SilverAsh*Courier
肩に感じる鋭い熱。しくじった、もう一人いたのか。唇にグッと力を込めるとそのまま身を翻し、後ろから襲ってきた男に一撃をくれてやる。悲鳴もあげらぬまま崩折れるのを確認して、ふうと息をつく。お返しは済んだが、思ったより傷が深い。身を隠すように道路脇の茂みに座り込んだ。もう少しだけ我慢すればいい。そう、あの人が角を曲がるまで——。
「おい、大丈夫か?」
軽く身体を揺すられて目を開けた。不覚にも気を失っていたらしい。声の主にひとまず礼を言おうとして見上げ、そして驚きのあまり動きが止まる。
「——!?」
目の前にいたのはその背中を見送ったはずのシルバーアッシュ卿、その人だった。
どうして。角を曲がればあとは広い一本道。今頃は無事に屋敷へと戻っているはずだった。それなのになぜこの路地へと戻ってきたのか。
困惑と混乱で呆然としたままの僕を他所に、彼は傷の様子を見ている。出血は少ないが止血は必要だな、と呟くと、おもむろに自分の真っ白なシャツを引き裂いた。
街の大人たちは、当主を失ったシルバーアッシュ家は没落したのだとか、もはや家計も火の車なんだとか見下したように噂するけれど、真新しいシャツを何者とも知れぬもののために躊躇なく破くことができるのだからやはり庶民とは違うのだと変なところで感心する。
なぜだか彼を直視することはできなくて、淡々と手当てをするその白い手指を黙って見つめていた。傷口を覆う肌触りの良い包帯代わりの布はじわりと紅く染まっていく。
また、この人に助けられてしまった。
命を救っていただいた恩を返したいと思っていたのにこれでは、意味がない。一人だったら声を上げて泣いてしまいたいくらいだ。
「まさかこんな子供だったとはな」
項垂れていると独り言が降ってくる。
「私を助けてくれたのだろう?」
今度は明確に言葉を向けられたけれど、返事ができなかった。
「そうだ。お前、名前は?」
「……僕は人殺しなのに……。名乗るわけ、ない……です」
もごもごと言い逃れようと試みる。ごまかしたいのは人を殺めたことなどではない。この人に昔吹雪の中助けられたちいさなイトラなのだとは知られたくなかった。せっかく助けた命が他人の命を刈るように育ってしまったと知れば、この心優しいフェリーンはきっとがっかりしてしまうだろう。
「人殺し、か。だが私にとってはお前は命の恩人だ。恩人の名を知りたいと思うのは当然だろう?」
「それ、は、たまたま悪い人がいたから、で。貴方を助けたわけじゃ——」
「違うな」
拙い言い訳はきっぱりと否定される。思わず顔を上げると、彼は微笑みを浮かべていた。
「お前は少なくとも三回は私を助けてくれたはずだ。三度もたまたま悪い人がいた、などと言われても信じ難い」
「……」
気付かれていたのだ。若き家長の彼には当然護衛がいるが、近所への買い物など一人で出かけることもある。そんな隙を狙う者たちを密かに僕が屠っていたことを。
まだ仕事に就くには幼く、十分な教育も受けていない僕にできることは限られていた。アーツにはあまり適性がなく、しかも学ぶには相応の金がかかると聞き、自然と剣を取ることを選んだ。技量はともかく体力には自信がある。剣の扱い方や戦い方は傭兵だった父親に教わった。鍛錬を積み重ね、ついに帯剣を許された日に父は言ってくれた。自分なりのやり方で恩義に報いなさい、と。
僕はこれが今できる唯一の恩返しの方法だと信じていたのだ。
「さあ終わったぞ」
あれから黙りこくってしまった僕に彼は呆れた顔を見せつつも、それ以上追求してくることはなかった。
「ありがとうございます、では——」
失礼します、と立ち去ろうとすると待てと止められる。
「これは応急処置だ。屋敷へ戻って医者を呼ぼう」
なんて大げさな、よくある刀傷だろうに。小首をかしげてシルバーアッシュ卿を見た。彼は自分の裂けたシャツを摘んで、これの説明をしなければならないからなとばつが悪そうに笑った。
