私のペットになりなさい
1.プロローグ
二年生に進級した小野寺 さんが、新しくなったクラスで最初に耳にした噂は『女優の娘がクラスメイトにいる』ということでした。比較的裕福な家庭で育った子供が集まるこのお嬢様学校ですが、女優の娘という肩書きはやはり珍しいものです。大勢の生徒がそうだったように、小野寺さんもまたその噂に興味を惹かれました。そして、時間が経つにつれて、その噂の人物が分かったのです。
尼崎 ゆかりさん。小野寺さんの数席前に座っている女の子がそうでした。整った顔立ちの細面ですらりとしたスタイル、そしてなによりも上質な絹のように流れる長い黒髪が特徴の人物です。小野寺さんは尼崎さんを一目見たときからきれいな人だなという印象を抱いていたのですが、その恵まれた容姿が女優の娘さんだからと知れば、小野寺さんも深く納得できました。
そんな美人の尼崎さんでしたが、しかし彼女に向けられる周囲の反応は冷ややかなものばかりでした。嫉みや妬みに留まらず、なにか汚らわしいものを見るような皆の態度は、尼崎さんをクラスで孤立に追いやっていました。尼崎さんをまるで腫れ物のように扱うその雰囲気に、小野寺さんは疑問に思わずにはいられませんでした。
どうして皆は尼崎さんを仲間外れにするのだろう。
そんな疑問です。小野寺さんが尼崎さんについて知っていることは噂程度の話でしかありませんが、それゆえに尼崎さんが皆に嫌われるようなことをしたという話は聞いたことがありません。ただ『女優の娘』だから嫌われるというのは、小野寺さんにはとても理解しがたい事柄でした。
しかし、小野寺さんがその答えを得るにはあまりにも人脈が足りませんでした。人見知りの小野寺さんは新しいクラスに未だ馴染めておらず、一年生のときに仲のよかった子もクラス分けで別れてしまったので、奥寺さんの現状は一人ぼっちなのです。そのためしばらくのあいだ、小野寺さんは事の真相を掴めず悶々とした日々を過ごすことになりました。
転機が訪れたのは、それからすこし経ったとある日のことです。
その日の日直当番は尼崎さんともう一人のクラスメイトだったのですが、そのもう一人のクラスメイトが奥寺さんに「今日の日直代わってくれない?」と朝に話しかけてきたのです。突然後ろから肩を叩かれてそう言われたものですから、小野寺さんはびっくり驚いて「え、はいっ!」と口にしました。本来ならそれは要件を聞き返すつもりで口にした言葉だったのですが、相手は小野寺さんが二つ返事で快諾したのだと勘違いして「ありがと~」と言い残すと颯爽と消えてしまいました。その場に取り残された小野寺さんはそのいきなりの出来事にポカンとしていましたが、なにが起こったのかを飲み込めると、尼崎さんに近づける理由ができたことを逆に嬉しく思いました。
そうして一限目の授業のために教室の鍵締めを行うとき、小野寺さんは勇気を振り絞って尼崎さんに話しかけてみました。
「あ、あのっ。わたし、小野寺さよって言います……。今日は、よろしくお願いします」
すると、尼崎さんがこちらに向きました。小野寺さんを中心に捉えるその瞳にはどことなく警戒心が宿っています。
そうして一言。
「どういうつもり?」
尼崎さんは続けて訊きました。
「私と仲良くしろって、脅されてるの?」
そう言われた奥寺さんは目を丸くして一度固まった後、首を大きく横に振りました。
「お、脅されてなんかいませんっ!」
「本当に?」
その真偽を調べるためか、尼崎さんが用心深く見つめてきます。小野寺さんはそんな尼崎さんの視線に思わずドギマギして顔を赤らめてしまいました。その様子を見た尼崎さんは、小野寺さんが嘘をついていないことを悟ったのか、興味を失ったように小野寺さんから視線をふいと外しました。
「ならいいわ」
そしてそれだけ言うと、ガチャリと教室の鍵を締めて一人歩き出しました。尼崎さんが素早くそうしたので、小野寺さんは急いでその後を追います。
「あ、あの」
「なに? 私と関わってもあなたに良いことなんてないと思うけど。それとも、あなたも私をからかいたいの?」
「違います、そんなわけじゃ……。わたし、どうしてみんなが尼崎さんのことを酷く言うのがよく分からないんです。尼崎さんはなにもしていないのに……」
「なにもしてなくても、私は嫌われる汚れた存在なの。あなたも知ってるでしょ」
