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なまえ
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春だといっても海は冷たい。最もなまえはこの春しか知らなかったから、他の場所の……例えば陸の春の暖かさと比べようが無い。だから恋人が「ここは冷たいですね」と噛みしめているのがおかしかった。すっかり人間かぶれの、ばかな人魚。
「おかえり」
「ええ」
おかえりといったらただいまじゃないの、と思いつつも、久しぶりの再会に照れ臭そうな彼を可愛く思って黙る。微笑むなまえに尾びれを揺らして誘われたジェイドは、甘えたな彼女が変わっていないことに安心して手を取った。
「僕がいなくて寂しかったでしょう。可哀想に」
「ジェイドが置いて行ったんじゃない」
なまえは笑って鼻先を擦り付ける。鋭利な瞳がとろんと溶けた。人間かぶれでもなんでも、ジェイドはジェイドで、同族で幼馴染でなまえの恋人だ。
「可哀想な貴女も好きなんです」
どうか許して、と口づけられると弱かった。彼女の表面上の我儘や怒りを、ジェイドは上手く取り上げて甘く煮てしまう。それを口へ突っ込まれるのが癖になってやめられなくて、ああ可哀想な彼女はこの一年間禁断症状でどうにかなりそうだった。
「陸には慣れた?」
挨拶代わりの戯れを終えた二人は、連れ添って洞穴へ入っていく。ごつごつした岩壁に開いた隙間で、大昔に地震か何かでずれてできたようだった。入り口こそ狭いものの中はそれなりに快適。ただ小さい頃はここでダンスパーティーだってできたのが、今は二人で絡まり合うのにちょうどいい広さに変わっていた。ふたりはこの空間に合わせて大きくなったのかもしれない。
そう、ここは幼い頃から二人にとっての秘密基地……逢瀬の場所だった。とは言っても、幼馴染やなまえの家族にはとうにばれている。二人きりでいられるのは優秀なジェイドが魔法をかけているからで、それも彼の兄弟には破られてしまう。ともあれ、今日はあの片割れを事前に買収してきたから、二人は何の懸念も無く逢っていた。
「えぇ。面白いものがたくさんありますよ」
「みたいだね」
ゆったり尾びれを揺らす彼は、魔法で括って固めた大きな四角い塊を携えていた。素材は違うけれども、陸で言うキャリーケースのようなもの。海豚の革を模した魔法の梱包は、非常に頑丈で陸から珊瑚の海の辺境を難無く乗り越えてきた。
にぃと笑ってなまえとの間にそれを置き、魔法を解く。はらはらと梱包が融けて露わになった中身は、彼女にとって見たことのないものばかりだった。
「こんなにたくさんいらないのに。重かったでしょ」
「いいえ。僕が渡したかったんです。どうか受け取ってください」
一番上には小包が乗っていて、ジェイドはそれをひょいと避けるとその下の箱を先に差し出した。彼女は小包が気になって目で追ったが、まぁ彼なりに渡す順序を決めてきたのだろうと特に何も言わなかった。
「これは陸のお菓子です。フィナンシェといいます。ご家族とどうぞ」
「あぁ、わざわざご丁寧に」
「ふふ」
妙なよそゆきの言葉遣いに小さく笑い合う。ジェイドの陸のお菓子を差し出す手は止まらなくて、次々に「マカロン」「タルト」「ワッフル」「ドーナツ」となまえには聞き慣れない単語が並べ立てられた。
「こんなに?」
「甘いもの、お好きでしょう。ご両親も」
「うん。でも全部うちへ?」
「どれも海には無いものですから、物珍しくてすぐに召し上がられると思いますよ」
「そうかもしれないけど……」
「貴女に買ってきたんです」
そのひとつの箱を開ける。ジェイドが魔法をかけているから、海の中でも陸での品質が損なわれない。ふわりと漂う甘い香りに慣れない焼き菓子の感触。ひとつ「マカロン」を口に含むと、断面から小さな気泡が逃げていった。さく、と小気味良い音が頭蓋に響く。尖った人魚の牙ではほとんど力を籠めずとも崩れていく。いたずらに珊瑚の死体を齧るよりもずっと気持ちいい。そして染み渡る甘さが酔うほどだった。
「美味しい!」
「よかった。ここのマカロンは僕もアズールも気に入っているんです」
「フロイドは?」
「だめです。あれはマカロンの違いに興味がないから、どこのでもばくばく飲み込んで与え甲斐がありません」
「あはは、彼らしいね」
なまえにとってアズールは恋人の友人だが、同時に友人。フロイドは恋人の兄弟で、同時に友人。どちらとも平等に仲が良かった。
ジェイドはにこ、と満足そうに笑むと、お菓子の下に閉まっていたものを取り出す。オーガンジーの袋に入ったきらきらの石に、分厚い書籍。
「この石は授業の成果物です。綺麗だから、貴女に」
「ありがとう。ジェイドの髪みたいに綺麗な色。ねぇこの本は?」
「キノコの図鑑です。とても面白いので是非。解説しますよ」
「ああ、例の「キノコ」だね。嬉しい。よろしくお願いします」
素直に申し出を引き受けると、ジェイドは一際嬉しそうに表情を輝かせた。
好奇心旺盛な恋人が特別熱中している「キノコ」というものに興味があった。度々送られてくる写真や手紙には必ず「キノコ」が、そして「山」が出てきていたからその存在は知っている。恋人の好きなものを好きになりたいというのが乙女心。なまえは人魚の中でもうんと臆病な性質ではあったが、彼の話を聞いて知識を得るくらいなら、むしろ自分から頼もうと思っていた。
「ありがとうございます。フロイドもアズールもまともに聞いてくれないので、助かります」
「え?なんで?」
「それと、これは陸の名所を集めた写真集です。表紙のこの山は僕も行ったことがあるんですよ。こちらの三冊は小説で、僕が読んだものから貴女の気に入りそうなものを選びました」
「あ、うん……ありがとう」
小説のあらすじをつい聞き流す。付き合いの長い二人が聞くのを放棄しているというのがどうにも気がかりだった。その昔ジェイドが小魚をわざわざ解剖して食べることにはまっていた時の嬉々として臓器の説明をする姿を思い出して、なまえは密かに腹を括った。
ジェイドはそれに気づかずに、説明を終えた小説を脇へ置く。その下のノートを、わずかに緊張した面持ちで彼女へ渡した。
