眠るには惜しい夜
「寝てろ」
体を起こした私の僅かな雑音は、低くて投げやりな言葉で制される。眠りについた頃よりも幾分か小さくなった焚火。その向こうに薄汚れた外套の男が背中を丸めている。フードのせいでなだからなシルエットの片側に三十年式小銃の負い革がかかっている。下手だろうが抱えて寝ろと指示されたので、私も同じ銃を抱いている。従軍とはいえ看護婦には縁のなかったもの、人を殺す道具。
火にくべられた白樺がパキリと音を立てる。男はいつの間に拾い足していたらしい枝を投げ入れた。その時ほんの少し振り向いて私を一瞥し
「寝ろ。明日も歩くぞ」
と面倒そうに言うと、体勢を戻した。
私たちが居る場所は小さな崖の下で、上部に岩がせり出して丁度屋根のようになっていた。風を防ぐために簡易的に雪を積み固めて、今日の不寝番である彼が外側へ座し、明日の不寝番である私が内側で眠ることになったのだ。
病院を抜け出して、二階堂が捕まって、何日経っただろう。山小屋を見つけた時はそこで、街に着いたときは宿を取って休んでいたものの、こうして野宿することが多かった。彼がぶくぶくのボロボロで病院に運ばれてきた時から随分経っているのに、雪のない場所の方が少ない。北海道の冬はあまりに長くて、永遠に続くんじゃないかとさえ思う。
「目が覚めちゃった。眠れない」
「寝ろ」
「お話しようよ」
「寝ろ」
「明日はどこに行くの?」
「…さあな」
諦めたのか、こちらに体を傾けて返事をしてくれた。彼が刺青人皮を追っているらしいことはわかるが、本当の目的はわからない。ただ私はこの男に付いてきただけなので、本当はどこに行こうがどうでもよかった。気怠げに髪を撫でつけるのを見て、この癖は前からあっただろうかと考えることの方が大事だった。
「街に着くかなあ。そしたら今日獲った鹿革売るでしょう。前より多めに弾を買ってね。私たくさん練習するから」
「必要ないだろ。俺より上手くはならん」
まったく縁はなかったが、お尋ね者二人で旅をするのに一人が銃を使えないというのは不都合なので教わることになっていた。こうして皮肉を言うものの、いざ教えを請えば引き受けてくれるので面白い。教えるのが上手いかといったら何とも言えないが、なんの知識もなかった私が鹿を撃てるようになったのは間違いなく彼のおかげだ。尾形一人なら逃げ果せたはずの道程を断ちたくはない。
「尾形より下手でも、足手纏いにならないくらいになりたいよ」
「足手纏いだとわかっているならなぜ付いてくる」
病院で意識を取り戻すまで顔を合わせたことがないわけではない。以前から今日まで、この気難しい人に好意どころか容認の姿勢を見せられたことはなかった。何か狙う時や追っ手をからかう時はにやついて随分楽しそうだが、私はそういう表情を向けられたことはないし、口を開いたと思えば皮肉と悪態が飛んでくるばかりだ。もちろん歩幅だとか視線を合わせてくれることもない。この男は目玉だけこちらに向けて(あるいはそれすら向けないで)見下げながら話す。まあこの人はそういう性分なのだと割り切っているから特別不愉快ではなかった。私を本当に嫌悪しているのなら殺してくれていい、というのは脱走の手伝いをした時に伝えてあるから、そうしないのが本心の現れだと思い込むことにしている。
「歩くのも戦うのもそのうち上手になってみせるから。そしたら尾形にも利点があるよ。怪我の手当てができるし、観測手もできる。料理もちょっとできるし、尾形より人と話すの上手いし。ほら、こうして不寝番も交代でできてる」
「それでお前には何の利点があるか聞いてるんだ。看護婦が山の歩き方やら人の殺し方やらを覚えて何の得がある?馬鹿にもわかりやすく言ってやる。お前が俺に付いてくる目的がわからんから教えろ」