吐き捨てるように、尼崎さんが言います。小野寺さんは答えました。
「尼崎さんが女優の娘だからですか……?」
「そうよ。私の人生における最大の汚点。全くもって最悪よ」
「……そうでしょうか」
「当たり前じゃない。誰がAV女優の娘であることを誇りに思うの」
「…………?」
小野寺さんはハテナを頭に浮かべました。尼崎さんが口にした言葉に、聞いたことのない単語が含まれていたからです。記憶を探っても思い当たる節すらありません。小野寺さんは聞き返しました。
「えーぶい、ってなんですか」
尼崎さんは呆れたように言いました。
「AVはAVに決まってるでしょ。アニマルじゃないほうの」
「えっと、その……じゃあ、アニマルじゃないほうのAVって、なんですか?」
「……はあ?」
すると、小さな静寂がその場に訪れました。尼崎さんは何度か瞼をぱちくりとさせていましたが、そのうち小野寺さんの言動が理解できると、唖然としました。
「え。もしかしてあなた、AVを知らないの?」
「えーぶい……という女優がいるんですか?」
「…………」
尼崎さんは開いた口が塞がりませんでした。なぜなら、それは尼崎さんにとって驚くべきことだったからです。
「……嘘でしょ。AVって、アダルトビデオのことよ? この歳にもなって知らないの?」
「知りません……。アダルトってことは、大人のビデオってことですか?」
「当然。じゃあその内容は?」
「……分かりません」
小野寺さんは相変わらずかぶりを振ります。そんな無知ぶりを見た尼崎さんはその程度を確認するように質問しました。
「一応聞くけど……あなたって自慰行為をしたことはある?」
「じいこうい?」
「……ないのね」
小野寺さんがそれをしたことがないのは明らかでした。見つめただけで赤面するような恥ずかしがり屋さんがその話題に顔色一つ変えないのですから。
「嘘でしょ……」
尼崎さんが今度は溜め息混じりにそう呟きます。母親がその仕事をしているということもあり、幼い頃からそういう知識をたくさん蓄えてきた尼崎さんからすれば、小野寺さんのその知識のなさはあり得ざることでした。それに思春期真っ只中の年齢であれば、誰もがすることをしているはずなのです。しかしどうやら、目の前にいる人物は例外らしく、今も純真無垢に首を傾げています。こんな人間が存在しているなんて、尼崎さんはとても信じられませんでした。
「え、えっ、わたし変なんですか?」
尼崎さんがそれから物言わないので、小野寺さんは不安になってそう訊きました。尼崎さんが答えます。
「……すっごく変よ。少なくとも普通じゃない」
「えええ。そうなんですか」
「そうよ。だからあなた、私が嫌われてる理由が分からないんでしょう」
「…………」
尼崎さんに自分の無知を突かれて、小野寺さんはしゅんとしました。
「……ごめんなさい、そうだと思います……」
「別に、謝れって言ってるわけじゃないわよ。むしろあなたのそれは……貴重ね。そう、貴重。私からすれば羨ましいくらいだわ……」
そこまで言葉にして、尼崎さんは気がつきました。そうです、貴重なのです。これほどまでに無知な人間は。今の小野寺さんは言うなれば真っ白なキャンパスで、まだ何色にも染まっていません。それはつまるところ、どんな色にだってこれから染められるということです。例えば、尼崎さん好みにだって。
そのことを尼崎さんが思いついた瞬間、尼崎さんの胸の奥にある感情が猛烈に煮えたぎりました。まるでぐつぐつと沸騰するかのように湧き上がってくるそれを言葉で表すなら、きっとこの言葉がふさわしいでしょう。
欲望。
真っ白なキャンパスを自分色に染めたいという欲望。
尼崎さんは唾を飲み込みました。
「ねえ」
そして、どこか甘ったるい声で言います。
「どうして私が嫌われてるか知りたい?」
「え?」
小野寺さんが呆けた様子で聞き返してきたので、尼崎さんはもう一度言いました。
「どうして私が嫌われてるか、AVとか自慰行為がなんなのか、知りたい?」
「それは……はい」
小野寺さんは頷きました。
「本当に?」
「はい、知りたいです。その……尼崎さんが気を悪くしなければ」
小野寺さんは再び頷きました。小野寺さんからすれば、それを断る理由がありませんでした。なぜなら、追い求めていた答えがすぐそこにあるのですから。しかし、それが一体なんなのか、このときの小野寺さんはまだ知る由もありませんでした。
