first stage ワタリガラスの止まり木

#ヴァンド

 ぐらぐらと揺さぶられて、上手く力が入らず引き剥がすのに難儀していると、横から腕が二本も三本も伸びて舞の腕を泉の肩から外す。
 ほんの数秒の出来事だったが、長い痛みに感じられた。

「姉ちゃんになにすんだよ!」

 泉の直ぐ隣で、樹が吠える。
 その横で直哉が冷たく「さいてー」と吐き出た。
 手を出した舞の身体は、夕陽が背後から羽交い締めして取り押さえている。荒い呼吸を繰り返しながら、泉を睨む舞の目は獣のようだった。羽交い締めから逃れようと身を捩っているが、夕陽が逃がすまいとさらに力を込める。

「放しなさい! このにわか野郎!」

「舞さん、私のことにわかだと思ってたんですか⁉ 酷いです! 真剣に推してますよ! みんな平等に!」

 舞は飢えた獣に似た荒い呼吸を繰り返す。眉間にはぎゅっとしわが寄り、眉毛もつり上がっていた。これが漫画の描写なら、額からこめかみにかけて血管も浮き出ていただろう。
 普段の生活からでは見ることが無い豹変ぶりだ。その事に驚きつつも、泉の頭の中は冷静だった。
 彼女が何に怒っているのか。耳にぶら下がる烏を見て察した。
 舞は鬼頭昴のファンなのだ。おそらく、泉よりもずっとずっと深みに嵌まっている。
 この女性は、泉がアイドルの鬼頭昴に向けて、ファンレターを送らなかったことやグッズを全種類買わなかったことを積極的に応援していなかったと捉えたのだ。舞はこれらの行為を、ファンなら誰もがして当然だという考えなのだろう。
 確かに、積極的とはいえない推し方をしていただろう。泉は、なるべく鬼頭昴の懐に深入りしないようにと、線を引いて応援していたという自覚がある。
 深入りしたら、あれもこれもと知りたくなって、理性を無くすと思っていたからだ。
 だから、ファンレターを送らなかった。引退の知らせが書かれたメールを送られた時「こんな事になるなら、やはり送ればよかった」と、どれほど後悔したことか。
 唐突に掘り起こされた感情と記憶の嵐に襲われて胸が痛い。全身の肌がぶわっと逆立ち、頭の奥も血が集まって熱くなってきた。
 夕陽に押さえ込まれても、舞の毒吐きは止まることを知らない。
「なんで、お前が! なんで、お前が!」と繰り返し、繰り返し、叫ぶ。

「私の方が先に見つけたのに! なんでえ…………⁉ どうして、私じゃないの!」

「話がどんどん私事になってくな」

「聞く限り、姉ちゃん関係ないよ」

 樹と大が、ひそりこそりと会話を交わす。
 泉は、小さく首を振った。
 違う。姉ちゃんは、関係あるよ。
 目前の同僚が、鬼女みたいに狂ってしまったのは、姉ちゃんが知らない間に傷つけてたからだよ。
 だからといって、社内の人間しか持ち出せない物を外部に流したという行為は許す気にならない。
 そう伝えようとした時、きゃらきゃらと笑う声音が、舞の毒の中で妖しく響いた。

「あの女はねえ、嫉妬しているのよ。あなたたちのお姉さんに」

 愉しげな声音が、ぞわりと背筋を撫でる。
 歌うような軽やかさ。
 なのに、どこか重たく、ねっとりとしている。
 息を呑む気配の中、女は続けた。

「あの女はねえ、昴をアクセサリーにしたかったのよ。〝私は引退した彼と連絡が取り合えるのよ〟って、ファンのみんなに自慢したかったの。一番愛を注いでいるのは私って、マウントを取りたかったの」

 その為に、事務所の側にある会社に就職して、タレント目当てで面接を受けに来る者を根回しして落としていたのに、情報網からすり抜けて来た後輩が、ただ弟が事務所に入ったからという理由で連絡先を交換した。
 ファンレターを一通も送ったこともない小娘に、先を越された。

「だから、呪ってやろうと思ったのよね」

 朝田繭が放った一言に、舞は絶叫した。

「違う!」

「ほらー。呪いって【人を呪わば穴二つ】って言うじゃなーい? 私は別に、誰かを呪って気に病む事もないし、死ぬって事もないしねえー」

「違う! 違う!」

「あら~。全然、違わないわよ。むしろ、あの事務所の周辺でたむろしてる奴は、みんなマウント取りたいやつばかりでしょう? 〝今日は誰々を見かけた〟〝今日は誰がどんな服してた〟〝今日は誰がどんな車で出勤した〟あとあれね〝誰がどこに住んでるか〟とか」

 女優は自身のスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで呟く事が専門のSNSを開く。

「SNSにばらまいて、いいねの数で悦に浸って…………ファンって忙しいわねっ!」

 彼女が泉と少年たちに見せたのは、鍵のマークがついたアカウントだった。鍵がついたアカウントは非公開状態のやつで、フォロワー以外は見れない仕様である。繭がそのアカウントを見れているのは、フォロワーになっているからだろう。
 そのアカウントのマイページを見た泉は、樹や大と共に絶句した。
 タレントの個人に関わる情報が、嬉々として呟かれていたのだ。中には写真つきの物もある。
 アカウントの主だけではない、他のアカウントも。鍵がかかっていないアカウントも、個人情報を流している。

「朝田事務所の怖いところはね、事務もタレントも、ファンの振りしてやっべえファンに近づいて、証拠押さえてあぶり出してるところよ。エゴサ上等な事務所なの。……だから、あんたたちの事も見つけられたのよ」

 繭は、少年三人の顔を確認するように、一人一人しっかり丁寧に視界へ入れる。
 突然話しを振られた三人は、目を大きく見開いた。

「まあ、やってないタレントも居るけどね。そこにいる堅物とか頑固とかむっつりとか。私は朝田をやめた後もがっつりやって、SNSのどろどろ見て楽しんだあと、地獄へ落としてる感じー? ……さっきから黙ってるけど言いたいことないわけ?」

 繭の視線が、鬼頭の方へ向けられる。
 彼女の言った通り、鬼頭は黙って舞の狂気を見つめていた。
 誰よりも険しく、鋭く。けれど、どこか寂しさと切なさを含めた表情で、場の行方を観察しているようだった。

「ないなら私が言ってあげるわよ。引退した本当の理由とか」

「言わんでいい。ファン同士のいざこざは〝もう〟うんざりだ、帰る」

「舞(このひと)どうするの?」

 踵を返す鬼頭の背中に、直哉が投げる。
 答えの前に大きなため息が返された。
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