first stage ワタリガラスの止まり木
#ヴァンド
彼女の迫力に、場の空気が凍りつく。
勤務時でも見せない様子に、泉と夕陽はたじろぎ、困惑した。
「した」とはどういう意味だ。
少なくとも、泉は舞に対して、仕事中に困った事があって相談をした事等はあるが、呪われたり恨まれたりするような行為はしていない。夕陽もその事を知っているので「何かの間違いではないか?」と、舞と泉の間で視線を右往左往させる。
が、舞の方は間違いでも誤解でもないのだろう。
ぎりぎりと、きつく唇を噛み締めて、泉を睨んでいる。
怒っているという様子を通り越して、憎んでいる様子だ。
「泉さんが何をしたの?」
どんよりと重たく、冷たくなった空気の中で、直哉のいつもと変わらぬ飄々とした声音が響いた。
突飛な質問でもない。なんなら、この場に居る誰もが抱いている疑問をぶつける。
問われても、舞は答えず深い呼吸を繰り返すばかり。
一つだけ怒気を放ってから、いっこうに口を開こうとしない舞に、鬼頭が一歩距離を詰めて威嚇した。
舞の頭一個半上から、鋭い眼光を下ろす。
「文句があるなら、答えてみろ」
舞は鬼頭から視線を逸らす。
ひとつ、ふたつと大きく息を吸って吐いてから、震える声で答えた。
「なにも、してない」
「何?」
答えられた言葉の意味がわからず、鬼頭の片眉がつり上がる。
同じ反応を樹と大も見せ、直哉に至っては「はあ?」と声が出ていた。
直哉が余計な一言を発する前に、樹が彼の口を手で塞ぎ、大は肩を掴んでおく。
泉は、弟たちの様子を視界の隅に入れつつ、舞を見つめる。
彼女は、泉が何かしたから怒っているのだと認識していたのだが「していない」という言葉が出て来て戸惑っている。心臓も、先ほどから激しく動いていて苦しい。人が怒っている姿を受け止めるのは、体力も精神力もいるのだと実感した。
怪訝な雰囲気を察して、舞の方もいよいよ我慢ならなくなったのだろう。
泉に、一歩また一歩と詰め寄りながら金切り声を上げた。
勢いで、舞の頭を覆っていたスカーフが解けて、するりと床に落ちる。彼女の耳にぷらぷらと下がっている物が目に入り、泉は瞠目した。
泉のスマートフォンで使っているイヤホンジャックと同じ烏だ。最後のサイン会の時に出された物で、もう廃盤になっている。使っているうちに金具が壊れて外れてしまった烏を自分で手直しして、好きなアイテムにしているファンをSNSで見かけた事があった。
まさか、という思いが、胸に広がる。
グッズは、あのサイン会と通販でしか買えなかった。どちらも、あっという間に売り切れた代物。再販もしたが、それもあっという間に完売した。
「あんたは何もしてない! 何もしてないことをしたの!」
泉の動きが止まっている間に舞の腕が伸びて、肩を掴む。
服越しでも爪が肉に食い込む強い力だ。
周囲から息を呑む気配がすると同時に、直哉の怒号が空気を震わせた。
◇ ◇ ◇
烏のイヤホンジャックを持つ女は、自分からは一言も、彼の話どころか事務所の話もしなかった。
話はしなかったが、自分のスマートフォンを使う時が来れば必ずと言って良いほど烏を慈愛の目をして眺め、長い休憩時間に入るとスマートフォンの画面を見ながら薄く微笑む。
その時の画面には、現役時代の鬼頭昴の姿が映っているのだろう。好きなひとの姿を見て疲れを癒すのは誰もがやる事だ。
まさか、同じ会社に同じ人を推す人間が現れるとは思わず、私は狼狽えたと同時に不安を抱いた。
この女が、私よりも先にあの人と接触したら、今までの行いが無駄になる。
私は女に気づかれないように、それとなく彼女と距離を詰め、同僚として、友人として振る舞うことにした。この方が、彼女の行動を近くで見れるし、飲み会だの買い物だのと予定を詰めれば、女の行動を制限できると思ったからだ。
私の焦りを一度も察することなく、女は業務に励み、私のくだらない会話の相手をし、帰りも飲みに誘われでもしない限り真っ直ぐ帰る日を繰り返す。
そんな日々の中。今度はアイドル好きを公言する後輩が現れた。私の情報に引っ掛からなかったその後輩は、出待ちをする熱狂的な人間ではなく、一般の視聴者と変わらぬ熱意でアイドルの応援に勤しむ者だった。
後輩の「アイドルはみんな好き」という言葉に薄っぺらさを感じつつ、あの女の口に出していない部分を引き出せるのではと期待して、この後輩の言動も見張ることにした。
そして、この年にあった歓迎会で、私はようやくあの女の本性を見ることができた。
『泉さん、ファンレター送らなかったんですか?』
席の片隅で、あの女と後輩の会話が耳に届く。
お局方の、つまらない夫事情や子ども事情に耳を傾けていた私は、視線だけ二人の方に向けた。
スマートフォンの画面を見せ合いつつ推し談義をしていたらしい。
その中で出てきた言葉。
女は烏を指先で撫でながら、はっきりと首を縦に動かす。
『どうしてですか?』
後輩の詰め寄り方に困惑しつつも、女はしっかりと答えた。
『送ろうと思えなかったの』
酒とは別の吐き気が、胃の内側から押し寄せてきた。
