月に恋した女の半生
今夜も円い月が昇っている。月を見上げるたび、思い返せば月の影を追い求めてばかりの人生だったと私は回顧する。
私は東北のど田舎で生まれ育ち、冬は頭の上まで降り積もる雪の中で暮らしていた。子供心に雪は好きだったし、大きな氷柱 を見つけると夢中でその辺の木の棒で叩いて、根元から折れたものが完全な形で手に入ると、誇らしく自慢して歩いたものだ。そんな無邪気な田舎の子供だった私は、ある冬の夜、衝撃的な体験をする。
私はふと目を覚ました。両親と川の字で眠るクイーンサイズのベッドの上で、カーテンの隙間から枕元に強い光が差し込んでいた。
外があんまり明るいので、両親を起こさないよう、そっと窓を開けて夜空を仰ぎ見た。光の出どころはおそらく月なのだろうということは分かったが、肝心の月の姿が見えない。私は身を乗り出して、月の姿を探した。
トタン屋根を縁取る分厚い氷柱のカーテンの向こう側まで身を乗り出して、ほぼ真上の高さに昇った高くて遠い月の姿を見つけた時、私は目を疑った。
そこには真上半分が欠けた月が煌々と輝いていた。
正確には半分よりややぷっくりと膨らんだ十日夜 の月と呼ぶのだろうか。その曖昧な呼び名を知らぬ月の姿があまりに美しくて、私は言葉を無くし息を呑んでしばらく見惚れていた。
その時の月の姿は「月は横が欠けているものだ」という私の常識を覆した。
子供ながらに月について観察し、絵本やテレビで象徴化された月の姿を知っていた私にとって、その姿はあまりに衝撃的過ぎて、鮮烈に網膜に焼き付いた。
私はその瞬間、月に恋をした。
おそらく真の意味で私の初恋はこの瞬間だった。私の初恋の相手はクラスの男子でも父親でも担任の先生でもなく、手の届かない天体であった。
私はピリリと肌を刺す冬の空気すら忘れるほど、しばらく月と無言で語り合った。月は、「雪深い月夜は藍色に染まっているのだ」と教えてくれた。
そう言われて辺りを見渡せば、月明かりを受けて輝く地球の照り返しによって夜空は深い藍色に染まっていて、決して墨を流したような黒ではなかった。
うず高く積もって丸みを帯びた新雪は、月明かりを反射してキラキラと輝いていた。まるでダイヤモンドの研磨屑を敷き詰めたかのような幻想的な輝きを放ち、これが触れれば溶けて消える水の結晶であるとは思えないほどの美しさであった。
そして月は、この世界を夢より鮮烈な藍色のモノトーンたらしめる唯一の光源であり、この世界の支配者として天上から私に「ほらご覧」と教えてくれたのだ。
月に惚れないわけがなかった。
圧倒的過ぎた。
翌日私は小学校の壁新聞に二十四色の色鉛筆で挿絵を描き、この時の感動をあらん限りの語彙を駆使して執筆した。教師陣は絶賛していた。とても誇らしかった。
これが私と月との出会い。
私はこの後の人生のほとんどを月に捧げることになる。
私はやがてアルバイトで稼いだ給料で一眼レフカメラを購入し、月専門の写真家になった。
月齢カレンダーを毎日チェックし、天気予報に一喜一憂しながら、あらゆる月齢の月の姿を撮影した。
新月一日目の月はとりわけ特別なもので、そのか細いわずかな髪の毛のような光はなかなか撮影できなかった。
地球照によって浮かび上がる月の影も愛おしかったし、満月は首が痛むほど飽きるまで追いかけた。
とりわけエキサイティングだったのは皆既月蝕の夜である。
蝕の始まり前から三脚にカメラを固定し、見る見るうちに欠けていく月に刻一刻とシャッタースピードと絞りの設定が変わっていく。そしてすべてが影に隠れた瞬間ぼうっと浮かび上がる紅い月の姿に、私の興奮は絶頂に達するのであった。
そんな月の姿ばかりを追いかけていた私の前に、人間の男性が現れた。
彼は私の月の写真の個展にやってきた、普通の天体好きの男性だった。
