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眠るには惜しい夜


薪の小さく爆ぜる音と、男数人に少女一人のいびき声。それ以外に何も無かったはずの闇の中に、土を踏む音が微かに鳴る。焚火を囲うようにごろり転がっていた人型の塊のうちひとつがもぞもぞと動きだした。他の何にも気づかれないように、うんと慎重に、焚火を離れていく。
火の明るさがなんとか届く範囲、乾いた白い幹の木に寄りかかって眠る男がいた。身じろぎひとつせず、呼吸で空気が揺れる、生物にあって当然の気配も無い。片膝を立てて座り、右腕に銃の負い革を引っ掛けて、なおかつその銃身を確かめるためか指先を触れさせていた。外套の釦はすべて閉められていてる。フードで頭部を覆っており、その正体を窺い知ることはできない。足音の主はその男のほうへ、獲物を狙い這う蛇のごとくゆっくり、ゆっくりと近づいていく。あと数歩のところで、男は背負った銃に手をかけ素早く足音のほうへ向けた。

「うわ」
「お前か」

わざとらしく驚いてみせた足音の主……男と揃いの外套を身に着けた女と、脅かすなとばかりに溜息を吐く男。脅かされたのは私だよ、と口をとがらせる女は、突然銃口を向けられたにしては落ち着いている。

「起きてたの。びっくりした」
「どうだか」

はっ、と吐き捨てるように笑った男も、突然顔見知りに銃口を向けたにしては落ち着いている。このやり取りが茶番であるとお互いに気付いているらしい。すぐ隣に腰を下ろした女をうっとおしそうに見やる男は、それでも退けとは言わなかった。

「なんか寒いなって一度思ったら目が冴えちゃって」
「なら何故わざわざ火の傍を離れてこっちに来る。夜這いのつもりか」
「お戯れを」

男は困り顔でも見れれば面白いと煽ったつもりだが、女はわざと上品ぶった受け流しの言葉を捨てると、嘲るように笑って自分の髪を撫ぜた。それは男の癖が移った動作だったが、女は気付いていなかった。

会話は途切れて、二人とも焚火のほうを見る。揺らめく炎は少し遠くにあるだけで現実味を無くした。あの温かさはここまで届かない。明るさすら僅かで、二人はほとんど焚火の恩恵を受けていなかった。あの火の周りには日中行動を共にしていた人間がごろごろ転がって眠っている。知らない生き物のようだと女は零した。

「結構長い間一緒に過ごして、好きな物とか嫌いな物とかちょっとは知ったつもりだけどさ。なんでかな、こうしてると、この人達とさっきまで仲良くお話してたなんて思えない。時々怖くなるよ。みんな別の生き物なのかもしれないって」
「……別の生き物だろ」
「うん?うん、そうなんだけどね。そうなんだけど。尾形にはそういうふうに思わないんだよ」

男は一寸空けて、ふんと鼻を鳴らした。その心中を察することは女にとっても難しく、うーんと首を捻ると、再び会話は途切れた。

この北国の夏は短く、あっという間に冬の気配が訪れる。特に夜はぞっとするほど早く寒さが襲う。この未開の地に来て数年も経っていない女はこの寒さに弱いらしい。日中は外套を脱ぎたくなる時期でも、夜は着込まずにいられない。焚火の近くとはいえ腹を晒して眠る坊主の男が信じられなかった。
少し風が抜けただけで女はぶるりと身体を震わせ、フードの隙間を手繰り寄せるようにして埋めた。旅の道中、男が手にかけた軍人から剥ぎ取った揃いの外套。
知らない生き物と、焚火の揺れるのと、薪の鳴るのは、全部別の世界の出来事だった。すぐ隣り合って座る男女は、分厚い外套で体温の共有ができなくとも、浅い呼吸の音が聞こえなくても、確かに同じ場所にいた。

「満足したか?寝ろ」

寝ろと思うなら、静寂を破るなんてしなければいいのに。なんだか寒くて目が冴えてしまったのは自分だけではないのだろう、と女はほくそ笑んだ。

「まだ。もう少しお話ししようよ」
「面倒だ。ガキのほうが大人しく寝てるぞ」
「そう言わずに」

誰も見ていないのに、男の体裁を守るべく食い下がってやる女。男はきまり悪そうに身じろぐと「勝手にしろ」と呟いた。

「そうだな。尾形、今日世界が終わるとしたら、最後に何食べたい?」
「はあ?」

話題など何でもよかったが、思いついたままに口に出してみたら存外馴染む質問であったので、女は内心驚いていた。

「そんなこと考えて何になる。大体世界が終わるって時に食い物を選りすぐってる暇があるかよ」
「そういうの抜きにしてさ。今日世界が終わります、最後に好きな物なんでも食べれます、何がいいですか?って聞かれたらなんて言うかって話」
「聞かれるって誰にだ」
「理屈っぽいな。いいから」

