リセット【藤阪つづみさん作】
ある日、言霊使いたちは全員ミルドレッドの住むアパートに集められ、共に夕食をとった。他所の家では落ち着かないだろうというガイの配慮と、たまには弟子と顔を合わせておきたいというミルドレッドの要望故のことだった。部屋は狭く椅子も足りなかったが、アレキサンドライトの弟子と過ごすよりはずっと快適だと、エラはひとり思った。
しかし食事中、ミルドレッドの表情は硬かった。そして、その理由は夕食後すぐに判明した。
食事がすむと、ミルドレッドがいきなりこう切りだした。
「エラ、ニナ、聞いて。依頼が入ったわ」
ミルドレッドはそう言うと、数枚の書類をテーブルに置いた。
「どんな依頼ですか?」
彼女の向かい側に座っていたニナが、興味深そうに身を乗り出した。その隣にいたエラは黙ってミルドレッドの言葉を待った。ミルドレッドはしばらく目を泳がせていたが、ふうっとため息をつくと、なんでもなさそうに告げた。
「『殺し』よ」
その瞬間、すぐ傍のキッチンに立っていたガイ、ベル、ケフィの動きが止まった。エラは、部屋の空気が一瞬にして凍りついたのを感じとった。当然、ミルドレッドも気がついているだろう。だが、ミルドレッドは眉ひとつ動かさずに続けた。
「これはエラ、あなたが行きなさい。念のためにニナも連れていって」
「はい……」
エラは小さく返事をすると、目の前に出された書類を受けとり、アパートの部屋を後にした。
ベルの暴走事件が起こって以降、ミルドレッドがエラたちに殺人依頼を持ってくることはなかった。元々、それほど多いものではないため偶然来なかったのか、ミルドレッドが内々に処理していたのか、実際の所はわからない。
いずれにしても、あれ以降、ミルドレッド邸において人殺し案件の話はタブーとなっていた。
「とうとう来たか」
アレキサンドライト邸に戻ったエラは、与えられた自室でひとり呟いた。目を閉じれば、ベルの怒りに満ちた表情が用意にまぶたの裏に浮かんでくる。あのとき、ベルはエラに対してこう言った。「自分の悪い部分を外側から見た気分だった、エラには幻滅した」と。
おそらく、ミルドレッドは今後ベルにこの手の依頼の話はしないだろう。殺人を嫌悪するケフィについても同様にするに違いない。
代わりに駆り出されるのは自分だ。そして、ベルはきっと、あのゾッとするような蔑みの目で自分を見下すに違いない。もしかすると、ケフィも……
しかし、今の自分はそれに文句を言えるような立場ではない。
ギッとエラは歯を食いしばった。どうして自分だけがこんな目に逢うのか。ただ自分の力を使うだけ、ただ依頼を受けるだけだというのに、なぜこれほどの敗北感を味あわなければならないのだろうか。これまで必死で努力して積み上げてきたものはなんだったのだろうか。
「終わったわね」
「うん。帰ろうか」
翌日、朝早くに屋敷を出たエラとニナは、速やかに仕事を終わらせ、高級車の中で息絶えているターゲットを確認すると、さっと踵を返した。背後では相変わらず付き人や野次馬が大騒ぎをしていたが、今は何も耳には入らなかった。
いつもは騒がしいニナも、今日は人が変わったように押し黙っている。
きっと、考えていることは同じなのだろう。
屋敷に戻ると、他の者は出かけているらしく、いたのはベルひとりだった。ベルはリビングのドアを開けて入ってきたふたりに気がつくと、すっと視線を逸らし、無言でキッチンへと引っ込んだ。気まずさに耐えられなくなったのか、ニナは黙って自室へと戻って行った。エラも後に続こうとしたが、背後からベルが近づいてくる気配を感じ、振り返った。
「お疲れ様です」
ベルは盆にカップと茶葉を乗せていた。自分に茶を振る舞う気だろうか。エラはとっさに顔を背けた。この後に及んで敬語を使っているのも胡散臭い。
「どういうつもり?」
エラはとっさにそう言った。うっかり棘のある言い方になってしまったことを一瞬後悔したが、今更どうしようもない。彼女と言葉を交わすのは、あの事件以降初めてだった。
正直なところ、エラはベルを恐れていた。誤解があったとはいえ、自分は過去に相当なことをベルにしてきた。いつ、どのような形で復讐されてもおかしくはない。だからこそ、今日こんにちに至るまでエラは彼女を避けてきたのだ。
ベルは答えない。答えるかどうかを迷っているらしかった。エラは沈黙に耐えられず、次々にまくしたてた。
