first stage ワタリガラスの止まり木

#ヴァンド

「ごめんね。悪いところを見せちゃったね」

「大丈夫。こっちはとっても平気」

 揺れる電車の中で頭を下げられ、樹は首を横に振る。
 なんだか、直哉が使いそうな言葉の並びになってしまったが、樹自身は本当に何でもないので、そう言うしかない。
 しょんぼりと肩を落としているのは、怖がっていたのは、姉の方だ。
 せっかく、推しがいる事務所のライブに行ったのに。何事もなければ、満足した気持ちを抱えて帰れただろうに。そんな物は一方的な個人の気持ちで吹き飛んでしまった。
 姉は樹に一つ微笑んでから、隣に居る夕陽へと視線を移し、樹にしたように頭を下げている。夕陽はぶんぶんと頭と両手を振って「こちらこそ悪いことをした」と、頭を下げ返していた。
 落ち着いてから話を聞くと、夕陽が舞に声をかけたことで、今回の件に発展してしまったそうだ。会社の懇意にしている先輩が居たから声をかけただけ。なのに、ファン同士の揉め事に発展するなんて誰も思わない。
 ──姉ちゃんのせいじゃないよ。
 そう言ってあげたかった。
 でも、その一言を伝えても、姉は元気にならないだろう。
 突発的だったとはいえ、推しの前でファン同士の小競り合いを見せてしまったのだ。鬼頭のあのうんざりとした表情は、心に来るものがあったかもしれない。
 自分が憧れのアーティストにあんな表情をされたら、落ち込むという言葉では足らないほど沈んでしまいそうだ。
 自分のマネージャーは、仏頂面は見せるが嬉しい時はもちろん、怒った時の表情を見せようとしない。それでよくアイドル十年も出来たなと思うが、樹は今日のライブで一つわかったことがある。
 あそこは、自然と笑みが出る場所だ。
 ステージも客席も関係なく。
 ファンは、ステージ上のパフォーマンスを見るにつれて心を踊らせ、笑顔を見せる。
 笑顔を振り撒けば、ペンライトと扇子が振られて、こちらも嬉しくて、顔の筋肉が柔らかくなる。
 お互いに楽しむとは、こういう事を言うのだろう。
 緊張はしたけれど、楽しかったのは事実だ。そして、とても綺麗な景色だった。
 それだけに、今回のことは傍らで見ていた樹は腸が煮えたぎったが、同時に恐ろしいとも感じた。
 あんなに笑顔だったファンの中にも、あの女性のように、一方的な思いを抱えているのだろうか。
 応援したい気持ちだけでなく、独り占めしたいという気持ちを抱えたり、マナー違反を繰り返したりしているのだろうか。
 あの舞という女性も、始まりは好きと応援したいという気持ちだったはず。それがいつの間にか恋慕に近い気持ちへ変わり、「全部あの人の為だから」と、ファンという顔を使って行きすぎた自治行為へ突き進んでしまった。本人も、自分が応援から逸脱した行動をしていることに気づかず、今日に至ったのだろう。
 結局、鬼頭は厳重注意だけして、舞を帰してしまった。ただし、朝田の事務所には入れさせないよう会社側に連絡するという条件をつけて。
 あの女性は、今後一切、仕事だろうがなんだろうが、事務所には入れない。泉に手を出したから、警察に突きつけても良いと樹は思うのだが、事務所出禁の方が、鬼頭昴のファンを名乗る舞には十分大きな罰になるとマネージャーは判断したのだろう。逸脱したファンの行動を前にした時、樹は冷静に対処できるか、正直自信がない。鬼頭は、もっと怒っても良いはずだった。
 推しから直接出禁を言い渡された彼女は、顔から血の気を無くして呆然とし、またぎゃあぎゃあと騒ぎ出したが、巡回していた駅員が声を掛けてきたのをきっかけに、そそくさと帰ってしまった。
 夜遅いとは言え、誰もいない駅ではないのだ。揉め事だと気づいた誰かが、駅員に連絡を入れたのだろう。鬼頭が駅員に事情を説明している間に、朝田繭も姿を消していた。終わった後で「迷惑な女だ」と、鬼頭が舌打ちしていた。