「それからこれは、アズールに書かせた魔法薬のレシピです」
「え?」
「こちらと合わせてお使いください」
ぱらぱらとページをめくるなまえに、最初に避けた小包を見せた。彼女がノートを閉じてきょとんと見やると、ジェイドが小包の魔法を解く。はらはらと海中に融けて消えた包装の中身に、なまえは思わず泡を吐いた。
「これ、服?」
「はい」
肩口にあたる部分を鋭い爪で破かないようにつまむ。ジョーゼット素材の白いワンピースがふわりと海中に広がった。リバーレースの透ける袖越しに、なまえは恋人の瞳を見る。
人魚が陸の文化にまったく触れないことはない。元来人魚は知的欲求が強く、遠い昔から人間にちょっかいをかけては陸へ夢を抱いてきた。
なまえだって、人間が着る服を見たことくらいある。沈んだ船の中だったり、流れて岩に絡まりついたのだったり、友人が人間から奪ってきたものだったり。陸の文化を知らせる博物館にも校外学習で行ったことがあるし、陸で生まれた映画を見たことも。遠い親戚に陸へ遊びに行くのが好きな人魚がいて、陸で服を着ている写真を見せてもらったことだってある。
けれどもなまえは人魚のほとんどが眉を寄せるくらいに臆病で、知識として陸の文化を受け入れることはあっても体験したいと思ったことは無かった。今の今まで服に触ったことも無い。
こんな薄い布ひとつあってもなくても同じようなのにどうして陸では必要なんだろ。そうぼんやり考えるばかりで、魔法薬のレシピとこれが意味する彼の願望には気づかなかった。
ジェイドはなまえの広げるワンピースの、袖口を優しくつまむ。レースは破けやすくていけない。でもその繊細さは、彼女の身体によく似合うだろうと思った。きっと透けるほどに白い腕に、この淡いベールがかかったらどんなに美しいでしょう、と。
「次のホリデーには、貴女と陸を歩きたいんです」
あ。とそこでようやくなまえは思い至る。先のレシピの一部、一年と少し前アズールが集めていたものだ。NRCに入学の決まった彼らが寂しい顔ひとつせず入学準備にいそしんでいるのを拗ねて横目に見ていたから、細かい作り方はよく覚えていない。
「そんなに陸が気に入ったの?」
ジェイドが困って微笑んだ。なまえは「違うの」と慌てて訂正する。首を振ったそのわずかな動きだけで、彼らの纏う海もわずかに揺れる。白いワンピースが静かに波打った。
「だってジェイドがそんなお願いするなんて初めてじゃない」
嫌味のつもりは無かった。本当に、心から珍しく思ったのだ。
ジェイドはなまえを甘やかしに甘やかすばかり、願望を叶えることはあってもぶつけることはほとんど無い。小魚の解剖だって魅力を語って聞かせはしたけれど、どうか一緒にと頼みはしなかった。
「…素敵だと思うものがたくさんありました。なまえに見せたいんです」
声の震えは、陸より海が伝わりやすい。ジェイドは自分の素直な願望に、やはり言わぬべきだったかと後悔した。「なまえと陸を歩きたい」というのは入学が決まった時からぼんやり考えていたことで、しかし彼女の臆病さを考えれば叶わない。だからデートの誘いというより我儘だ。口に出すことはないだろうと心の奥にしまっていた。
残念ながら、その願望は陸で時間を過ごすごとに強くなる。フロイド、アズールと陸の「素敵なもの」を共有するのはもちろん楽しかったが、そこにいつでも焦がれる恋人がいない事実から目を逸らせなくなっていく。弾む心にいないなまえが影を落とす。手紙やスマホでのやり取りだって、本当の意味での魅力は伝わらない。
そのもどかしさと空虚さに耐えかねて、彼は入念な準備の上にこの我儘を言う決断をしたのだった。
なまえとて、その逡巡を汲めないほどの浅い付き合いではない。きっとわざわざ対価を支払ってアズールにノートを作らせたこと、様々ある陸の服からこの一着を選んできただろうこと、ガラスより透き通る声の強がりな抑揚。
それがわかっていても、二つ返事で要求を呑む勇気は無かった。
「私、陸に上がったことが無いんだよ。水面から顔を出したことだって無いの」
「ええ。もちろん知っていますよ」
「とても歩けない」
彼女の臆病さを愚かだと嘲るつもりは無いが、首を傾げるのが常。なまえはジェイドより弱いかもしれないが、ジェイドが他の多くの生き物より強いのが確かな事実としてあるからだ。その自分が味方をするのだから、なまえだって他の多くの生き物を、そして事象を恐れる必要は無い。そしてなまえの味方には、フロイドもアズールも含まれる。
なまえはつまんだワンピースを破らないようにそうっとジェイドへ返すと、尾びれをくるんと翻して腰のあたりに持ってきた先端を手で撫でる。なまえの癖だ。
ジェイドの想定内の反応であったものの、彼は困った表情のままワンピースを魔法で包んで地面に置いた。
「練習に付き合います」
「私の運動神経の無さ、知ってるでしょ」
「前から思っていたのですが。貴女は運動神経が悪いのではなく、自信が足りないのでは?」
「話そらさないで。陸には行けない」
無理だと胸の前に両手を掲げて拒絶する。ジェイドはその震えた幼い手をまとめて包んだ。
「歩けなくても大丈夫。僕が抱えます」
「恥ずかしいよ」
「陸では普通ですよ」
「嘘吐き」
「おや。貴女が聡くて残念です」
なまえが呆れて肩を竦める。ジェイドはくすくす笑って手を離し、揺れる彼女の髪を指で梳いた。彼には、この我儘を諦める予定は無い。柄にもなくストレートに言ってしまったのだし、アズールにもフロイドにもこの願望はばれている。なんとしてでも成功へ運ぶつもりだ。
問題はなまえの臆病さだ。ジェイドは長い間……今の体長の十分の一にも満たない頃からなまえと共にあって、どうしてこんなにも新しいものを恐れているのかわからなかった。大人しい性格のなまえでもそれなりに(むしろジェイド達より)友人はいる。水面から顔を出すくらい、エレメンタリースクールの稚魚でも好奇心から誘い合って成すことだ。ジェイド達だって友人として冒険に誘ったことは数知れないが、そのたび彼女は怯えて尾びれの端を触る。知らないことは怖い、と。
「なら、歩くことさえうまくいけば、僕の願いを叶えてくれますか」