私たちは互いの顔も見ずに燃える白樺の枝をぼんやり眺めて、言葉だけを投げあっていた。こうして行われる探り合いは、意味があるようでない。この人は相手を追い詰めるためにはぺらぺらと口を開くけれど、いわゆる雑談というのがうんと苦手だ。だからただの雑談を始めようとした私から主導権を奪って問答に切り替えた……というのが、ここしばらく尾形を観察していた私の考察。故に、この問いに対する答えは何だって構わないのだ。まあそう思っているのは私だけかもしれないけど。
「尾形上等兵殿がお察しのとおり、私は馬鹿ですからね。無知無学だと大した目的がなくてもいろいろ知りたくなる」
「誤魔化すな。これで鶴見中尉に情報を流していたとなればかなわん」
「大体目的がわからないのは貴方も同じだよ。鶴見中尉は貴方を野心が強いとか言っていたけど、軍の権力を欲しがる人間にも見えないし。まして金塊が欲しいわけじゃないでしょう。まあ、何をしたいのかわからない殿方に付いて行こうっていうんだから、やっぱり私は馬鹿ですね」
人は一緒にいる人間の言動や癖が移ってしまうものらしい。とうとうと口から皮肉や理詰めまがいの言葉が流れていくのは、この男のそれが移ってしまったせいだろうか。急に掛け合いが止んで、焚火のぱちぱち鳴く音がよく響く。彼が何も言わなくなったのがなんだかおかしくて笑ってしまった。じろりと睨まれたのがわかったので、視界に納めてやろうと顔を上げる。顎の大きな手術痕に、フードの影がちらちら揺れてかかる。引き結んだ口元は言いたいことを飲み込んでいるような、言いたいことなんて何もないような曖昧さがある。ほのかに照らされた瞳は真っ黒で、なんにも映っていなかった。
問答に意味はなかったけれど、目的も不明瞭なまま造反者に付いて行きたがる私をこの男が疑うのは当然だ。実際、縁を切ったと言いながら鶴見中尉に情報を流すのは難しくない。仕事がなくなることはなく病院に勤める限りは命の危険もない従軍看護婦を辞めて、造反者に銃を教わって逃げ回るなんて自分でも愚かだと思う。捻くれたこの人のことだから何を言っても私を信じることなんてないだろうけど、なんだか疑わないでほしくなった。なんにもない黒の瞳を見るたびに苦しくなる、それがどうしてか嫌じゃない。遠すぎて蟻みたいな標的を見事に撃ち殺すのを、叶うなら隣で見ていたい。疲れるし死にかけるし悪態を吐かれるこの逃避行が、不思議と楽しい。そういうことを言いたかったけど、そうしたら尚更距離を置かれる気がした。
「……情報を流すなんてしないよ。どこへ行くにもすぐ傍にいたんだから、そんなことする隙なかったでしょ。これからもそう」
それでもこの問答に意味はないから、今は理詰めまがいで構わない。私は尾形より人と話すのが上手いけれど、仲良くなるのは同じくらい下手だ。悟られないように媚びる私はどれだけ愚かに見えているだろうか。
尾形は見定める様に私を睨んだ。なんにも見る気がないような瞳はそのくせ私の愚かさを見透かしているようでて恥ずかしかった。満足したのかすっと視線を逸らし、いつもの馬鹿にするような笑い方をして、焚火に枝を投げた。
「もう寝ろ」
これ以上は話せない。眠らないとまずいのも確かだし、また雑談を開いても無駄だろう。諦めて横になり、銃を抱きなおす。目を瞑ったとき、一際大きくパキリと音がした。「おやすみ」と言おうとしたら、低い声が先に届いた。
「明日は街に着かないからお前が不寝番だ。具合によるが明後日には着くから宿を取る」
驚いてもう一度瞼を開くと、もう男は外を向いていた。焚火越しの見慣れた外套が蜃気楼に揺れる。
ずっとふたりきりでいるのに、この男が腹の底で何を考えているのかわからない。どの言葉や挙動が彼の機嫌を良くしたのかわからない。ただ、わざわざ無意味な雑談を返してくれたのだから、私は彼の検問を通過できたと考えていいのだろう。
さっきはなんだか眠りが浅くてつい起き上がってしまったけれど、今度は深く眠れそうだ。ほんのり寂しくて悲しかったのがなくなって眠りに落ちる寸前、慌てて「おやすみ」を放り投げたけれど、返事はなかった。この人に「おやすみ」を言うのは私だけのような気がした。
