鈍く輝く。顔に嵌め込まれた目は目尻がやや吊り上がり、その中にある瞳は薄い水色だ。カラーコンタクトだと認識するのに、やや時間がかかった。少しだけ日に焼けた肌には、樹と同様に汗が付着している。彼もこのレッスンを受けていたのだろう。そして、その顔に覚えがあった。
 先日参加したライブが始まる前。見学に来た豪華炎乱の二人に呼ばれて向かった部屋の前、そこですれ違ったグループの一人だ。
 グループの名前はハイエナジンクス。樹たちよりも少しだけ早くこの事務所に入った人たち。
 男は首を僅かに傾けながら、口を開いた。

「げんき?」

「あ…………うん…………元気」

 質問の意図が読めず、当たり障りのない言葉を返す。
 彼もその返しを想定していたのか「そう」とだけ短く返して、水色の箱を先ほど冷えた頬に押し付けた。

「これあげる。美味しいよ、せぶんてぃーんのちゅーちゅーアイスソーダ味」

「あ、ありがとう、ございます」

「硬派かよ」と、彼が苦笑いした。

「今から敬語NGにしていい? 同じ歳でしょう? 確か」

「ちょー疲れちゃったねえー」などと続けながら、彼は自分の手に残っていたちゅーべっとの蓋を千切り開け、口に咥えたままその場に腰を落とす。
 樹も彼にならって腰を落としながら、思いがけない言葉に目を丸くさせた。

「そうなの?」

「うん、マネージャーさんから教えて貰ったから。同い年の子がいるって。あ、俺は八谷貢(はちや みつぐ)って言うの。二〇〇四年生まれでしょう? 俺はその年の八月生まれ」

「俺は、兵藤樹。四月生まれ」

 誕生日を告げると、彼はぱっと表情を明るくさせた。

「おにいさんじゃん」

「四月も八月も変わんないだろう? 十二月とかならあれだけど……」

 十二月生まれの男が脳裏に浮かび、視線を一度直哉に向ける。
 直哉は、小学生に囲まれながらうつ伏せで伸びている大の背中にまたがり、足を掴んで海老反りをさせようとしていた。
 痛そうだから、やめてさしあげろ。
 チビッ子たちの前で何をやっているんだかと、呆れが混ざった息を吐き出した時、傍らに居る彼が口を開いた。

「この前すれ違った時から気になってたんだけどさ」

 八谷という名の少年は、声の音量を落として言葉を発する。

「君の仲間に」

 樹の顔と、少し離れた場所で大と戯れる直哉の顔を交互に見ながら、さらに音を低くさせた。

「子役やってた子、いない?」
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