「……その言い方、ずるいね」
なまえだってできるなら愛しい恋人の我儘を聞いてやりたいと思っている。けれど、どうにも恐ろしい。落ち着かない。陸へ上がって楽しんでいる自分など描けない。卵を出た時からずっと尾びれはいつでも思い通りに動くし、ひんやりぺったりしていて触ると心が落ち着く。
「なら質問を変えましょう。どうしてそこまで怯えているんですか」
「陸に?」
「いいえ、すべてに」
まっすぐ見据える二色の瞳。なまえはこの視線が苦手だった。何もかもを知り尽くしたいという知識欲に応えられるだけの頭脳を持ち合わせていないから。
自分のことなんかわからない。なまえのぼんやりとした感情は、自分自身で輪郭をとらえるより先にジェイドが理解して助けてきた。ジェイドは覚えてもいない昔から彼女を甘やかして、自己理解の義務すら奪い取った。
それなのに、今になってそんなことを真っすぐ問うなんて酷じゃないの。そう口を尖らせてみても、こういう時に限って彼はその心情を読み取って動かない。
「わかんないよ、そんなの……」
「些細なことでいいんです。例えば今、僕が貴女を誘った時、どういう気分になりましたか」
ジェイドはもちろん、なまえの戸惑いを理解していた。まあそも、そう仕向けたのは彼だ。彼は自分自身のことを理解できずに混乱してしまう稚魚のようななまえが可愛くてたまらなかった。
よってはなから明確な答えを得られるとは思っていなかったが、それはなまえの知る由も無い。
「……まず、陸に上がる自分を想像したの。そうしたら胸がドキドキして……落ち着かなくなる。全身がムズムズする。それより先に行ったらどうなるかわからなくって、息が止まりそう。だから怖くて、嫌になっちゃう」
目を伏せて尾びれをいじりながら。自分の気持ちを稚魚の使う言葉でしか表せない恥ずかしさから声が震えている。
ジェイドは意外に思った。なまえは臆病に見えるが、それは保守的な精神からくるものではないようだ。
恐怖と好奇心は矛盾しない。ジェイドであっても未知に触れるのには恐怖が伴う。それを大きく上回る好奇心とその表出を助長する自信があるからこそ、なまえの目には「並外れて好奇心旺盛な人魚」に見えているが。
どうやらなまえには自信が欠けている。そのうえ恐怖が大きい。けれど好奇心の強さに関しては自分とそう変わりないのでは、とジェイドは口角を上げた。「ドキドキする」「ムズムズする」「呼吸が止まりそう」という感覚は、ジェイドが「好奇心」と名付け慈しんできた感情がもたらすと理解していたから。
邪悪に歪んだ口元を、水かきのついた大きな手が慌てて覆い隠す。危険すら感じる感情の昂り、ジェイドがそれを抑える仕草だ。なまえのそれは尾びれを触ることなのだろう。
けれどもそんなことをわかるはずもない幼いなまえは、ジェイドを不審に思って彼の顔を覗き込んだ。
急に近づいてきたなまえに、ジェイドは咄嗟にキスをする。衝動的なものだった。愛しくて愛しくて、自分と同じで少し違うなまえと、どこまでも行ってしまいたくなった。
驚いて「もう!」と憤るなまえに、ぷわ、と泡を吹きかけて笑う。照れて離れていかないうちに、なまえの尾びれへ自分の尾びれを巻き付ける。
「わかりました」
「何が?」
「なまえ、やっぱり陸へ行ってくれませんか」
ジェイドは両手で頬を撫で、その流れで髪を撫でる。なまえは「甘くして媚びれば靡くと思われたんだ」と少し怒ってその手を払う。
「お姫様抱っこというのがあるんです。実は僕、それをやってみたくて」
顔を逸らして、ジェイドのほうを見ない。今度はジェイドが覗き込むも、ぷいっと違うほうを向いてしまう。あんまり愛らしくて、がら空きの頬にキスをした。
「ちょっと」
「それから、なまえに服を着せてみたい。靴も履かせたい。脱がせるのも」
えらの周りを撫でると、なまえはくすぐったくて震えた。二人はお互いを、ぷうぷう決まった速度で動くえらの奥まで愛している。
人と魚の境目が複雑なマーブル模様であるところも、ジェイドにとって魅力の一つだ。ジェイドがなまえに触れる時はそこを撫でることが多くって、彼女はそのたび自分と父親のことを想い出す。なまえが本当に稚魚だった時、父親の背中に隠れては境目をなぞって恐怖が過ぎ去るのを待っていた。だからそうされると、頼れる恋人が甘えたな稚魚に思えて、可愛くてたまらない。
はたして、ジェイドはそこまでわかっているのだろうか。
「食事は僕が食べて美味しいと思ったものだけを出します。火を通した魚も美味しいんです。他の料理も面白いですよ。貴女が食べるのを見てみたい」
最初のキスこそ衝動だったものの、甘くして媚びれば靡くと思ったのはあながち間違いでは無かった。なまえがこの年まで自分ですら気づかずに心の内で育ててきた好奇心は、きっと癌のように全身の細胞で限界まで進行している。あとはジェイドがそれをつついて出してやるだけだ。
なまえは好奇心旺盛なのだから、恋人の我儘を聞いてみたいはず。ジェイドはなおもマーブル模様を撫でた。
「学園内をご紹介します。僕達のラウンジも、山も、陸の街も。不安になんてさせません。貴女を楽しませたいんです。陸で笑うなまえが見たい」
瞳が揺れる。きゅっと閉じていた唇が開かれた。
「陸って……海じゃないから」
拗ねた声音。ジェイドは頭を撫でて続きを促す。もう取り払われたりしなかった。
「海じゃないから、なんでも物がすぐに下へ落ちてしまうんでしょ。不便だよ」
なまえはジェイドの作戦通り絆されていた。ただそれが作戦通りだとわかっていたから癪だ。それにあんなに拒否した手前あっさりとは頷けない。ジェイドはふふ、と笑って、人差し指に彼女の髪の一房を巻き付けた。人魚の髪はレースよりずっと丈夫で、鋭い爪に引っかかっても切れたりしない。
「重石や魔法がなくても軽いものが飛んでいかなくて便利ですよ」
頬に添えられたジェイドの手の、ほんの少しの力へは素直に従う。まっすぐ見つめ合う形に戻った二人は、鼻先を触れ合わせて問答を続ける。甘えて拗ねた複雑な上目遣いに、ジェイドは目玉ごと食べてしまいたくなった。
「人間は肌が乾くって聞いたよ。水に触れていないってだけで怖いのに」