「なによ、話すことはないということ? それとも、言葉が全て呪いに変わってしまうほどの罵倒がしたいの?」
言霊を使われても困るが、黙ったままでいられるのはそれ以上に厄介だ。どうしていいかわからない。
すると、ベルは俯いて少し黙り込み、それから、ゆっくりと言葉を絞りだした。
「朝から仕事に出かけていたと聞いたので」
「へえ、どうして。どういう風の吹きまわし?」
なんともなさそうに振舞いつつ、エラは警戒して2、3歩後ずさった。ベルがかなりの切れ者であることは、例の事件で証明されている。なにを企んでいるのかはわからないが、同じ轍を踏むつもりはない。
ベルはすぐには答えず、じっと考えこんでいる。エラは、これ以上このおかしな空気に耐えられる気がしなかった。
「答えないのなら、それはいらないわ」
エラは冷たく言い放ち、部屋から出ていこうとした。すると、ベルは焦ったように叫んだ
「待って! 私はただ、謝りたくて」
「えっ」
予想外の返答に、エラは困惑した。ベルは話をする覚悟を決めたのか、まっすぐにエラを見据えてこう続けた。
「私はずっと、あなたが憎かった。本当のことを言うと、今でもよ。だけど、あれから冷静になって考えてみると、自分にも非があるような気がしたの。あのときは、自分ひとりのことで精一杯だったから、周りが見えていなかった。もっとやり方はあったはずなのに、ずっと一人で、周囲を誤解させてしまっていた」
ベルは小刻みに震えていた。誰よりも高い能力を持っている癖に、今更なにを震えることがあるのだろう。
「私があなたに許してもらうのは難しいし、私があなたを許すのも難しい。でも、同じ場所で修行をしているのだから」
そこで、ベルは言葉を切り、しばらく思案したのちにこう続けた。
「仲間には、なりたいんです。だから、謝らせてほしい。あのときは……ごめんなさい」
エラは混乱した。ここに来て、ベルがそんなことを言いだすなんて、想像もしていなかった。こういうときは、どう答えるのが正解なのだろうか。混乱に混乱を重ねた挙句、エラは咄嗟にこう口走った。
「ミルドレッド様には謝罪したの?」
「はい」
ベルは動揺することもなく、すんなりと答えた。
「そうしたら、ミルドレッド様はなんて?」
「これまでのことは帳消しにしましょう、と仰いました。損害分は働いて返してくれればいい、とも」
「そう……」
エラはずりずりと後ろへ下がりながら考えた。初めてベルに出会ったときのこと。激しく軽蔑されたこと。大会中のこと。彼女に暴力を振るったこと。そして、復讐されたときのこと……
元々、向上心が高く努力家であったエラは、自分にも他人にも厳しかった。そしてこれまで、ベルは有り余る力を持て余して高みの見物をしているものだとばかり思いこんでいた。それが誤解だったと判明したとき、エラは自分というものの存在価値が音を立てて崩れていくのを感じた。
自分は努力家どころか、自己矯正を図るベルをストレスの捌け口にしていただけの、愚か者だったのだ。その事実は一瞬にしてエラの自信と自尊心を奪っていった。それからというもの、エラは以前のように振る舞うことができなくなっていた。
できることなら、リセットしたい。もう一度、初めからやり直したい。過去を消すことはできなくても、今から新しい未来を作れるのなら。
エラは決意した。ベルの言葉が本心である可能性に賭けた。
「ありがとう。ミルドレッド様がそう仰るなら、私もそうするわ。あなたがやったことは、帳消しにする。それと……」
ベルの表情は変わらない。ただ、まっすぐにエラを見つめている。エラは唾を飲みこんだ。どんな言霊を使うときよりも、緊張していた。
「今まで、悪かったわ……ごめんなさい。できるなら、もう一度私ともやり直してほしい」
ベルは目を見開いた。
「本当ですか?」
「私、仲間に嘘はつかないわ」
ふっと、こわばっていたベルの表情が和らいだ。
「ありがとうございます!」
それから、思いだしたように盆を差しだした。
「お茶は召し上がってくださいますよね? 仲直りができたんですから」
エラは気恥ずかしくなった。礼を言うのは自分の方のはずだ。しかし、高い自尊心が邪魔をして、それを言葉にすることはできなかった。代わりに、エラはこう言った。
「いいわよ、それくらい私がやるわ」
「でも」
「いいの。その代わり、お願いがあるんだけれど」
