first stage ワタリガラスの止まり木


 苛立ちを紛らわすように閉めたドアは、想定よりも大きな音を立てた。
 その音にも苛立ちを覚えて、舌を打つ。
 車に戻るまで、何度舌を打ったかわからない。
 打ったところで苛立ちが消えるわけでもないのに。そうわかっているのに止まらないのは、久しぶりに腹を立てているからだ。腸が煮えているどころではない。爆発しそうである。
 腹の熱を少しでも逃がしたくて、息を大きく吐き出す。
 気休めな行為だが、何もせず黙ったままでいるのも気分が悪かった。
 腕にある時計に視線を落とす。子どもたちを駅まで送ってから会場に戻る予定の時刻を越していた。懐に入れていたスマートフォンを取り出せば、着信履歴に後輩の名前が幾つも載っている。先輩の名前がないだけましか。
 再び息を吐き出しつつ、画面の明かりを落とす。
 このまま帰ってしまおうか。そう思ったが、あいにく乗って来た車は会社の車だった。自分の車は事務所の駐車場に置きっぱなしだ。取りに行かねば自宅へ帰れない。

「めんどくせ……」

 ついに、ファンの前では我慢していた気持ち
を言葉にしてしまった。
 ハンドルを抱えるように突っ伏す。
 気持ちも体力も、もう一歩も動けない時に似ている。
 何かもう、全てのことが嫌になってきた。
 そもそも、何に苛立っているのか。
 何を面倒臭く思っているのか。
 それを整理するのも億劫だ。
 頭を抱えたまま、何度目かもわからない重たい息を吐き出す。
 目と目の間に疲れがたまっている気がして、指先で揉み解した。
 瞼を落とし、
 飄々とした少年の声が車内に響いたのは、そんな時であった。

「ねえねえ、帰らないの?」

「…………」

 後部座席から、駅に置いてきたはずの少年の声がする。
 おそろしい怪奇現象に遭遇している気分だ。
「いやいや、まさかな」と首を振っても、「お腹減ったー」だの「アイス食べたーい」だのと、独り言が飛んでくる。
 そろりと後ろを振り向けば、自分が抱えているアイドルがやはり居た。そこに座っているのが当たり前とでも言うように、自分のスマートフォンに視線を落としつつ、何の違和感もなく。
 本日一番大きなため息が、口から出てきた。

「何やってんだ、お前」

「帰るのを待ってる」

「そういうことじゃない」

 このまま相手をしていたら、残っている体力と気力全部削がれる。
 ひしひしとそんな気がしたので、とりあえず会場へと車を進めることにした。事務所に持って帰るべき荷物が、まだ残っているのだ。
 子どもたちを駅に送る前の俺は、駅に置いてきたはずの子どもを再び座席に乗せて戻るなんて一欠片も思っていなかった。正直、現役でライブを終えた時以上の疲れを感じている。
 ため息をまた一つ吐き出すと「幸せが逃げちゃうぞ」という言葉が後ろから投げられた。

「誰のせいだ」

「自分のせいじゃない?」

「厄介なファンを抱えたツケだよ」と、子どもは笑う。
「抱えていたわけではない」と言い返したくなったが、事実なので口を閉ざす。
 生きた時代のせいか。それとも、そういう性質の〝もの〟を寄せ集めやすいやすいのか。どうも自分の世代のファンや、自己主張が強い。記憶に新しいのが、禁止行為にした出待ちをするファンたち。
 眉間にシワを寄せ、ぐぬぬと唸る大人の空気を背中からも感じ取れたのか、ルームミラー越しに子どもが笑う様子が見えた。

「ファンを持つって大変だね」

「お前も、そのうちそうなるんだよ」

 苦虫を口の中で数十匹ほど噛み潰したところで、アクセルペダルを踏み込む。自分の車とは違う滑り出しをする社用車に困惑した頃もあったが、今ではすっかり慣れた。
 すれ違う対向車のヘッドライトが眩い。
 夜闇の中。視界を掠めていく街灯が、ちらちらと揺れるペンライトに見えてきた。今日のライブが脳裏に甦る。
 照明が落とされた中で浮かび上がる、メインステージ。
 迎え入れるように響いた歓声と拍手。
 開幕を告げる、映像と音楽。
 黒く染まった中で見えたペンライトの色が、昔は心強かった。

『ファンは強い味方でもあるけど、敵でもある』

 遠い昔に、同業者の誰かが放った言葉が甦る。
 あの色を怖いと感じるようになったのは、会場の空気が重くのしかかるようになったのはいつの頃からか。
 ミラー越しに居る子どもに、一瞬だけ視線を移す。
 子どもは、スマートフォン片手に歌を口ずさんでいる。
 今日のステージでは、この子どもがマイクを持つ機会はなかった。通路で踊っていただけで、他にやった事といえば軽い自己紹介くらいなものだ。

「なあ、お前」

「なーにー?」

「今日のステージ楽しかったか?」

 子どもは、すぐに言葉を返さなかった。
 目をぱしぱしと瞬かせてから、考えるように首を傾ける。
 まだ幼さが残る少年の脳裏には、今日見た光景が広がっていることだろう。
 初めて立ったステージのことは、いつまでも忘れられないくらい強く印象に残る。
 自分の時はどうだったかと思い巡らせた時に、子どもが口を開いた。

「たのしかった!」

 元気いっぱいな声音だった。
 ミラーから表情を確認すると、普段すんとすました表情しか乗せない顔に、ぱっと明るい光が灯っている。
 こいつ、こんな表情見せるんだなと、少し驚いた。

「そうか……」

「うん、たのしかった。少なくとも、家に居るよりはね」

 子どもは、今日見えたステージからの景色を、きらきらと目を輝かせながらマネージャーに聞かせる。
 家族に語ればいいような内容を、会場に戻るまでずっと続けていた。
53/63ページ