「僕達人魚は人間の姿でも乾きづらいんです。少なくとも僕は不快に思ったことはありません」
「陸では、泳ぐように移動できないんでしょ。上だ下だって動くために回り道するの、もどかしい」
「そうですね。でもフロイドは陸でも自在に駆け回りますよ。見ていて面白いです」
「……ふふ」
「ふふふ」
なまえは写真で見た二本脚のフロイドがプラズマみたいにびゅんびゅん動き回るのを想像して笑った。ジェイドも笑う。お互いに意地を張って押し問答なんかするのが馬鹿らしくなってきていた。
「それから……ふふ、えっと。えっとね。明るいところに慣れてないの。陸ってうんと明るいんでしょ。大丈夫かな」
「大丈夫だと思いますよ。あのアズールだってすぐに慣れました」
「ふふ……あとはね……」
頬を撫でるジェイドの手を、なまえが愛おしそうに撫でる。
「そうだ。水に囲まれていなかったら、涙を流すとすぐにばれちゃう。こっそり泣かせてくれないの?」
「ええ。陸なら貴女の瞳が潤んだだけですぐわかる。僕は一秒だって貴女が泣いているのを放っておきたくないんです」
「ひどい。私だってひとりで泣きたい日もあるのに」
ジェイドは髪を巻き付けていた指を解放して、涙を拭う素振りをする。なまえは「ふふふ」と照れて笑うと、さっきのを真似るみたいにジェイドへぷう、と泡を吹きかける。
「ああひどい。ジェイドなんて、きらい」
鋭い爪のついた愛しい指が、海中に揺蕩うジェイドの短い髪を撫でる。ジェイドは苦々しく口を歪めて、それをなまえの首元に隠した。
「それは言わないでください」
「どうして?」
「わかっているでしょう」
酷いのはどちらですか、とくぐもった声。海中に響くのを阻止したなまえの肌が揺れる。笑われているのが不服だったから、べろりと舐め上げて抗議した。
ジェイドは皮を被った言葉の応酬に慣れ親しんできたからか、直接的な言葉への耐性が無かった。こと愛しいなまえからの「嫌い」という言葉は、柔い思春期の心によく刺さる。いつだったかエイプリルフールに同じ言葉を言われ、衝撃のあまり今までで一番速く泳いで逃げ出した。そしてフロイドに一週間笑われた。
「ごめんね。冗談だよ。だいすき」
「ひどい。すきです。僕を弄ぶのはなまえ、貴女だけだ」
「それは光栄」
ああ、直接的な言葉への耐性が無かった。それは好意も同じことで、喜びに浮いた心を自覚せずにいられない。今は馬鹿みたいに破顔してしまう自分の顔を隠すため、ジェイドは首元へ顔を埋めたまま動かない。なまえは陸のほうへ向かってリング状の泡を吐いた。岩に当たってすぐに砕ける。照れて一層強く尾びれを絞めつける恋人の立派な背びれをなぞる。
「……僕の夢は、貴女を自慢して回ることです」
「えぇ?」
なまえが素っ頓狂な声を上げる。ジェイドはようやく顔を上げぶすっとした顔のまま、なまえと自分の額を合わせた。
「貴女を連れて世界中を回ります。海も陸も、いつかきっと空も、地中に世界があるならそこにだって。そこで素敵なものにたくさん触れて、なまえと笑って、なまえが一番素敵だと再確認する。そしてそれを触れ回る」
「へんなの。再確認、できなかったらどうする?」
「あり得ない」
なまえの尾びれが解放される。ジェイドの身体も海水も冷たいが、締め付けられていた箇所は一層冷たいような気がする。これは寂しさの温度だ、と彼女は孤独の一年間の、思い出の中の自身を撫でた。
しかし、解けたジェイドの尾びれはまたも彼女へ巻き付いた。今度は人型の部分を中心に、下のほうから上へ向かってぐるぐる、ゆったりと。なまえの頭上に尾びれの端があって、ふわふわと頭を撫でる。なまえはこの感触が一等好きだった。
「そうかな。怖いわ」
「……貴女も嘘吐きです。僕がどれだけ貴女を愛しているか……」
途中で言葉を切って、ジェイドは再びなまえの首元へ顔を埋めた。尾びれの巻き付け方が変わったせいで、さっきよりも大きく背中を丸めている。なまえは自由になった尾びれでその曲線を撫でた。
照れ隠しにがぶりと噛みつく。だというのになまえはくすくす笑って、頬に当たってこそばゆいターコイズブルーの髪を堪能していた。
「……いえ……あんまり楽しすぎるのが怖いだけでしょう」
「そうかも。ジェイドがそう言うなら、きっとそうだ」
「そうです」
なまえはジェイドと世界中を回るのを想像した。きっと陸での歩き方もマスターして、いろんなところでいくつも写真を撮る。それを故郷やアズールとフロイドに送る。知らない本を読んで、知らないものを食べる。知らない衣服を身に着けて、時には脱ぎ捨てる。知らない人と話し、知らない生き物を見る。その隣にいつもジェイドがいて、楽しさに紅潮させた頬を緩ませる。それで私の名前を呼ぶの。やっぱり私が一番だと口づけるの……。
「どうしよう、違うよ、ジェイド」
「……どう違いますか」
顔を上げてまた顔を近づける。
目の下に鼻先が当たり、唇が擦れて、睫毛と睫毛が重なり合う。
「楽しいなんてものじゃない。幸せすぎて倒れてしまうかも」
ジェイドの尾びれにはなまえの弾む心音が伝わっていた。一年ぶりの抱擁よりもむしろ未来の豪勢なデートへ心を躍らせているなまえがおかしくて肩を震わせる。
今までの彼女とまるで別人じゃないか。こんなに長い間一緒にいるのに、余すことなく手に入れようとしているのに、まだ新しいところがあるなんて。ジェイドは一層なまえを好きになる。
ジェイドの心音も彼女へ伝わっていた。同じように尾びれを彼に巻き付けていたから。
二人は目を瞑る。その動きで生まれた水流が、お互いの瞼を撫でる。瞳を覆う柔い皮をくっ付けて、声を抑えて笑った。
「まだ陸が嫌だと言いますか?」
「意地悪」
「貴女も、嫌じゃないのに断ろうとしたでしょう」
「最後の方はね。だって、海の中でこうしているのも心地いいから」
「ふふ。やっぱり嘘吐きだ」
瞼が離れて、唇が繋がる。冷たさの共有は恋人の特権だ。瞼の生んだ水の風がお互いの眼球を撫でる。
「僕といられるならどこだっていいくせに」
空でも、陸でも、海でも、地中でも、きっと別の銀河でも。
べぇ、と舌を出しておどけるなまえ。計算高い彼も真似た。そしてやっぱり密やかに笑う。
暗い洞穴の中、陸の文化が気まずそうに浮いている。