「分かったわ。じゃあそうね……昼休みに、別館三階のトイレに来なさい。そこで教えてあげる」
尼崎さんのその言葉に、小野寺さんは首を縦に振りました。無知ゆえに、何の疑いもなく。
するとそれを見て、本人以外の誰にも聞こえないほど小さく、舌舐めずりの音がしました。
二年生に進級した
そんな美人の尼崎さんでしたが、しかし彼女に向けられる周囲の反応は冷ややかなものばかりでした。嫉みや妬みに留まらず、なにか汚らわしいものを見るような皆の態度は、尼崎さんをクラスで孤立に追いやっていました。尼崎さんをまるで腫れ物のように扱うその雰囲気に、小野寺さんは疑問に思わずにはいられませんでした。
どうして皆は尼崎さんを仲間外れにするのだろう。
そんな疑問です。小野寺さんが尼崎さんについて知っていることは噂程度の話でしかありませんが、それゆえに尼崎さんが皆に嫌われるようなことをしたという話は聞いたことがありません。ただ『女優の娘』だから嫌われるというのは、小野寺さんにはとても理解しがたい事柄でした。
しかし、小野寺さんがその答えを得るにはあまりにも人脈が足りませんでした。人見知りの小野寺さんは新しいクラスに未だ馴染めておらず、一年生のときに仲のよかった子もクラス分けで別れてしまったので、奥寺さんの現状は一人ぼっちなのです。そのためしばらくのあいだ、小野寺さんは事の真相を掴めず悶々とした日々を過ごすことになりました。
転機が訪れたのは、それからすこし経ったとある日のことです。
その日の日直当番は尼崎さんともう一人のクラスメイトだったのですが、そのもう一人のクラスメイトが奥寺さんに「今日の日直代わってくれない?」と朝に話しかけてきたのです。突然後ろから肩を叩かれてそう言われたものですから、小野寺さんはびっくり驚いて「え、はいっ!」と口にしました。本来ならそれは要件を聞き返すつもりで口にした言葉だったのですが、相手は小野寺さんが二つ返事で快諾したのだと勘違いして「ありがと~」と言い残すと颯爽と消えてしまいました。その場に取り残された小野寺さんはそのいきなりの出来事にポカンとしていましたが、なにが起こったのかを飲み込めると、尼崎さんに近づける理由ができたことを逆に嬉しく思いました。
そうして一限目の授業のために教室の鍵締めを行うとき、小野寺さんは勇気を振り絞って尼崎さんに話しかけてみました。
「あ、あのっ。わたし、小野寺さよって言います……。今日は、よろしくお願いします」
すると、尼崎さんがこちらに向きました。小野寺さんを中心に捉えるその瞳にはどことなく警戒心が宿っています。
そうして一言。
「どういうつもり?」
尼崎さんは続けて訊きました。
「私と仲良くしろって、脅されてるの?」
そう言われた奥寺さんは目を丸くして一度固まった後、首を大きく横に振りました。
「お、脅されてなんかいませんっ!」
「本当に?」
その真偽を調べるためか、尼崎さんが用心深く見つめてきます。小野寺さんはそんな尼崎さんの視線に思わずドギマギして顔を赤らめてしまいました。その様子を見た尼崎さんは、小野寺さんが嘘をついていないことを悟ったのか、興味を失ったように小野寺さんから視線をふいと外しました。
「ならいいわ」
そしてそれだけ言うと、ガチャリと教室の鍵を締めて一人歩き出しました。尼崎さんが素早くそうしたので、小野寺さんは急いでその後を追います。
「あ、あの」
「なに? 私と関わってもあなたに良いことなんてないと思うけど。それとも、あなたも私をからかいたいの?」
「違います、そんなわけじゃ……。わたし、どうしてみんなが尼崎さんのことを酷く言うのがよく分からないんです。尼崎さんはなにもしていないのに……」
「なにもしてなくても、私は嫌われる汚れた存在なの。あなたも知ってるでしょ」
吐き捨てるように、尼崎さんが言います。小野寺さんは答えました。
「尼崎さんが女優の娘だからですか……?」
「そうよ。私の人生における最大の汚点。全くもって最悪よ」
「……そうでしょうか」
「当たり前じゃない。誰がAV女優の娘であることを誇りに思うの」
「…………?」
小野寺さんはハテナを頭に浮かべました。尼崎さんが口にした言葉に、聞いたことのない単語が含まれていたからです。記憶を探っても思い当たる節すらありません。小野寺さんは聞き返しました。