◇ ◇ ◇
彼女の迫力に、場の空気が凍りつく。
勤務時でも見せない様子に、泉と夕陽はたじろぎ、困惑した。
「した」とはどういう意味だ。
少なくとも、泉は舞に対して、仕事中に困った事があって相談をした事等はあるが、呪われたり恨まれたりするような行為はしていない。夕陽もその事を知っているので「何かの間違いではないか?」と、舞と泉の間で視線を右往左往させる。
が、舞の方は間違いでも誤解でもないのだろう。
ぎりぎりと、きつく唇を噛み締めて、泉を睨んでいる。
怒っているという様子を通り越して、憎んでいる様子だ。
「泉さんが何をしたの?」
どんよりと重たく、冷たくなった空気の中で、直哉のいつもと変わらぬ飄々とした声音が響いた。
突飛な質問でもない。なんなら、この場に居る誰もが抱いている疑問をぶつける。
問われても、舞は答えず深い呼吸を繰り返すばかり。
一つだけ怒気を放ってから、いっこうに口を開こうとしない舞に、鬼頭が一歩距離を詰めて威嚇した。
舞の頭一個半上から、鋭い眼光を下ろす。
「文句があるなら、答えてみろ」
舞は鬼頭から視線を逸らす。
ひとつ、ふたつと大きく息を吸って吐いてから、震える声で答えた。
「なにも、してない」
「何?」
答えられた言葉の意味がわからず、鬼頭の片眉がつり上がる。
同じ反応を樹と大も見せ、直哉に至っては「はあ?」と声が出ていた。
直哉が余計な一言を発する前に、樹が彼の口を手で塞ぎ、大は肩を掴んでおく。
泉は、弟たちの様子を視界の隅に入れつつ、舞を見つめる。
彼女は、泉が何かしたから怒っているのだと認識していたのだが「していない」という言葉が出て来て戸惑っている。心臓も、先ほどから激しく動いていて苦しい。人が怒っている姿を受け止めるのは、体力も精神力もいるのだと実感した。
怪訝な雰囲気を察して、舞の方もいよいよ我慢ならなくなったのだろう。
泉に、一歩また一歩と詰め寄りながら金切り声を上げた。
勢いで、舞の頭を覆っていたスカーフが解けて、するりと床に落ちる。彼女の耳にぷらぷらと下がっている物が目に入り、泉は瞠目した。
泉のスマートフォンで使っているイヤホンジャックと同じ烏だ。最後のサイン会の時に出された物で、もう廃盤になっている。使っているうちに金具が壊れて外れてしまった烏を自分で手直しして、好きなアイテムにしているファンをSNSで見かけた事があった。
まさか、という思いが、胸に広がる。
グッズは、あのサイン会と通販でしか買えなかった。どちらも、あっという間に売り切れた代物。再販もしたが、それもあっという間に完売した。
「あんたは何もしてない! 何もしてないことをしたの!」
泉の動きが止まっている間に舞の腕が伸びて、肩を掴む。
服越しでも爪が肉に食い込む強い力だ。
周囲から息を呑む気配がすると同時に、直哉の怒号が空気を震わせた。
◇ ◇ ◇
烏のイヤホンジャックを持つ女は、自分からは一言も、彼の話どころか事務所の話もしなかった。
話はしなかったが、自分のスマートフォンを使う時が来れば必ずと言って良いほど烏を慈愛の目をして眺め、長い休憩時間に入るとスマートフォンの画面を見ながら薄く微笑む。
その時の画面には、現役時代の鬼頭昴の姿が映っているのだろう。好きなひとの姿を見て疲れを癒すのは誰もがやる事だ。
まさか、同じ会社に同じ人を推す人間が現れるとは思わず、私は狼狽えたと同時に不安を抱いた。
この女が、私よりも先にあの人と接触したら、今までの行いが無駄になる。
私は女に気づかれないように、それとなく彼女と距離を詰め、同僚として、友人として振る舞うことにした。この方が、彼女の行動を近くで見れるし、飲み会だの買い物だのと予定を詰めれば、女の行動を制限できると思ったからだ。
私の焦りを一度も察することなく、女は業務に励み、私のくだらない会話の相手をし、帰りも飲みに誘われでもしない限り真っ直ぐ帰る日を繰り返す。
そんな日々の中。今度はアイドル好きを公言する後輩が現れた。私の情報に引っ掛からなかったその後輩は、出待ちをする熱狂的な人間ではなく、一般の視聴者と変わらぬ熱意でアイドルの応援に勤しむ者だった。
後輩の「アイドルはみんな好き」という言葉に薄っぺらさを感じつつ、あの女の口に出していない部分を引き出せるのではと期待して、この後輩の言動も見張ることにした。
そして、この年にあった歓迎会で、私はようやくあの女の本性を見ることができた。
『泉さん、ファンレター送らなかったんですか?』
席の片隅で、あの女と後輩の会話が耳に届く。
お局方の、つまらない夫事情や子ども事情に耳を傾けていた私は、視線だけ二人の方に向けた。
スマートフォンの画面を見せ合いつつ推し談義をしていたらしい。
その中で出てきた言葉。
女は烏を指先で撫でながら、はっきりと首を縦に動かす。
『どうしてですか?』
後輩の詰め寄り方に困惑しつつも、女はしっかりと答えた。
『送ろうと思えなかったの』
酒とは別の吐き気が、胃の内側から押し寄せてきた。
◇ ◇ ◇