夢中で天体の話題を話す私に彼はニコニコと耳を傾け、私以上の知識で天体のすばらしさを語ってくれた。彼の天体の知識は天文学者クラスのレベルの高いもので、私の浅い知識では敵わないほどだった。私は素直に彼に降伏し、彼を尊敬し、私たちは恋人同士になった。
やがて結婚を前提に同棲が決まった時、私は彼に一つだけ我儘を言った。それは、「東と南に窓があって、寝ながら月が見られる部屋がいい」この一点だ。彼も私の月好きは承知していたので、快くその条件を呑んでくれた。私がこの条件を提示した真の理由――それは、復讐だった。
月は、どれほど手を伸ばしても届かない。どれほど恋焦がれても手に入らない。どれほど愛を囁いても応えてくれないし、尽くしたくても尽くしようがなかった。抱かれたくても抱いてくれなければ、口づけも抱擁もしてくれない。こんなに好きで好きでたまらないのに、絶対に振り向いてはくれない。
圧倒的に一方的な片想い。
私は月を愛する一方で、激しく憎悪していた。
いつか、月に復讐する。
月より愛しい男性を見つけて、月に幸せを見せつけて復讐してやる。
私は新居で愛しい恋人に抱かれながら、月を嘲笑った。
憎いでしょう、お月様、あなたのことが大好きだった私が、他の男に抱かれているのは?
私は最高に幸せだわ。あなたと違って、私を見つめてくれる、私に愛を囁いてくれる、私を抱きしめてくれる、私に口づけしてくれる、私を抱いてくれる、最高の男性を、私はやっと手に入れたの。
悔しがるあなたの前で、毎晩毎晩あなたに復讐ができるこの生活は最高の気分だわ。どんな気分?ねえ、今どんな気分?悔しい?惜しいことをした?嫉妬してる?それとも逆にこういうシチュエーションのほうが興奮するのかしら?
私は毎晩彼の腕の中で月を見上げるたび内心勝ち誇っていた。
愛しさのあまり憎くてたまらなかった月に、やっと復讐ができた。私は二倍幸せだった。可笑しくて可笑しくてたまらなかった。
最高の気分だったけれど、でも、気づいてしまったの。
結局私は最後まで月のことしか見ていなかった。月のことしか好きじゃなかった。月のことしか考えられなかった。
私、最後まで月への恋心を諦められない人生だったんだということに、
いま、気づいてしまったの。
END.
私は東北のど田舎で生まれ育ち、冬は頭の上まで降り積もる雪の中で暮らしていた。子供心に雪は好きだったし、大きな
私はふと目を覚ました。両親と川の字で眠るクイーンサイズのベッドの上で、カーテンの隙間から枕元に強い光が差し込んでいた。
外があんまり明るいので、両親を起こさないよう、そっと窓を開けて夜空を仰ぎ見た。光の出どころはおそらく月なのだろうということは分かったが、肝心の月の姿が見えない。私は身を乗り出して、月の姿を探した。
トタン屋根を縁取る分厚い氷柱のカーテンの向こう側まで身を乗り出して、ほぼ真上の高さに昇った高くて遠い月の姿を見つけた時、私は目を疑った。
そこには真上半分が欠けた月が煌々と輝いていた。
正確には半分よりややぷっくりと膨らんだ
その時の月の姿は「月は横が欠けているものだ」という私の常識を覆した。
子供ながらに月について観察し、絵本やテレビで象徴化された月の姿を知っていた私にとって、その姿はあまりに衝撃的過ぎて、鮮烈に網膜に焼き付いた。
私はその瞬間、月に恋をした。
おそらく真の意味で私の初恋はこの瞬間だった。私の初恋の相手はクラスの男子でも父親でも担任の先生でもなく、手の届かない天体であった。
私はピリリと肌を刺す冬の空気すら忘れるほど、しばらく月と無言で語り合った。月は、「雪深い月夜は藍色に染まっているのだ」と教えてくれた。
そう言われて辺りを見渡せば、月明かりを受けて輝く地球の照り返しによって夜空は深い藍色に染まっていて、決して墨を流したような黒ではなかった。