エラは不思議そうな顔をするベルに言った。
「また、古霊や言霊について教えてほしいの」
「ねえ、ベル。これはどう読むの?」
「『カリドゥス』。大地の熱の古霊です。地熱を地上に呼びおこすことができるんです。アクアと同時に呼び起こせば、温泉を作ることもできます」
「温泉なんか作っても……旅館を経営する訳じゃあるまいし。第一それって、フランマでも同じことじゃない?」
「全く同じです。むしろ、フランマよりも扱いにくくて不便なくらいですよ。だから、徐々に使われなくなって今は知る人も少ないです」
「ふーん……じゃ、これは?」
「どれですか?」
その日の夜、アレキサンドライト邸で間借りしている部屋の真ん中で、大量の古書に埋もれているエラとベルをドアの隙間から覗いたニナとケフィは、顔を見合わせた。
「ニナさん、これ、どうなっているんですか」
「わかんない……このふたり、いつからこんなに仲良くなったんだろう」
二人はケフィたちの存在に気づいていないらしかった。ケフィは二人に尋ねてみようとドアを開けたが、ベルの表情がはっきりと見えてきたところで、ふと手を止めた。エラが何かを言い、ベルがこれまでに見たことのない表情で笑っている。
「ウェルヌスと、これは……ブ、ブィルヌス? 何よこれ、ほとんど同じ発音じゃない! どうやって使い分けるのよ」
「ふふっ……い、今の、発音……」
エラの外国語の発音がよほどおかしかったのか、ベルは肩を震わせて口を手で押さえている。エラが怒りの表情で詰めよった。
「よくも笑ったわね、自分が全部使いこなせるからって! 仕方ないじゃない、このウィル……エィルッ……えーっと……えー……」
「あはははははは!」
「ちょっと、せめてもう少し遠慮して笑いなさいよ!」
エラはかなり怒っている様子だったが、そこに以前のような激しい敵意はなかった。どことなく楽しそうな二人の様子に、ケフィはそっとドアを閉め、その場を離れた。ニナが不思議そうに尋ねた。
「あれ、ケフィ。どうして話しかけないの?」
「今は邪魔しちゃいけないと思って。話しかけるのは後にしましょう」
相変わらず首を捻っているニナの背中を押して、ケフィは部屋を後にした。ドアを閉めても、ベルの笑い声は壁を抜けて聞こえてくる。 ケフィは一人振り返り、ほっとしたように微笑んだ。
「楽しそうだなあ、ベルさん……本当によかった」
(終)
しかし食事中、ミルドレッドの表情は硬かった。そして、その理由は夕食後すぐに判明した。
食事がすむと、ミルドレッドがいきなりこう切りだした。
「エラ、ニナ、聞いて。依頼が入ったわ」
ミルドレッドはそう言うと、数枚の書類をテーブルに置いた。
「どんな依頼ですか?」
彼女の向かい側に座っていたニナが、興味深そうに身を乗り出した。その隣にいたエラは黙ってミルドレッドの言葉を待った。ミルドレッドはしばらく目を泳がせていたが、ふうっとため息をつくと、なんでもなさそうに告げた。
「『殺し』よ」
その瞬間、すぐ傍のキッチンに立っていたガイ、ベル、ケフィの動きが止まった。エラは、部屋の空気が一瞬にして凍りついたのを感じとった。当然、ミルドレッドも気がついているだろう。だが、ミルドレッドは眉ひとつ動かさずに続けた。
「これはエラ、あなたが行きなさい。念のためにニナも連れていって」
「はい……」
エラは小さく返事をすると、目の前に出された書類を受けとり、アパートの部屋を後にした。
ベルの暴走事件が起こって以降、ミルドレッドがエラたちに殺人依頼を持ってくることはなかった。元々、それほど多いものではないため偶然来なかったのか、ミルドレッドが内々に処理していたのか、実際の所はわからない。
いずれにしても、あれ以降、ミルドレッド邸において人殺し案件の話はタブーとなっていた。
「とうとう来たか」
アレキサンドライト邸に戻ったエラは、与えられた自室でひとり呟いた。目を閉じれば、ベルの怒りに満ちた表情が用意にまぶたの裏に浮かんでくる。あのとき、ベルはエラに対してこう言った。「自分の悪い部分を外側から見た気分だった、エラには幻滅した」と。
おそらく、ミルドレッドは今後ベルにこの手の依頼の話はしないだろう。殺人を嫌悪するケフィについても同様にするに違いない。
代わりに駆り出されるのは自分だ。そして、ベルはきっと、あのゾッとするような蔑みの目で自分を見下すに違いない。もしかすると、ケフィも……