しなやかで美しい人魚達は闇に阻まれて誰にも見つけられない。彼らの故郷は春でも冷たく、一番の熱はお互いの体温だった。彼らの夢見る未知の熱が、はたしてそれを超えられるか、どうか。
「おかえり」
「ええ」
おかえりといったらただいまじゃないの、と思いつつも、久しぶりの再会に照れ臭そうな彼を可愛く思って黙る。微笑むなまえに尾びれを揺らして誘われたジェイドは、甘えたな彼女が変わっていないことに安心して手を取った。
「僕がいなくて寂しかったでしょう。可哀想に」
「ジェイドが置いて行ったんじゃない」
なまえは笑って鼻先を擦り付ける。鋭利な瞳がとろんと溶けた。人間かぶれでもなんでも、ジェイドはジェイドで、同族で幼馴染でなまえの恋人だ。
「可哀想な貴女も好きなんです」
どうか許して、と口づけられると弱かった。彼女の表面上の我儘や怒りを、ジェイドは上手く取り上げて甘く煮てしまう。それを口へ突っ込まれるのが癖になってやめられなくて、ああ可哀想な彼女はこの一年間禁断症状でどうにかなりそうだった。
「陸には慣れた?」
挨拶代わりの戯れを終えた二人は、連れ添って洞穴へ入っていく。ごつごつした岩壁に開いた隙間で、大昔に地震か何かでずれてできたようだった。入り口こそ狭いものの中はそれなりに快適。ただ小さい頃はここでダンスパーティーだってできたのが、今は二人で絡まり合うのにちょうどいい広さに変わっていた。ふたりはこの空間に合わせて大きくなったのかもしれない。
そう、ここは幼い頃から二人にとっての秘密基地……逢瀬の場所だった。とは言っても、幼馴染やなまえの家族にはとうにばれている。二人きりでいられるのは優秀なジェイドが魔法をかけているからで、それも彼の兄弟には破られてしまう。ともあれ、今日はあの片割れを事前に買収してきたから、二人は何の懸念も無く逢っていた。
「えぇ。面白いものがたくさんありますよ」
「みたいだね」
ゆったり尾びれを揺らす彼は、魔法で括って固めた大きな四角い塊を携えていた。素材は違うけれども、陸で言うキャリーケースのようなもの。海豚の革を模した魔法の梱包は、非常に頑丈で陸から珊瑚の海の辺境を難無く乗り越えてきた。
にぃと笑ってなまえとの間にそれを置き、魔法を解く。はらはらと梱包が融けて露わになった中身は、彼女にとって見たことのないものばかりだった。
「こんなにたくさんいらないのに。重かったでしょ」
「いいえ。僕が渡したかったんです。どうか受け取ってください」
一番上には小包が乗っていて、ジェイドはそれをひょいと避けるとその下の箱を先に差し出した。彼女は小包が気になって目で追ったが、まぁ彼なりに渡す順序を決めてきたのだろうと特に何も言わなかった。
「これは陸のお菓子です。フィナンシェといいます。ご家族とどうぞ」
「あぁ、わざわざご丁寧に」
「ふふ」
妙なよそゆきの言葉遣いに小さく笑い合う。ジェイドの陸のお菓子を差し出す手は止まらなくて、次々に「マカロン」「タルト」「ワッフル」「ドーナツ」となまえには聞き慣れない単語が並べ立てられた。
「こんなに?」
「甘いもの、お好きでしょう。ご両親も」
「うん。でも全部うちへ?」
「どれも海には無いものですから、物珍しくてすぐに召し上がられると思いますよ」
「そうかもしれないけど……」
「貴女に買ってきたんです」
そのひとつの箱を開ける。ジェイドが魔法をかけているから、海の中でも陸での品質が損なわれない。ふわりと漂う甘い香りに慣れない焼き菓子の感触。ひとつ「マカロン」を口に含むと、断面から小さな気泡が逃げていった。さく、と小気味良い音が頭蓋に響く。尖った人魚の牙ではほとんど力を籠めずとも崩れていく。いたずらに珊瑚の死体を齧るよりもずっと気持ちいい。そして染み渡る甘さが酔うほどだった。
「美味しい!」
「よかった。ここのマカロンは僕もアズールも気に入っているんです」
「フロイドは?」
「だめです。あれはマカロンの違いに興味がないから、どこのでもばくばく飲み込んで与え甲斐がありません」
「あはは、彼らしいね」
なまえにとってアズールは恋人の友人だが、同時に友人。フロイドは恋人の兄弟で、同時に友人。どちらとも平等に仲が良かった。
ジェイドはにこ、と満足そうに笑むと、お菓子の下に閉まっていたものを取り出す。オーガンジーの袋に入ったきらきらの石に、分厚い書籍。
「この石は授業の成果物です。綺麗だから、貴女に」
「ありがとう。ジェイドの髪みたいに綺麗な色。ねぇこの本は?」
「キノコの図鑑です。とても面白いので是非。解説しますよ」
「ああ、例の「キノコ」だね。嬉しい。よろしくお願いします」
素直に申し出を引き受けると、ジェイドは一際嬉しそうに表情を輝かせた。
好奇心旺盛な恋人が特別熱中している「キノコ」というものに興味があった。度々送られてくる写真や手紙には必ず「キノコ」が、そして「山」が出てきていたからその存在は知っている。恋人の好きなものを好きになりたいというのが乙女心。なまえは人魚の中でもうんと臆病な性質ではあったが、彼の話を聞いて知識を得るくらいなら、むしろ自分から頼もうと思っていた。
「ありがとうございます。フロイドもアズールもまともに聞いてくれないので、助かります」
「え?なんで?」
「それと、これは陸の名所を集めた写真集です。表紙のこの山は僕も行ったことがあるんですよ。こちらの三冊は小説で、僕が読んだものから貴女の気に入りそうなものを選びました」
「あ、うん……ありがとう」
小説のあらすじをつい聞き流す。付き合いの長い二人が聞くのを放棄しているというのがどうにも気がかりだった。その昔ジェイドが小魚をわざわざ解剖して食べることにはまっていた時の嬉々として臓器の説明をする姿を思い出して、なまえは密かに腹を括った。
ジェイドはそれに気づかずに、説明を終えた小説を脇へ置く。その下のノートを、わずかに緊張した面持ちで彼女へ渡した。
「それからこれは、アズールに書かせた魔法薬のレシピです」
「え?」
「こちらと合わせてお使いください」
ぱらぱらとページをめくるなまえに、最初に避けた小包を見せた。彼女がノートを閉じてきょとんと見やると、ジェイドが小包の魔法を解く。はらはらと海中に融けて消えた包装の中身に、なまえは思わず泡を吐いた。