「えーぶい、ってなんですか」
尼崎さんは呆れたように言いました。
「AVはAVに決まってるでしょ。アニマルじゃないほうの」
「えっと、その……じゃあ、アニマルじゃないほうのAVって、なんですか?」
「……はあ?」
すると、小さな静寂がその場に訪れました。尼崎さんは何度か瞼をぱちくりとさせていましたが、そのうち小野寺さんの言動が理解できると、唖然としました。
「え。もしかしてあなた、AVを知らないの?」
「えーぶい……という女優がいるんですか?」
「…………」
尼崎さんは開いた口が塞がりませんでした。なぜなら、それは尼崎さんにとって驚くべきことだったからです。
「……嘘でしょ。AVって、アダルトビデオのことよ? この歳にもなって知らないの?」
「知りません……。アダルトってことは、大人のビデオってことですか?」
「当然。じゃあその内容は?」
「……分かりません」
小野寺さんは相変わらずかぶりを振ります。そんな無知ぶりを見た尼崎さんはその程度を確認するように質問しました。
「一応聞くけど……あなたって自慰行為をしたことはある?」
「じいこうい?」
「……ないのね」
小野寺さんがそれをしたことがないのは明らかでした。見つめただけで赤面するような恥ずかしがり屋さんがその話題に顔色一つ変えないのですから。
「嘘でしょ……」
尼崎さんが今度は溜め息混じりにそう呟きます。母親がその仕事をしているということもあり、幼い頃からそういう知識をたくさん蓄えてきた尼崎さんからすれば、小野寺さんのその知識のなさはあり得ざることでした。それに思春期真っ只中の年齢であれば、誰もがすることをしているはずなのです。しかしどうやら、目の前にいる人物は例外らしく、今も純真無垢に首を傾げています。こんな人間が存在しているなんて、尼崎さんはとても信じられませんでした。
「え、えっ、わたし変なんですか?」
尼崎さんがそれから物言わないので、小野寺さんは不安になってそう訊きました。尼崎さんが答えます。
「……すっごく変よ。少なくとも普通じゃない」
「えええ。そうなんですか」
「そうよ。だからあなた、私が嫌われてる理由が分からないんでしょう」
「…………」
尼崎さんに自分の無知を突かれて、小野寺さんはしゅんとしました。
「……ごめんなさい、そうだと思います……」
「別に、謝れって言ってるわけじゃないわよ。むしろあなたのそれは……貴重ね。そう、貴重。私からすれば羨ましいくらいだわ……」
そこまで言葉にして、尼崎さんは気がつきました。そうです、貴重なのです。これほどまでに無知な人間は。今の小野寺さんは言うなれば真っ白なキャンパスで、まだ何色にも染まっていません。それはつまるところ、どんな色にだってこれから染められるということです。例えば、尼崎さん好みにだって。
そのことを尼崎さんが思いついた瞬間、尼崎さんの胸の奥にある感情が猛烈に煮えたぎりました。まるでぐつぐつと沸騰するかのように湧き上がってくるそれを言葉で表すなら、きっとこの言葉がふさわしいでしょう。
欲望。
真っ白なキャンパスを自分色に染めたいという欲望。
尼崎さんは唾を飲み込みました。
「ねえ」
そして、どこか甘ったるい声で言います。
「どうして私が嫌われてるか知りたい?」
「え?」
小野寺さんが呆けた様子で聞き返してきたので、尼崎さんはもう一度言いました。
「どうして私が嫌われてるか、AVとか自慰行為がなんなのか、知りたい?」
「それは……はい」
小野寺さんは頷きました。
「本当に?」
「はい、知りたいです。その……尼崎さんが気を悪くしなければ」
小野寺さんは再び頷きました。小野寺さんからすれば、それを断る理由がありませんでした。なぜなら、追い求めていた答えがすぐそこにあるのですから。しかし、それが一体なんなのか、このときの小野寺さんはまだ知る由もありませんでした。
「分かったわ。じゃあそうね……昼休みに、別館三階のトイレに来なさい。そこで教えてあげる」
尼崎さんのその言葉に、小野寺さんは首を縦に振りました。無知ゆえに、何の疑いもなく。
するとそれを見て、本人以外の誰にも聞こえないほど小さく、舌舐めずりの音がしました。
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