私も彼もどうかしている
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「跡部君、私欲しいものがあるんだけど」
「アーン?」
ソファに腰を下ろして、私は姿勢を正した。向かいでくつろぐ跡部は両手をソファの背もたれに預けたまま、顔だけをこちらに向けた。
「……ルイヴィトンの財布…」
ルイヴィトンの財布といえば、十万とか普通にするやつである。中学生の小遣いではまず間違いなく手が届かないし、それどころか大の大人だって手を出すのは戸惑うだろう。いくら金持ちの御曹司でも恋人が欲しがるからななんて理由で買うわけない、というのが私の素直な意見なのだけども。
「ああいいぜ、明日にでも見に行くか?」
「やっぱりいい」
返答に思わず眉をひそめる。この男がルイヴィトンの値段を知らないわけないだろうし、本気で買いに行こうとか思ってる?それとも私にはそんな勇気ないだろうと思っているんだろうか。
「…シャネルのバッグ」
「気になるならカタログでも見るか?」
「〜〜〜っ…いらないっ!」
勢いよくソファに倒れ込むとクククと笑う声が聞こえてくる。面白くない、こっちは全然面白くないぞ!
「もー…どうしたら振ってくれるのー…」
「そんなふうに言ってるうちはまず無理だろうな」
思わず呟いていたそれはどうやら相手の耳に届いてしまっていたらしい。余裕そうな声にますます腹が立った。
元はといえば、この男が付き合おうとか言ってきたのが悪いのである。そうとも何もかも奴が悪い。
春のあたたかな日差しの中、中庭でうとうととしていた私に奴は忍び寄り、寝ぼけた私に告白をかましたのである。誰に話しかけられているのかも分かっていないような頭で考えるなどということができるわけもなく、「いいけど、どこまで?」なんて返したのがいけなかった。奴は私の腰をぐいっと強く引き寄せて、「それは勿論、死がふたりを分かつまでだ」なんて言うものだから、そこで私もようやく目が覚めたのである。
跡部景吾ともあろう者が、こんな姑息な手段を使うとは思わなかった。ああ全く、嘆かわしい。
「私なんかのどこがいいんだか…こうなったら跡部君の金で贅沢してやる…お昼奢ってー」
「何が食べたい?フレンチか?いい店知ってるぞ」
「サイゼでいいですー、どうせ私にはフレンチのおいしさなんて分からないわよ」
「サイゼってお前……俺様の金でそんなチンケなもん食う気か」
「じゃあマック」
「変わってねえよ」
お前なあ、と今度は本当に呆れたような様子で跡部がため息をつく。しかし私という人間はどうあったって変えられないので、そこはそれ我慢するか別れるかのどちらかである。
早く飽きてしまえ、と私が言う。捨てないで、と私が言う。心の中の私は、私より幾分か素直だ。
「じゃあピザでも頼もう。ドミノピザ」
「微妙なとこチョイスしてくんじゃねえよ…」
反応に困るじゃねえか、と言う割に微妙に楽しそうに見えるから腹立たしい。
立ち上がって跡部の隣に腰を下ろす。なんでもないことだが、もうそれだけで心臓がうるさかった。
「……」
「…どうした?」
少し、心配そうな声。この優しさが、この優しさがいけない。この優しさが私を沼に引き摺り込む。
「……私とテニス、どっちの方が大事?」
顔をあげる。目を見開いた跡部と目が合って、それから、その表情が真剣なものへと変わっていくのを見つめた。
答えなぞ、とうに知っている。
「テニスだ」
「でしょうね」
そうじゃなきゃ、別れてた。
自分勝手な私に吐き気がする。口元を押さえて、そのまま俯いた。
私なんかを選んだら別れてた。そう、私なんかを選ぶなんて許せない。彼はテニスに生きる人だ。私なんかを選んではいけない。
強迫観念に似た何か。固定観念のようなもの、正すことができない大きな歪み。
それでも、私はこれを抱え続けなければならない。
「私なんかさっさと捨てればいいのに…」
「……なら、お前が俺を捨てればいいだろ」
そうやって、できもしないことを言う。
彼がテニスを追い続ける限り、私はその背中を見つめていたいと願っている。振り向かない彼が、頂点へと昇り続ける彼が、私の愛した跡部景吾だからだ。
私のことを一番に考える跡部なんてものは存在しない。そう思っているから、受け入れられない。そんな跡部は跡部ではない。
跡部もきっと、それを分かっているのだ。だから捨てもしないし、求めもしない。
そんな彼に甘えて、私は何をやってるのだろう。こんな関係、誰も幸せになれないのに。
「記憶喪失になりたい。もしくは記憶障害」
「馬鹿なこと言うな」
「馬鹿じゃないよ。だって記憶がなければ私跡部君に一目惚れしてたと思うし。記憶が戻らなければ、私も変なこと言わないだろうし」
「変なこと言わねえお前はもうお前じゃねえよ…」
「失礼な…」
不貞腐れたフリをして、ソファに横になる。わざと足を跡部の膝の上に乗せて、大きく反り返った。
記憶がない私は私じゃない?じゃあ彼は、こんな面倒くさい女が好きってこと?なんて愚かな、なんて酔狂な人だろう。
こんな私を好きになるなんてどうかしてる。そう思うのに、胸が熱くなって、息が出来なくて、苦しくて泣きたくなる。こんな私を、好きだなんて。
「……跡部君、わりと趣味悪いよね」
「なんだ、喧嘩売ってんのか?」
「ううん、そんな跡部君が好きなんだよなあって思って」
「アーン?」
「好きだよ、跡部君のこと」
別れたくないって思うくらいには、なんて軽い気持ちで付け足せないくらいには。
「ごめんね、好きになって」
「……すまねえな、離してやれねえ」
思わず飛び起きると、すぐ目の前に跡部の顔があった。
振り上げた腕は容易く掴まれて、引き抜く前に抱きしめられた。
強く強く、骨でも折る気でいるんじゃないかってくらい。痛くて、好きだなんてほんとは全部嘘なんじゃないかって、思わず疑いたくなる。
「……一番じゃなければいいんだろ。俺様に、テニス以上に大切なものなんて存在しねえ。だから安心して捕まってやがれ」
ふっと腕の力が抜ける。引き寄せられた体勢のまま見上げると、気取ったような、いやいつもの跡部がいた。
自信家で、迷いがなくて、周りの人間を惹きつける。確かに私が惹かれた跡部がそこにいた。
真っ先に感じたのは申し訳なさ。それでも後からやってくる歓喜に押し潰されて、私は思わず跡部に抱きついていた。
「…ありがと」
ごめんね、こんな私で。