「これ、服?」
「はい」
肩口にあたる部分を鋭い爪で破かないようにつまむ。ジョーゼット素材の白いワンピースがふわりと海中に広がった。リバーレースの透ける袖越しに、なまえは恋人の瞳を見る。
人魚が陸の文化にまったく触れないことはない。元来人魚は知的欲求が強く、遠い昔から人間にちょっかいをかけては陸へ夢を抱いてきた。
なまえだって、人間が着る服を見たことくらいある。沈んだ船の中だったり、流れて岩に絡まりついたのだったり、友人が人間から奪ってきたものだったり。陸の文化を知らせる博物館にも校外学習で行ったことがあるし、陸で生まれた映画を見たことも。遠い親戚に陸へ遊びに行くのが好きな人魚がいて、陸で服を着ている写真を見せてもらったことだってある。
けれどもなまえは人魚のほとんどが眉を寄せるくらいに臆病で、知識として陸の文化を受け入れることはあっても体験したいと思ったことは無かった。今の今まで服に触ったことも無い。
こんな薄い布ひとつあってもなくても同じようなのにどうして陸では必要なんだろ。そうぼんやり考えるばかりで、魔法薬のレシピとこれが意味する彼の願望には気づかなかった。
ジェイドはなまえの広げるワンピースの、袖口を優しくつまむ。レースは破けやすくていけない。でもその繊細さは、彼女の身体によく似合うだろうと思った。きっと透けるほどに白い腕に、この淡いベールがかかったらどんなに美しいでしょう、と。
「次のホリデーには、貴女と陸を歩きたいんです」
あ。とそこでようやくなまえは思い至る。先のレシピの一部、一年と少し前アズールが集めていたものだ。NRCに入学の決まった彼らが寂しい顔ひとつせず入学準備にいそしんでいるのを拗ねて横目に見ていたから、細かい作り方はよく覚えていない。
「そんなに陸が気に入ったの?」
ジェイドが困って微笑んだ。なまえは「違うの」と慌てて訂正する。首を振ったそのわずかな動きだけで、彼らの纏う海もわずかに揺れる。白いワンピースが静かに波打った。
「だってジェイドがそんなお願いするなんて初めてじゃない」
嫌味のつもりは無かった。本当に、心から珍しく思ったのだ。
ジェイドはなまえを甘やかしに甘やかすばかり、願望を叶えることはあってもぶつけることはほとんど無い。小魚の解剖だって魅力を語って聞かせはしたけれど、どうか一緒にと頼みはしなかった。
「…素敵だと思うものがたくさんありました。なまえに見せたいんです」
声の震えは、陸より海が伝わりやすい。ジェイドは自分の素直な願望に、やはり言わぬべきだったかと後悔した。「なまえと陸を歩きたい」というのは入学が決まった時からぼんやり考えていたことで、しかし彼女の臆病さを考えれば叶わない。だからデートの誘いというより我儘だ。口に出すことはないだろうと心の奥にしまっていた。
残念ながら、その願望は陸で時間を過ごすごとに強くなる。フロイド、アズールと陸の「素敵なもの」を共有するのはもちろん楽しかったが、そこにいつでも焦がれる恋人がいない事実から目を逸らせなくなっていく。弾む心にいないなまえが影を落とす。手紙やスマホでのやり取りだって、本当の意味での魅力は伝わらない。
そのもどかしさと空虚さに耐えかねて、彼は入念な準備の上にこの我儘を言う決断をしたのだった。
なまえとて、その逡巡を汲めないほどの浅い付き合いではない。きっとわざわざ対価を支払ってアズールにノートを作らせたこと、様々ある陸の服からこの一着を選んできただろうこと、ガラスより透き通る声の強がりな抑揚。
それがわかっていても、二つ返事で要求を呑む勇気は無かった。
「私、陸に上がったことが無いんだよ。水面から顔を出したことだって無いの」
「ええ。もちろん知っていますよ」
「とても歩けない」
彼女の臆病さを愚かだと嘲るつもりは無いが、首を傾げるのが常。なまえはジェイドより弱いかもしれないが、ジェイドが他の多くの生き物より強いのが確かな事実としてあるからだ。その自分が味方をするのだから、なまえだって他の多くの生き物を、そして事象を恐れる必要は無い。そしてなまえの味方には、フロイドもアズールも含まれる。
なまえはつまんだワンピースを破らないようにそうっとジェイドへ返すと、尾びれをくるんと翻して腰のあたりに持ってきた先端を手で撫でる。なまえの癖だ。
ジェイドの想定内の反応であったものの、彼は困った表情のままワンピースを魔法で包んで地面に置いた。
「練習に付き合います」
「私の運動神経の無さ、知ってるでしょ」
「前から思っていたのですが。貴女は運動神経が悪いのではなく、自信が足りないのでは?」
「話そらさないで。陸には行けない」
無理だと胸の前に両手を掲げて拒絶する。ジェイドはその震えた幼い手をまとめて包んだ。
「歩けなくても大丈夫。僕が抱えます」
「恥ずかしいよ」
「陸では普通ですよ」
「嘘吐き」
「おや。貴女が聡くて残念です」
なまえが呆れて肩を竦める。ジェイドはくすくす笑って手を離し、揺れる彼女の髪を指で梳いた。彼には、この我儘を諦める予定は無い。柄にもなくストレートに言ってしまったのだし、アズールにもフロイドにもこの願望はばれている。なんとしてでも成功へ運ぶつもりだ。
問題はなまえの臆病さだ。ジェイドは長い間……今の体長の十分の一にも満たない頃からなまえと共にあって、どうしてこんなにも新しいものを恐れているのかわからなかった。大人しい性格のなまえでもそれなりに(むしろジェイド達より)友人はいる。水面から顔を出すくらい、エレメンタリースクールの稚魚でも好奇心から誘い合って成すことだ。ジェイド達だって友人として冒険に誘ったことは数知れないが、そのたび彼女は怯えて尾びれの端を触る。知らないことは怖い、と。
「なら、歩くことさえうまくいけば、僕の願いを叶えてくれますか」
「……その言い方、ずるいね」
なまえだってできるなら愛しい恋人の我儘を聞いてやりたいと思っている。けれど、どうにも恐ろしい。落ち着かない。陸へ上がって楽しんでいる自分など描けない。卵を出た時からずっと尾びれはいつでも思い通りに動くし、ひんやりぺったりしていて触ると心が落ち着く。