体を起こした私の僅かな雑音は、低くて投げやりな言葉で制される。眠りについた頃よりも幾分か小さくなった焚火。その向こうに薄汚れた外套の男が背中を丸めている。フードのせいでなだからなシルエットの片側に三十年式小銃の負い革がかかっている。下手だろうが抱えて寝ろと指示されたので、私も同じ銃を抱いている。従軍とはいえ看護婦には縁のなかったもの、人を殺す道具。
火にくべられた白樺がパキリと音を立てる。男はいつの間に拾い足していたらしい枝を投げ入れた。その時ほんの少し振り向いて私を一瞥し
「寝ろ。明日も歩くぞ」
と面倒そうに言うと、体勢を戻した。
私たちが居る場所は小さな崖の下で、上部に岩がせり出して丁度屋根のようになっていた。風を防ぐために簡易的に雪を積み固めて、今日の不寝番である彼が外側へ座し、明日の不寝番である私が内側で眠ることになったのだ。
病院を抜け出して、二階堂が捕まって、何日経っただろう。山小屋を見つけた時はそこで、街に着いたときは宿を取って休んでいたものの、こうして野宿することが多かった。彼がぶくぶくのボロボロで病院に運ばれてきた時から随分経っているのに、雪のない場所の方が少ない。北海道の冬はあまりに長くて、永遠に続くんじゃないかとさえ思う。
「目が覚めちゃった。眠れない」
「寝ろ」
「お話しようよ」
「寝ろ」
「明日はどこに行くの?」
「…さあな」
諦めたのか、こちらに体を傾けて返事をしてくれた。彼が刺青人皮を追っているらしいことはわかるが、本当の目的はわからない。ただ私はこの男に付いてきただけなので、本当はどこに行こうがどうでもよかった。気怠げに髪を撫でつけるのを見て、この癖は前からあっただろうかと考えることの方が大事だった。
「街に着くかなあ。そしたら今日獲った鹿革売るでしょう。前より多めに弾を買ってね。私たくさん練習するから」
「必要ないだろ。俺より上手くはならん」
まったく縁はなかったが、お尋ね者二人で旅をするのに一人が銃を使えないというのは不都合なので教わることになっていた。こうして皮肉を言うものの、いざ教えを請えば引き受けてくれるので面白い。教えるのが上手いかといったら何とも言えないが、なんの知識もなかった私が鹿を撃てるようになったのは間違いなく彼のおかげだ。尾形一人なら逃げ果せたはずの道程を断ちたくはない。
「尾形より下手でも、足手纏いにならないくらいになりたいよ」
「足手纏いだとわかっているならなぜ付いてくる」
病院で意識を取り戻すまで顔を合わせたことがないわけではない。以前から今日まで、この気難しい人に好意どころか容認の姿勢を見せられたことはなかった。何か狙う時や追っ手をからかう時はにやついて随分楽しそうだが、私はそういう表情を向けられたことはないし、口を開いたと思えば皮肉と悪態が飛んでくるばかりだ。もちろん歩幅だとか視線を合わせてくれることもない。この男は目玉だけこちらに向けて(あるいはそれすら向けないで)見下げながら話す。まあこの人はそういう性分なのだと割り切っているから特別不愉快ではなかった。私を本当に嫌悪しているのなら殺してくれていい、というのは脱走の手伝いをした時に伝えてあるから、そうしないのが本心の現れだと思い込むことにしている。
「歩くのも戦うのもそのうち上手になってみせるから。そしたら尾形にも利点があるよ。怪我の手当てができるし、観測手もできる。料理もちょっとできるし、尾形より人と話すの上手いし。ほら、こうして不寝番も交代でできてる」
「それでお前には何の利点があるか聞いてるんだ。看護婦が山の歩き方やら人の殺し方やらを覚えて何の得がある?馬鹿にもわかりやすく言ってやる。お前が俺に付いてくる目的がわからんから教えろ」
