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眠るには惜しい夜

「鹿の胎内で過ごす日が来るなんて思わなかった」

口にしておきながら「当然だ」と思った。普通に生きててそんな想像をする人はなかなかの変態だ。ただ、おそらくここから出たあと「もう一度入りたい」と思う私も変態かもしれない。そのくらい、居心地が良かった。
温かくて柔らかくて、持ち主を形作っていた骨がこりこり鳴るのも不快じゃない。生臭さ、血の匂いはこの旅で大分慣れた。何より死骸の腹の中は私達に合っている気がする。

「狭い」
「しょうがないでしょ。三頭しかいなかったんだから」

背中側のほうが長さがあったので、尾形を先に押し込んで私は腹側に身を滑らせた。皮を被せているものの、入口にした腹の切れ目から冷気が入り込んでいるような気がする。もっと詰めろと身体を押したけど、そうしてくれるつもりはないらしい。向かい合ってくっついて、私達はちょうど鹿の中に収まっていた。私の頭のすぐ上に彼の頭があるようで、彼が身動ぐたびに髪がそわそわ揺れる。

「暴れるなよ。鹿の背骨が当たって痛い」

成程、と動くのをやめると、勝ち誇ったように鼻で笑われた。腹が立つ。

外は相変わらず吹雪いていて、鹿の体越しにくぐもった音が聞こえる。風に押されて揺れるのもあって、生きているものの中にいるような…母の胎内というのはこういうところだったのではないか…という気持ちになる。

「羊水の中は血生臭かったかなあ」
「はあ?」

何言ってんだこいつ、と見下されているのがわかり、面倒になって「なんでもない」と誤魔化した。けれど、数秒の間を空けて

「覚えてねえな」

と返される。なかなかご機嫌らしい。この男も鹿の胎を気に入っているのかもしれない。

「覚えていたらどうだったかしら」
「母親の腹かっさばいて戻ろうとしたかもしれんな」
「ふふ」
「外より居心地がいいのは確かだろ」

彼の言う外はこの鹿の外という意味ではない。私達は似たもの同士だった。母親の胎は心地よかっただろうか。忘れてしまった。けれど、叶うなら産まれる前に戻りたい。産まれないでいたい。彼でもそう思うのだろうか。
私達は昔について話すことはなかったし、私は彼の過去をほとんど知らない。花沢中将の妾腹の子であったことと、茨城の育ちであることくらい。その妾…彼の母親がどうしているのかも知らない。それでも似たもの同士だと言えるのは、この旅路で得た直感に過ぎない。最も、ひとつひとつをお互いに明かしてここが同じだここが違うなどと照らし合わせるのは無粋で価値のないこと。そうは思うのに、私はこの人の口から過去の話を聞いてみたいという欲を消せないでいた。


「尾形」
「なんだ」
「久しぶりにふたりきりだよ」
「……」
「だからさ、普段しない話をしようよ」

旅を始めた頃には「くだらん」とか言って断ち切ったろう会話も、黙って聞いてくれるようになった。人嫌いの猫と仲良くなるのは難しくて時間がかかる。そのぶん感慨もひとしおだ。

「尾形の昔の話が聞きたい。私のもするからさ」

密着しているからか、僅かに身体が強ばるのが伝わってきた。慎重にいかなければ、胎の外に押し出されてしまうかもしれないなあ。

「明るく楽しい家族の思い出、なんかを期待しているなら無理だぜ」
「わかってるよ」
「ならやめとけ」
「そういう話は私にも出来ないから」

きっと品定めをするような、あの目をしているんだろう。しかし尾形の視点から見えるのはおそらく私のつむじくらいだ。心の内を見透かそうとつむじを睨んでいる尾形はちょっと面白い。鹿の体液で湿った外套を掴んで、彼が決断するのを待つ。ややあって、小さく息を吸うのが聞こえた。

「しかし、お前にも家族がいたろう。血縁者の意味だ。お前、それを殺したことはあるか?」
「……ない」
「俺は三人殺した」

私が息を呑むと、嬉しそうにはは、と笑った。渋っていたくせに堰を切ったようにつらつらと語り出す。

「一人目は頭のおかしくなった母親。二人目は、旗手をご立派に勤められた勇作殿。三人目は、軍神と崇められた父上。母親を殺した時はまだガキだった。どうやったと思う」

疑問符を投げながらも、相槌も打てないように続けて。苦しみもがく母親をただ見下ろしたこと。母の望みが成らなかったこと。腹違いの弟に慕われたこと。それが理解できない恐ろしい存在であったこと。父親が「呪われろ」と言い遺したこと。危うく祀り上げられるところだったこと。

「外に出たくなったか?」

いつもの薄気味悪い笑みを浮かべているのだろう。確かめたかったけれど狭くてそんなに頭を動かせない。尾形の頭がわざと邪魔をしている感じだ。
かわいそうな人だなと思った。私が外に出たいと…お前と一緒になど居たくないと言うのを期待しているのに、いいえちっともと言って欲しくてたまらないのだ。自分の話を遮られるのが怖くて、畳み掛けるように話したのだ。本当は全て赦してほしいのに、その気持ちを認められないのだ。かわいそうに。ここまでひねくれてしまっては決して救われない。

「ここは温いのに、どうして」

やはり似たもの同士だ。この人の拙い告白をここまで理解できるのだから、私も相当にひねくれている。私もかわいそうで救われないのだろうか。
耳が慣れたのか吹雪の轟音もそんなに障らない。大声で叫んだって外の誰にも聞こえない状況なのに、私達はお互いの耳にやっと届くような小さな声で言葉を交わし続けた。

「…俺のような人間が、この世にいていい筈がないと思うか?」
「仮にそうなら、もっと早くに死んでるんじゃないの」
「ほう、お前は神の采配なんかを信じる質だったのか?」
「違うよ。違うけど、誰がこの世にいていいか否かなんて、決められる存在がいるとしたら、それはやっぱり神の類でしょう」
「なら、そんな傲慢な主張をする人間は頭を撃ち抜かれても文句は言えないな」

ふたりとも、神様なんかは信じていない。それなのに神がいるならと想像して、何かに罪を告白している。罪などはないと嘲るくせに、赦してほしくて告白している。祝福されてもいいはずだと、自分の行いを告白している。どうやらそれが認められないから、神などいないと言って、頭の中で殺すのだ。

「私はね、こうしているのが……殺した鹿の胎内で、尾形とふたりきりでいるのが、結構好き」

ひゅ、と小さく息の音。呼吸に乱れが出るなんて珍しいじゃないか。この距離じゃなきゃ気づかなかったと思うけど、虚を突かれて動揺したらしい。これは計算ずくの言葉ではなくて、つい零れてしまったものだから、彼にはよく効いちゃうみたいだ。
神など、愛など、存在しないかもしれないけど、それは私にとっての事実だ。今世界でいちばん幼稚で愚かなふたりだと思う。それが、結構、好きだ。

黙りこくってしまった尾形が面白くて笑っていると、「やかましい」と一喝された。なおも笑っているとつむじをぎゅうと押される。意外と痛い。

「お前の番だぞ」
「いつもは早く寝ろと言うくせに」
「お前が話す条件だろう、早くしろ」

どれだけ吹雪が続いてもここはなんだか暖かい。鹿のか、私達のかわからないぼんやりした温さ。吹雪か猫の喉かわからない低い音。話疲れて眠って、朝になったら、もう冷たくなってしまって、吹雪は止んでて、出ていかなきゃならない。
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