「なら質問を変えましょう。どうしてそこまで怯えているんですか」
「陸に?」
「いいえ、すべてに」
まっすぐ見据える二色の瞳。なまえはこの視線が苦手だった。何もかもを知り尽くしたいという知識欲に応えられるだけの頭脳を持ち合わせていないから。
自分のことなんかわからない。なまえのぼんやりとした感情は、自分自身で輪郭をとらえるより先にジェイドが理解して助けてきた。ジェイドは覚えてもいない昔から彼女を甘やかして、自己理解の義務すら奪い取った。
それなのに、今になってそんなことを真っすぐ問うなんて酷じゃないの。そう口を尖らせてみても、こういう時に限って彼はその心情を読み取って動かない。
「わかんないよ、そんなの……」
「些細なことでいいんです。例えば今、僕が貴女を誘った時、どういう気分になりましたか」
ジェイドはもちろん、なまえの戸惑いを理解していた。まあそも、そう仕向けたのは彼だ。彼は自分自身のことを理解できずに混乱してしまう稚魚のようななまえが可愛くてたまらなかった。
よってはなから明確な答えを得られるとは思っていなかったが、それはなまえの知る由も無い。
「……まず、陸に上がる自分を想像したの。そうしたら胸がドキドキして……落ち着かなくなる。全身がムズムズする。それより先に行ったらどうなるかわからなくって、息が止まりそう。だから怖くて、嫌になっちゃう」
目を伏せて尾びれをいじりながら。自分の気持ちを稚魚の使う言葉でしか表せない恥ずかしさから声が震えている。
ジェイドは意外に思った。なまえは臆病に見えるが、それは保守的な精神からくるものではないようだ。
恐怖と好奇心は矛盾しない。ジェイドであっても未知に触れるのには恐怖が伴う。それを大きく上回る好奇心とその表出を助長する自信があるからこそ、なまえの目には「並外れて好奇心旺盛な人魚」に見えているが。
どうやらなまえには自信が欠けている。そのうえ恐怖が大きい。けれど好奇心の強さに関しては自分とそう変わりないのでは、とジェイドは口角を上げた。「ドキドキする」「ムズムズする」「呼吸が止まりそう」という感覚は、ジェイドが「好奇心」と名付け慈しんできた感情がもたらすと理解していたから。
邪悪に歪んだ口元を、水かきのついた大きな手が慌てて覆い隠す。危険すら感じる感情の昂り、ジェイドがそれを抑える仕草だ。なまえのそれは尾びれを触ることなのだろう。
けれどもそんなことをわかるはずもない幼いなまえは、ジェイドを不審に思って彼の顔を覗き込んだ。
急に近づいてきたなまえに、ジェイドは咄嗟にキスをする。衝動的なものだった。愛しくて愛しくて、自分と同じで少し違うなまえと、どこまでも行ってしまいたくなった。
驚いて「もう!」と憤るなまえに、ぷわ、と泡を吹きかけて笑う。照れて離れていかないうちに、なまえの尾びれへ自分の尾びれを巻き付ける。
「わかりました」
「何が?」
「なまえ、やっぱり陸へ行ってくれませんか」
ジェイドは両手で頬を撫で、その流れで髪を撫でる。なまえは「甘くして媚びれば靡くと思われたんだ」と少し怒ってその手を払う。
「お姫様抱っこというのがあるんです。実は僕、それをやってみたくて」
顔を逸らして、ジェイドのほうを見ない。今度はジェイドが覗き込むも、ぷいっと違うほうを向いてしまう。あんまり愛らしくて、がら空きの頬にキスをした。
「ちょっと」
「それから、なまえに服を着せてみたい。靴も履かせたい。脱がせるのも」
えらの周りを撫でると、なまえはくすぐったくて震えた。二人はお互いを、ぷうぷう決まった速度で動くえらの奥まで愛している。
人と魚の境目が複雑なマーブル模様であるところも、ジェイドにとって魅力の一つだ。ジェイドがなまえに触れる時はそこを撫でることが多くって、彼女はそのたび自分と父親のことを想い出す。なまえが本当に稚魚だった時、父親の背中に隠れては境目をなぞって恐怖が過ぎ去るのを待っていた。だからそうされると、頼れる恋人が甘えたな稚魚に思えて、可愛くてたまらない。
はたして、ジェイドはそこまでわかっているのだろうか。
「食事は僕が食べて美味しいと思ったものだけを出します。火を通した魚も美味しいんです。他の料理も面白いですよ。貴女が食べるのを見てみたい」
最初のキスこそ衝動だったものの、甘くして媚びれば靡くと思ったのはあながち間違いでは無かった。なまえがこの年まで自分ですら気づかずに心の内で育ててきた好奇心は、きっと癌のように全身の細胞で限界まで進行している。あとはジェイドがそれをつついて出してやるだけだ。
なまえは好奇心旺盛なのだから、恋人の我儘を聞いてみたいはず。ジェイドはなおもマーブル模様を撫でた。
「学園内をご紹介します。僕達のラウンジも、山も、陸の街も。不安になんてさせません。貴女を楽しませたいんです。陸で笑うなまえが見たい」
瞳が揺れる。きゅっと閉じていた唇が開かれた。
「陸って……海じゃないから」
拗ねた声音。ジェイドは頭を撫でて続きを促す。もう取り払われたりしなかった。
「海じゃないから、なんでも物がすぐに下へ落ちてしまうんでしょ。不便だよ」
なまえはジェイドの作戦通り絆されていた。ただそれが作戦通りだとわかっていたから癪だ。それにあんなに拒否した手前あっさりとは頷けない。ジェイドはふふ、と笑って、人差し指に彼女の髪の一房を巻き付けた。人魚の髪はレースよりずっと丈夫で、鋭い爪に引っかかっても切れたりしない。
「重石や魔法がなくても軽いものが飛んでいかなくて便利ですよ」
頬に添えられたジェイドの手の、ほんの少しの力へは素直に従う。まっすぐ見つめ合う形に戻った二人は、鼻先を触れ合わせて問答を続ける。甘えて拗ねた複雑な上目遣いに、ジェイドは目玉ごと食べてしまいたくなった。
「人間は肌が乾くって聞いたよ。水に触れていないってだけで怖いのに」
「僕達人魚は人間の姿でも乾きづらいんです。少なくとも僕は不快に思ったことはありません」
「陸では、泳ぐように移動できないんでしょ。上だ下だって動くために回り道するの、もどかしい」
「そうですね。でもフロイドは陸でも自在に駆け回りますよ。見ていて面白いです」
「……ふふ」
「ふふふ」