「アイドルって難しいな」

 ステージに上がって歌って踊るだけでなく、ファンにも細かな気配りが必要になってくる。
 言葉一つとっても、誤解を生むような言い回しをすれば軋轢を生むし、かといって何も言わずにいれば、勝手な憶測で中身を判断されてしまう。
 むうっと眉間にしわを寄せていると、傍らに居る大が「学校とかもそんなもんだろう」と、口を開いた。

「そういえば、京(みやこ)さん? だっけ? あんたは、泉ちゃんが鬼頭さんと連絡取り合ってて羨ましいとか妬ましいとか思わないの?」

「あんたもアイドル大好きなんだろう?」と、大の視線が泉に隣に居る夕陽へ向けられる。
 御姉様二人は、ぎょっと目を丸くして、素っ頓狂な声を上げた。

「いや! いやいや全然! お構い無く!」

 ぶんぶんと、顔の前で手を振り、否定をするどころかむしろ肯定される。
 夕陽は「実は」と、言い出し難そうに言葉を続けた。

「私の弟も、芸能事務所に所属しているんです。だから、連絡先の事情とかもよく知ってて…………黙っててごめんなさいね」

 夕陽以外の三人が、目を見開く。
 初耳な情報だ。
 両の手を胸の前で合わせて謝罪する夕陽は、はにかんだ笑みを見せている。聞かれる事がない限り、自分からは言わないようにしていたのだと、察した。

「あ…………朝田にはいないわよね?」

 泉が、弟よりも一足早く情報を呑み込み、問う。
 夕陽は「前は居たんですけど」と前置きしてから答えた。

「練習生で活動している時に他の事務所の方の目に留まって、そこの事務所に移籍したんです。それ以来、どこで何をしているかさっぱり」

 連絡を寄越さないのだと、夕陽は唇を尖らせる。

「お給料は口座に振り込まれているし、引き出してる気配もあるし、ショートメールの既読もつくから、生きてることは間違いないんですけど。事務所を移籍する時に、高校も全日制から通信制の学校に転校。家からは通えないから寮生活になって、以来ぱったりですよ。そんなに家族と連絡取るの嫌なんですかね? 高校生の男の子って」

 今まで溜め込んでいたのか。尖った唇からつるつると愚痴が滑り出てくる。
 現役の高校生男子である樹も大も、連絡を取らない高校生男子の気持ちはわからず、首を捻った。
「ああ、でも」と、一つだけ思い当たることがある。

「直哉なら、気持ちわかりそうだ」

「ああ、そうだな」

 直哉が母親と上手くいっていないのは、樹も大も泉でさえ認めるところだ。
 樹は直哉の名前を出してから、そこでようやくはたと瞼を瞬かせ、周囲を見回る。
 狭い電車の中。扉に付近に集まる自分たちの側に居るのは、仕事帰りの大人たちや、この時間まで遊び歩いていた人ばかり。その中に、直哉の姿がない。
 気づいた大も、首を傾げた。

「直ちゃんは?」

「え? 知らない。てっきり、ついて来てるもんだとばかり」

 勝手にあちこちへ消える性分ではあるが、泉と帰りたがって居たから側にいるもんだと思って気にしていなかった。
 まさか、駅に置いてきてしまった……?
 嫌な予感がして、ざっと顔から血の気が引く。
 直哉の事だから、一人でも帰れるとは思うが「置いていったな」と後で恨まれるのは勘弁だ。死んでからもくどくどと言われそうである。
 樹は、パンツの後ろポケットに突っ込んでいたスマートフォンに手を伸ばす。
 しれっと届いていたショートメールに気づいたのは、この直ぐ後だった。

〝鬼頭さんの家に泊まるって、あの人たちに言っておいて〟
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