しかし、今の自分はそれに文句を言えるような立場ではない。
ギッとエラは歯を食いしばった。どうして自分だけがこんな目に逢うのか。ただ自分の力を使うだけ、ただ依頼を受けるだけだというのに、なぜこれほどの敗北感を味あわなければならないのだろうか。これまで必死で努力して積み上げてきたものはなんだったのだろうか。
「終わったわね」
「うん。帰ろうか」
翌日、朝早くに屋敷を出たエラとニナは、速やかに仕事を終わらせ、高級車の中で息絶えているターゲットを確認すると、さっと踵を返した。背後では相変わらず付き人や野次馬が大騒ぎをしていたが、今は何も耳には入らなかった。
いつもは騒がしいニナも、今日は人が変わったように押し黙っている。
きっと、考えていることは同じなのだろう。
屋敷に戻ると、他の者は出かけているらしく、いたのはベルひとりだった。ベルはリビングのドアを開けて入ってきたふたりに気がつくと、すっと視線を逸らし、無言でキッチンへと引っ込んだ。気まずさに耐えられなくなったのか、ニナは黙って自室へと戻って行った。エラも後に続こうとしたが、背後からベルが近づいてくる気配を感じ、振り返った。
「お疲れ様です」
ベルは盆にカップと茶葉を乗せていた。自分に茶を振る舞う気だろうか。エラはとっさに顔を背けた。この後に及んで敬語を使っているのも胡散臭い。
「どういうつもり?」
エラはとっさにそう言った。うっかり棘のある言い方になってしまったことを一瞬後悔したが、今更どうしようもない。彼女と言葉を交わすのは、あの事件以降初めてだった。
正直なところ、エラはベルを恐れていた。誤解があったとはいえ、自分は過去に相当なことをベルにしてきた。いつ、どのような形で復讐されてもおかしくはない。だからこそ、今日こんにちに至るまでエラは彼女を避けてきたのだ。
ベルは答えない。答えるかどうかを迷っているらしかった。エラは沈黙に耐えられず、次々にまくしたてた。
「なによ、話すことはないということ? それとも、言葉が全て呪いに変わってしまうほどの罵倒がしたいの?」
言霊を使われても困るが、黙ったままでいられるのはそれ以上に厄介だ。どうしていいかわからない。
すると、ベルは俯いて少し黙り込み、それから、ゆっくりと言葉を絞りだした。
「朝から仕事に出かけていたと聞いたので」
「へえ、どうして。どういう風の吹きまわし?」
なんともなさそうに振舞いつつ、エラは警戒して2、3歩後ずさった。ベルがかなりの切れ者であることは、例の事件で証明されている。なにを企んでいるのかはわからないが、同じ轍を踏むつもりはない。
ベルはすぐには答えず、じっと考えこんでいる。エラは、これ以上このおかしな空気に耐えられる気がしなかった。
「答えないのなら、それはいらないわ」
エラは冷たく言い放ち、部屋から出ていこうとした。すると、ベルは焦ったように叫んだ
「待って! 私はただ、謝りたくて」
「えっ」
予想外の返答に、エラは困惑した。ベルは話をする覚悟を決めたのか、まっすぐにエラを見据えてこう続けた。
「私はずっと、あなたが憎かった。本当のことを言うと、今でもよ。だけど、あれから冷静になって考えてみると、自分にも非があるような気がしたの。あのときは、自分ひとりのことで精一杯だったから、周りが見えていなかった。もっとやり方はあったはずなのに、ずっと一人で、周囲を誤解させてしまっていた」
ベルは小刻みに震えていた。誰よりも高い能力を持っている癖に、今更なにを震えることがあるのだろう。
「私があなたに許してもらうのは難しいし、私があなたを許すのも難しい。でも、同じ場所で修行をしているのだから」
そこで、ベルは言葉を切り、しばらく思案したのちにこう続けた。
「仲間には、なりたいんです。だから、謝らせてほしい。あのときは……ごめんなさい」
エラは混乱した。ここに来て、ベルがそんなことを言いだすなんて、想像もしていなかった。こういうときは、どう答えるのが正解なのだろうか。混乱に混乱を重ねた挙句、エラは咄嗟にこう口走った。
「ミルドレッド様には謝罪したの?」
「はい」
ベルは動揺することもなく、すんなりと答えた。
「そうしたら、ミルドレッド様はなんて?」
「これまでのことは帳消しにしましょう、と仰いました。損害分は働いて返してくれればいい、とも」
「そう……」