なまえは写真で見た二本脚のフロイドがプラズマみたいにびゅんびゅん動き回るのを想像して笑った。ジェイドも笑う。お互いに意地を張って押し問答なんかするのが馬鹿らしくなってきていた。
「それから……ふふ、えっと。えっとね。明るいところに慣れてないの。陸ってうんと明るいんでしょ。大丈夫かな」
「大丈夫だと思いますよ。あのアズールだってすぐに慣れました」
「ふふ……あとはね……」
頬を撫でるジェイドの手を、なまえが愛おしそうに撫でる。
「そうだ。水に囲まれていなかったら、涙を流すとすぐにばれちゃう。こっそり泣かせてくれないの?」
「ええ。陸なら貴女の瞳が潤んだだけですぐわかる。僕は一秒だって貴女が泣いているのを放っておきたくないんです」
「ひどい。私だってひとりで泣きたい日もあるのに」
ジェイドは髪を巻き付けていた指を解放して、涙を拭う素振りをする。なまえは「ふふふ」と照れて笑うと、さっきのを真似るみたいにジェイドへぷう、と泡を吹きかける。
「ああひどい。ジェイドなんて、きらい」
鋭い爪のついた愛しい指が、海中に揺蕩うジェイドの短い髪を撫でる。ジェイドは苦々しく口を歪めて、それをなまえの首元に隠した。
「それは言わないでください」
「どうして?」
「わかっているでしょう」
酷いのはどちらですか、とくぐもった声。海中に響くのを阻止したなまえの肌が揺れる。笑われているのが不服だったから、べろりと舐め上げて抗議した。
ジェイドは皮を被った言葉の応酬に慣れ親しんできたからか、直接的な言葉への耐性が無かった。こと愛しいなまえからの「嫌い」という言葉は、柔い思春期の心によく刺さる。いつだったかエイプリルフールに同じ言葉を言われ、衝撃のあまり今までで一番速く泳いで逃げ出した。そしてフロイドに一週間笑われた。
「ごめんね。冗談だよ。だいすき」
「ひどい。すきです。僕を弄ぶのはなまえ、貴女だけだ」
「それは光栄」
ああ、直接的な言葉への耐性が無かった。それは好意も同じことで、喜びに浮いた心を自覚せずにいられない。今は馬鹿みたいに破顔してしまう自分の顔を隠すため、ジェイドは首元へ顔を埋めたまま動かない。なまえは陸のほうへ向かってリング状の泡を吐いた。岩に当たってすぐに砕ける。照れて一層強く尾びれを絞めつける恋人の立派な背びれをなぞる。
「……僕の夢は、貴女を自慢して回ることです」
「えぇ?」
なまえが素っ頓狂な声を上げる。ジェイドはようやく顔を上げぶすっとした顔のまま、なまえと自分の額を合わせた。
「貴女を連れて世界中を回ります。海も陸も、いつかきっと空も、地中に世界があるならそこにだって。そこで素敵なものにたくさん触れて、なまえと笑って、なまえが一番素敵だと再確認する。そしてそれを触れ回る」
「へんなの。再確認、できなかったらどうする?」
「あり得ない」
なまえの尾びれが解放される。ジェイドの身体も海水も冷たいが、締め付けられていた箇所は一層冷たいような気がする。これは寂しさの温度だ、と彼女は孤独の一年間の、思い出の中の自身を撫でた。
しかし、解けたジェイドの尾びれはまたも彼女へ巻き付いた。今度は人型の部分を中心に、下のほうから上へ向かってぐるぐる、ゆったりと。なまえの頭上に尾びれの端があって、ふわふわと頭を撫でる。なまえはこの感触が一等好きだった。
「そうかな。怖いわ」
「……貴女も嘘吐きです。僕がどれだけ貴女を愛しているか……」
途中で言葉を切って、ジェイドは再びなまえの首元へ顔を埋めた。尾びれの巻き付け方が変わったせいで、さっきよりも大きく背中を丸めている。なまえは自由になった尾びれでその曲線を撫でた。
照れ隠しにがぶりと噛みつく。だというのになまえはくすくす笑って、頬に当たってこそばゆいターコイズブルーの髪を堪能していた。
「……いえ……あんまり楽しすぎるのが怖いだけでしょう」
「そうかも。ジェイドがそう言うなら、きっとそうだ」
「そうです」
なまえはジェイドと世界中を回るのを想像した。きっと陸での歩き方もマスターして、いろんなところでいくつも写真を撮る。それを故郷やアズールとフロイドに送る。知らない本を読んで、知らないものを食べる。知らない衣服を身に着けて、時には脱ぎ捨てる。知らない人と話し、知らない生き物を見る。その隣にいつもジェイドがいて、楽しさに紅潮させた頬を緩ませる。それで私の名前を呼ぶの。やっぱり私が一番だと口づけるの……。
「どうしよう、違うよ、ジェイド」
「……どう違いますか」
顔を上げてまた顔を近づける。
目の下に鼻先が当たり、唇が擦れて、睫毛と睫毛が重なり合う。
「楽しいなんてものじゃない。幸せすぎて倒れてしまうかも」
ジェイドの尾びれにはなまえの弾む心音が伝わっていた。一年ぶりの抱擁よりもむしろ未来の豪勢なデートへ心を躍らせているなまえがおかしくて肩を震わせる。
今までの彼女とまるで別人じゃないか。こんなに長い間一緒にいるのに、余すことなく手に入れようとしているのに、まだ新しいところがあるなんて。ジェイドは一層なまえを好きになる。
ジェイドの心音も彼女へ伝わっていた。同じように尾びれを彼に巻き付けていたから。
二人は目を瞑る。その動きで生まれた水流が、お互いの瞼を撫でる。瞳を覆う柔い皮をくっ付けて、声を抑えて笑った。
「まだ陸が嫌だと言いますか?」
「意地悪」
「貴女も、嫌じゃないのに断ろうとしたでしょう」
「最後の方はね。だって、海の中でこうしているのも心地いいから」
「ふふ。やっぱり嘘吐きだ」
瞼が離れて、唇が繋がる。冷たさの共有は恋人の特権だ。瞼の生んだ水の風がお互いの眼球を撫でる。
「僕といられるならどこだっていいくせに」
空でも、陸でも、海でも、地中でも、きっと別の銀河でも。
べぇ、と舌を出しておどけるなまえ。計算高い彼も真似た。そしてやっぱり密やかに笑う。
暗い洞穴の中、陸の文化が気まずそうに浮いている。
しなやかで美しい人魚達は闇に阻まれて誰にも見つけられない。彼らの故郷は春でも冷たく、一番の熱はお互いの体温だった。彼らの夢見る未知の熱が、はたしてそれを超えられるか、どうか。
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