学園の沙汰は委員(おに)次第
誰だろうかと、剛は隣を見る。
視界に入ったのは、墨染色の狩衣。長身の体躯に、無造作に切られた短めの黒い髪。赤い瞳は今しがた書き終えた報告書に向けられていた。
ひやりとした空気を纏うその男を前にして、剛は一歩下がるのがやっとで、言葉が出てこない。
「俺がいない間に……なかなか楽しい事が起こっていたみたいだな」
冷ややかな声音を久しぶりに耳にして、剛は震え上がる。
この方と顔を会わせるのは、執行委員会に入った時以来だ。
他の委員も彼の登場に気づいたのか、騒ぎ声はいつの間にか消えていた。
重たい緊張感のあるこの空気は心臓に悪い。いっそ騒ぎ続けてくれれば良かったのにと思うが、もう遅かった。一度認識されてしまったものは、元には戻せない。
重たい空気の中で最初に言葉を放ったのは委員長の伊織だった。
「王太子様……!?」
くりりとした大きな目が、さらに大きくなっている。
この男こそ、伊織を拾い、冥府とこの世の境で住まわせ、この学校に執行委員会を設立させた張本人。
閻魔王太子。鬼を狩る鬼とも呼ばれている、閻魔大王の孫。冥府の事実上の管理者。
赤い瞳が、彼女に向けられる。
引き結んでいた唇が少しだけ綻びた。
「久しいな、伊織。どうだ、この学校は。獄卒の修行にもってこいの場所だろう」
「はい! おかげさまで順風満帆に過ごしております……!」
「なら良い。現世の学校に通うという意見を蹴っ飛ばして正解だった」
現世の学校に通う話も出ていたのか。まあ、伊織は生者だからおかしい話ではないが、この学校は鬼だらけで危険な事もまま多い。その学校に他の意見を蹴っ飛ばして通わせるとは、なかなか強気な決断である。
驚きで見開いた目を、伊織とおそらく知っていたであろう高貴に向ける。
その高貴が今まさに、窓から逃げようとしていた。
「どこへ行く、高貴。今日はお前に話があって来たんだぞ」
王太子が右手を振るい、糸を手繰り寄せる動作をする。
見えない糸で首根っこを掴まれた高貴の身体が床へと落ちた。
「ぐえ……! お、俺はない……!」
「いいから聞け。悪い話じゃない」
「あんたが持ちかける話に良い話はないんだよ! 思い返せば、餓鬼の頃伊織の面倒見るように言ってきたのも、悪い虫を潰してたのも、執行委員やれってのもあんたの指示だろ! これ以上はごめんだ!」
「そうだな。良い話かどうかは己自身で判断することだ。そしてお前は良い話だと判断して指示に従ったんだろう。むしろ、指示以上の事をしていて頼もしい限りだ。で、話なんだが、これまでの報告書を読む限り、お前暇と体力を持て余しているようだから俺の仕事手伝わせてやる。喜べ」
「それはいい話だ! 高貴、行ってこい! 執行委員のことは気にするな!」
「俺もやりたいっす!」
伊織がはっぱをかけ、レンが興味本意で首を突っ込む。
王太子が持ちかけた話に、高貴の表情が歪んでいった。
間。
「やっぱり祿な話じゃねえ! これ以上こき使われてたまるか!」
王太子を支えるのは若い鬼だという事は、重々承知している。ゆくゆくは部下にされるだろうから、今はまだ自由でいたい。
そういう思いが、ひしひしと伝わってくる口ぶりだった。
「素直じゃないなあ」
剛が発した言葉を背に、王太子の手中から逃げおおせた高貴は、開け放った窓から飛び出していく。
逃げていく赤い鬼を、墨色の鬼は残念そうに肩をすくめただけで深追いはしなかった。
せっかくの王太子様のお仕事を断るなんて、いいのだろうか。正直、嫌な予感がしてならない剛である。
王太子に命を救われた伊織を見ると、見るからに頬を膨らませていた。
「あいつーー!」
「まあいいさ。あとで手足の骨折ってでもさせる。なかなか使える男だからな、逃がさん」
「(この人が一番外道だ)」
心に浮かんだ言葉を、剛は表に出ないように努めた。