エラはずりずりと後ろへ下がりながら考えた。初めてベルに出会ったときのこと。激しく軽蔑されたこと。大会中のこと。彼女に暴力を振るったこと。そして、復讐されたときのこと……
元々、向上心が高く努力家であったエラは、自分にも他人にも厳しかった。そしてこれまで、ベルは有り余る力を持て余して高みの見物をしているものだとばかり思いこんでいた。それが誤解だったと判明したとき、エラは自分というものの存在価値が音を立てて崩れていくのを感じた。
自分は努力家どころか、自己矯正を図るベルをストレスの捌け口にしていただけの、愚か者だったのだ。その事実は一瞬にしてエラの自信と自尊心を奪っていった。それからというもの、エラは以前のように振る舞うことができなくなっていた。
できることなら、リセットしたい。もう一度、初めからやり直したい。過去を消すことはできなくても、今から新しい未来を作れるのなら。
エラは決意した。ベルの言葉が本心である可能性に賭けた。
「ありがとう。ミルドレッド様がそう仰るなら、私もそうするわ。あなたがやったことは、帳消しにする。それと……」
ベルの表情は変わらない。ただ、まっすぐにエラを見つめている。エラは唾を飲みこんだ。どんな言霊を使うときよりも、緊張していた。
「今まで、悪かったわ……ごめんなさい。できるなら、もう一度私ともやり直してほしい」
ベルは目を見開いた。
「本当ですか?」
「私、仲間に嘘はつかないわ」
ふっと、こわばっていたベルの表情が和らいだ。
「ありがとうございます!」
それから、思いだしたように盆を差しだした。
「お茶は召し上がってくださいますよね? 仲直りができたんですから」
エラは気恥ずかしくなった。礼を言うのは自分の方のはずだ。しかし、高い自尊心が邪魔をして、それを言葉にすることはできなかった。代わりに、エラはこう言った。
「いいわよ、それくらい私がやるわ」
「でも」
「いいの。その代わり、お願いがあるんだけれど」
エラは不思議そうな顔をするベルに言った。
「また、古霊や言霊について教えてほしいの」
「ねえ、ベル。これはどう読むの?」
「『カリドゥス』。大地の熱の古霊です。地熱を地上に呼びおこすことができるんです。アクアと同時に呼び起こせば、温泉を作ることもできます」
「温泉なんか作っても……旅館を経営する訳じゃあるまいし。第一それって、フランマでも同じことじゃない?」
「全く同じです。むしろ、フランマよりも扱いにくくて不便なくらいですよ。だから、徐々に使われなくなって今は知る人も少ないです」
「ふーん……じゃ、これは?」
「どれですか?」
その日の夜、アレキサンドライト邸で間借りしている部屋の真ん中で、大量の古書に埋もれているエラとベルをドアの隙間から覗いたニナとケフィは、顔を見合わせた。
「ニナさん、これ、どうなっているんですか」
「わかんない……このふたり、いつからこんなに仲良くなったんだろう」
二人はケフィたちの存在に気づいていないらしかった。ケフィは二人に尋ねてみようとドアを開けたが、ベルの表情がはっきりと見えてきたところで、ふと手を止めた。エラが何かを言い、ベルがこれまでに見たことのない表情で笑っている。
「ウェルヌスと、これは……ブ、ブィルヌス? 何よこれ、ほとんど同じ発音じゃない! どうやって使い分けるのよ」
「ふふっ……い、今の、発音……」
エラの外国語の発音がよほどおかしかったのか、ベルは肩を震わせて口を手で押さえている。エラが怒りの表情で詰めよった。
「よくも笑ったわね、自分が全部使いこなせるからって! 仕方ないじゃない、このウィル……エィルッ……えーっと……えー……」
「あはははははは!」
「ちょっと、せめてもう少し遠慮して笑いなさいよ!」
エラはかなり怒っている様子だったが、そこに以前のような激しい敵意はなかった。どことなく楽しそうな二人の様子に、ケフィはそっとドアを閉め、その場を離れた。ニナが不思議そうに尋ねた。
「あれ、ケフィ。どうして話しかけないの?」
「今は邪魔しちゃいけないと思って。話しかけるのは後にしましょう」
相変わらず首を捻っているニナの背中を押して、ケフィは部屋を後にした。ドアを閉めても、ベルの笑い声は壁を抜けて聞こえてくる。 ケフィは一人振り返り、ほっとしたように微笑んだ。
「楽しそうだなあ、ベルさん……本当によかった」
(終)