うず高く積もって丸みを帯びた新雪は、月明かりを反射してキラキラと輝いていた。まるでダイヤモンドの研磨屑を敷き詰めたかのような幻想的な輝きを放ち、これが触れれば溶けて消える水の結晶であるとは思えないほどの美しさであった。
そして月は、この世界を夢より鮮烈な藍色のモノトーンたらしめる唯一の光源であり、この世界の支配者として天上から私に「ほらご覧」と教えてくれたのだ。
月に惚れないわけがなかった。
圧倒的過ぎた。
翌日私は小学校の壁新聞に二十四色の色鉛筆で挿絵を描き、この時の感動をあらん限りの語彙を駆使して執筆した。教師陣は絶賛していた。とても誇らしかった。
これが私と月との出会い。
私はこの後の人生のほとんどを月に捧げることになる。
私はやがてアルバイトで稼いだ給料で一眼レフカメラを購入し、月専門の写真家になった。
月齢カレンダーを毎日チェックし、天気予報に一喜一憂しながら、あらゆる月齢の月の姿を撮影した。
新月一日目の月はとりわけ特別なもので、そのか細いわずかな髪の毛のような光はなかなか撮影できなかった。
地球照によって浮かび上がる月の影も愛おしかったし、満月は首が痛むほど飽きるまで追いかけた。
とりわけエキサイティングだったのは皆既月蝕の夜である。
蝕の始まり前から三脚にカメラを固定し、見る見るうちに欠けていく月に刻一刻とシャッタースピードと絞りの設定が変わっていく。そしてすべてが影に隠れた瞬間ぼうっと浮かび上がる紅い月の姿に、私の興奮は絶頂に達するのであった。
そんな月の姿ばかりを追いかけていた私の前に、人間の男性が現れた。
彼は私の月の写真の個展にやってきた、普通の天体好きの男性だった。
夢中で天体の話題を話す私に彼はニコニコと耳を傾け、私以上の知識で天体のすばらしさを語ってくれた。彼の天体の知識は天文学者クラスのレベルの高いもので、私の浅い知識では敵わないほどだった。私は素直に彼に降伏し、彼を尊敬し、私たちは恋人同士になった。
やがて結婚を前提に同棲が決まった時、私は彼に一つだけ我儘を言った。それは、「東と南に窓があって、寝ながら月が見られる部屋がいい」この一点だ。彼も私の月好きは承知していたので、快くその条件を呑んでくれた。私がこの条件を提示した真の理由――それは、復讐だった。
月は、どれほど手を伸ばしても届かない。どれほど恋焦がれても手に入らない。どれほど愛を囁いても応えてくれないし、尽くしたくても尽くしようがなかった。抱かれたくても抱いてくれなければ、口づけも抱擁もしてくれない。こんなに好きで好きでたまらないのに、絶対に振り向いてはくれない。
圧倒的に一方的な片想い。
私は月を愛する一方で、激しく憎悪していた。
いつか、月に復讐する。
月より愛しい男性を見つけて、月に幸せを見せつけて復讐してやる。
私は新居で愛しい恋人に抱かれながら、月を嘲笑った。
憎いでしょう、お月様、あなたのことが大好きだった私が、他の男に抱かれているのは?
私は最高に幸せだわ。あなたと違って、私を見つめてくれる、私に愛を囁いてくれる、私を抱きしめてくれる、私に口づけしてくれる、私を抱いてくれる、最高の男性を、私はやっと手に入れたの。
悔しがるあなたの前で、毎晩毎晩あなたに復讐ができるこの生活は最高の気分だわ。どんな気分?ねえ、今どんな気分?悔しい?惜しいことをした?嫉妬してる?それとも逆にこういうシチュエーションのほうが興奮するのかしら?
私は毎晩彼の腕の中で月を見上げるたび内心勝ち誇っていた。
愛しさのあまり憎くてたまらなかった月に、やっと復讐ができた。私は二倍幸せだった。可笑しくて可笑しくてたまらなかった。
最高の気分だったけれど、でも、気づいてしまったの。
結局私は最後まで月のことしか見ていなかった。月のことしか好きじゃなかった。月のことしか考えられなかった。
私、最後まで月への恋心を諦められない人生だったんだということに、
いま、気づいてしまったの。
END.