男は不満げに息を吐いたが、少し考えるとさして興味なさそうに答えた。

「あんこう鍋」
「ああ、例の、故郷の」
「最後に食うっていうなら好きなもんだろう。好きな食い物なんてそう思い当たらん。強いて言うなら、それだ」
「ふうん……なんか、つまんないね」
「は?お前が聞いたんだろ」
「そうだけど、もっと意外な答えが返ってくると思ったから……なんか予想通りでつまんない」

勝手に期待され勝手に落胆された男は、舌打ちをして視線を逸らした。もとより隣り合っていることもあり目を見て会話などしていない。ややこしい猫の機嫌を思ったより損ねたと気付いた女は「ごめんごめん」と謝って会話を続けた。

「でもいいな、あんこう鍋、食べたことないんだよね」
「……お前はどうなんだよ」
「最後に何を食べるか?……じゃあ、あんこう鍋」
「は?食ったことないんだろ」
「うーん、だからかな」

急に興味を持ち始めた男は女を見た。女のほうも男を覗き込んでいたので視線が合う。女の頭はまどろみから覚めた時から冬の夜のように冴えわたっていた。宵闇に馴染む底の読めない優秀な人殺しのことが、母性と愛と夢にしかあり得ない運命に飢える幼子のように感じられてならなかった。今宵はどうにも、彼を怖ろしいとは思えなかった。この世界で唯一同じ生き物と思えて、朝から夜まで暗く湿って泥々しているかわいそうな子。慈愛に目を細める女に、男はいつになく気味が悪いと不審がった。

「尾形が唯一思い当たる好きな食べ物の味、知ってから死にたいな、って」

今日世界が終わるならば。最期に二人であんこう鍋を囲んで、大事なこの生き物の好きな味を知りたい。叶うならおいしいねと微笑みたい。

男は突然焚火の近くに引きずり出されたような気持になった。珍しく幸せそうに、甘さを隠さない女の言葉の響きが、彼の心中を搔き乱した。自分が赦されるような気持のする彼女の微笑みを、男は長い旅の間一度も享受できていなかった。この女は頭がいかれていて、どういうわけか自分について回るのを気に入っていて、なにかしらの目的があって自分を受け入れる真似をするのだ、と、そう思い込むことしか対処法を知らない。

「ていうか、きっと、食べずに死んだら未練で成仏出来ないわ」

女が茶化すように言ったのではっとした男は、何か言わねば空気を食われたままだと頭を働かせ、間を繋ぐようにははあと笑った。

「お前が食い物惜しさに化けて出る女とは」
「えぇ、ひどいなあ!ていうか自分で言っておいてなんだけど、世界終わってるのに化けて出れるのかな」
「知るかよ。理屈っぽいな」
「ふふ、頭の回ること!」

じゃれ合うような意趣返しに眠っている誰の耳にも入らないよう小さく笑う女を見て、男は安堵した。二人で旅をするようになった初めの頃は、こんな風に振り回されることは無かった。慣れない山歩きに必死で、半日歩いただけでへばる女だった。銃の教えを請い始めた時はまた面倒なと思ったが、教えてみるとその拙さにいくらでも罵ることが出来るので悪い気分では無かった。とにかく男が主導権を握っていたのだ。
しかし、今は随分体力もついて、銃の扱いもそれなりに上達している。そのうち逃げ出すに違いないとふんでいた男は、いつまでも離れる様子の無い、それどころか心の内に踏み込んで自分を受け入れるような振る舞いをする女に少なからず動揺していた。最もそれを悟られるわけにはいかない。元来表情など乏しいと自覚してはいるが、女の前では一層気を遣っていた。それが無為であることを男は知らない。
女はすべて見透かしているわけでもないが、多少なり男が絆されていることに気付いていた。そもそも「受け入れる振る舞い」ではなく「受け入れている」のだから、もう少し素直になったらいいのにとは思うものの、雁字搦めな精神の持ち主だから時間がかかるのだろうと大して気にかけていない。

「まあ、世界が終わらなくてもさ、いつか食べたいな。あんこう鍋」
「冬になりゃ食えるだろ」
「でも、本格的に冬になる前に、網走に着くでしょう」

ぶつりと会話が途切れた。男は網走に着いたその先を話さなかった。金塊を手に入れたその先を話さなかった。女は、できれば北海道ではなく彼の故郷であんこう鍋を食べたいと思っていたが、口にすることはできなかった。
薪が尽きてきたのか、焚火は随分小さくなっていた。再び会話が始まることはなく、そのうちに女は眠たくなってきて、あくびを噛み殺した。

「おやすみ、尾形」

返事は無い。もう寝たふりを決め込んだらしい。女は旅の初まった頃を思い出していた。
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