私たちは互いの顔も見ずに燃える白樺の枝をぼんやり眺めて、言葉だけを投げあっていた。こうして行われる探り合いは、意味があるようでない。この人は相手を追い詰めるためにはぺらぺらと口を開くけれど、いわゆる雑談というのがうんと苦手だ。だからただの雑談を始めようとした私から主導権を奪って問答に切り替えた……というのが、ここしばらく尾形を観察していた私の考察。故に、この問いに対する答えは何だって構わないのだ。まあそう思っているのは私だけかもしれないけど。
「尾形上等兵殿がお察しのとおり、私は馬鹿ですからね。無知無学だと大した目的がなくてもいろいろ知りたくなる」
「誤魔化すな。これで鶴見中尉に情報を流していたとなればかなわん」
「大体目的がわからないのは貴方も同じだよ。鶴見中尉は貴方を野心が強いとか言っていたけど、軍の権力を欲しがる人間にも見えないし。まして金塊が欲しいわけじゃないでしょう。まあ、何をしたいのかわからない殿方に付いて行こうっていうんだから、やっぱり私は馬鹿ですね」
人は一緒にいる人間の言動や癖が移ってしまうものらしい。とうとうと口から皮肉や理詰めまがいの言葉が流れていくのは、この男のそれが移ってしまったせいだろうか。急に掛け合いが止んで、焚火のぱちぱち鳴く音がよく響く。彼が何も言わなくなったのがなんだかおかしくて笑ってしまった。じろりと睨まれたのがわかったので、視界に納めてやろうと顔を上げる。顎の大きな手術痕に、フードの影がちらちら揺れてかかる。引き結んだ口元は言いたいことを飲み込んでいるような、言いたいことなんて何もないような曖昧さがある。ほのかに照らされた瞳は真っ黒で、なんにも映っていなかった。
問答に意味はなかったけれど、目的も不明瞭なまま造反者に付いて行きたがる私をこの男が疑うのは当然だ。実際、縁を切ったと言いながら鶴見中尉に情報を流すのは難しくない。仕事がなくなることはなく病院に勤める限りは命の危険もない従軍看護婦を辞めて、造反者に銃を教わって逃げ回るなんて自分でも愚かだと思う。捻くれたこの人のことだから何を言っても私を信じることなんてないだろうけど、なんだか疑わないでほしくなった。なんにもない黒の瞳を見るたびに苦しくなる、それがどうしてか嫌じゃない。遠すぎて蟻みたいな標的を見事に撃ち殺すのを、叶うなら隣で見ていたい。疲れるし死にかけるし悪態を吐かれるこの逃避行が、不思議と楽しい。そういうことを言いたかったけど、そうしたら尚更距離を置かれる気がした。
「……情報を流すなんてしないよ。どこへ行くにもすぐ傍にいたんだから、そんなことする隙なかったでしょ。これからもそう」
それでもこの問答に意味はないから、今は理詰めまがいで構わない。私は尾形より人と話すのが上手いけれど、仲良くなるのは同じくらい下手だ。悟られないように媚びる私はどれだけ愚かに見えているだろうか。
尾形は見定める様に私を睨んだ。なんにも見る気がないような瞳はそのくせ私の愚かさを見透かしているようでて恥ずかしかった。満足したのかすっと視線を逸らし、いつもの馬鹿にするような笑い方をして、焚火に枝を投げた。
「もう寝ろ」
これ以上は話せない。眠らないとまずいのも確かだし、また雑談を開いても無駄だろう。諦めて横になり、銃を抱きなおす。目を瞑ったとき、一際大きくパキリと音がした。「おやすみ」と言おうとしたら、低い声が先に届いた。
「明日は街に着かないからお前が不寝番だ。具合によるが明後日には着くから宿を取る」
驚いてもう一度瞼を開くと、もう男は外を向いていた。焚火越しの見慣れた外套が蜃気楼に揺れる。
ずっとふたりきりでいるのに、この男が腹の底で何を考えているのかわからない。どの言葉や挙動が彼の機嫌を良くしたのかわからない。ただ、わざわざ無意味な雑談を返してくれたのだから、私は彼の検問を通過できたと考えていいのだろう。
さっきはなんだか眠りが浅くてつい起き上がってしまったけれど、今度は深く眠れそうだ。ほんのり寂しくて悲しかったのがなくなって眠りに落ちる寸前、慌てて「おやすみ」を放り投げたけれど、返事はなかった。この人に「おやすみ」を言うのは私だけのような気がした。