「悪いがお前が怪我をしていたところを通りかかった、ということにしてほしい」
「ええっと?」
意味が飲み込めずに素っ頓狂な声を出す。
「本屋すら一人で行けなくなると困るからな」
なるほど。自分が襲われたと知られると自由に行動できなくなるというわけか。何度か襲われかけているのだから常時護衛がついていた方が安全だとは思うけれど、あの黒づくめの連中に囲まれて買い物なんて考えただけでゾッとする。
「なら、僕がお護りしますよ」
自然と出てきた言葉だった。していることは今と変わらないのだから、いい考えだと思ったのに。
「却下だ。護衛なら代々仕えている者がいるからな」
「でも」
食い下がる僕を彼は強い眼差しだけで封じた。少し頭が冷えると、貴族である彼に取り入ろうとしているみたいに思えてきて自分が恥ずかしくなる。
「ごめんなさい。貴方の役に立てたらって……」
消え入るような声で謝罪すると、彼は二度三度瞬きをして不思議そうに僕を見た。
「私の役に立ちたいと?」
「はい」
その気持ちには一滴の嘘も偽りもない。まっすぐにシルバーアッシュ卿を見つめる。彼はしばし考え込んでいたが、やがて表情を緩めた。
「さっきも言った通り、護衛は間に合っている。そうだな、配達人 が一人辞めたからそれならば」
初めて聞く言葉だった。クーリエって何だろう。
多分仕事の種類だろう、わからないけれどやってやれないことはないはずだ。この人にそれが必要だというのなら。
「では貴方のクーリエになりますよ」
それを聞いたシルバーアッシュ卿は吹き出した。そんなにおかしなことを言ったのだろうか。
「私の配達人 、か。良いだろう。ではおいで」
クーリエ、これからお前をそう呼ぼう。
そう言って差し出されたその手を迷いなく僕は取った。
彼は満足げに先導してそのまま歩き出す。これから使用人として仕える身だというのに手を引かれるなどしていいのだろうかとは思ったが、その温もりは手離しがたく屋敷に着くまでならばと自分に言い聞かせたのだった。
こうしてクーリエと呼ばれるようになった僕が、配達人 とは何たるかを知り頭を抱えることになるのはこの半日後のこと——。
「おい、大丈夫か?」
軽く身体を揺すられて目を開けた。不覚にも気を失っていたらしい。声の主にひとまず礼を言おうとして見上げ、そして驚きのあまり動きが止まる。
「——!?」
目の前にいたのはその背中を見送ったはずのシルバーアッシュ卿、その人だった。
どうして。角を曲がればあとは広い一本道。今頃は無事に屋敷へと戻っているはずだった。それなのになぜこの路地へと戻ってきたのか。
困惑と混乱で呆然としたままの僕を他所に、彼は傷の様子を見ている。出血は少ないが止血は必要だな、と呟くと、おもむろに自分の真っ白なシャツを引き裂いた。
街の大人たちは、当主を失ったシルバーアッシュ家は没落したのだとか、もはや家計も火の車なんだとか見下したように噂するけれど、真新しいシャツを何者とも知れぬもののために躊躇なく破くことができるのだからやはり庶民とは違うのだと変なところで感心する。
なぜだか彼を直視することはできなくて、淡々と手当てをするその白い手指を黙って見つめていた。傷口を覆う肌触りの良い包帯代わりの布はじわりと紅く染まっていく。
また、この人に助けられてしまった。
命を救っていただいた恩を返したいと思っていたのにこれでは、意味がない。一人だったら声を上げて泣いてしまいたいくらいだ。
「まさかこんな子供だったとはな」
項垂れていると独り言が降ってくる。
「私を助けてくれたのだろう?」
今度は明確に言葉を向けられたけれど、返事ができなかった。
「そうだ。お前、名前は?」
「……僕は人殺しなのに……。名乗るわけ、ない……です」
もごもごと言い逃れようと試みる。ごまかしたいのは人を殺めたことなどではない。この人に昔吹雪の中助けられたちいさなイトラなのだとは知られたくなかった。せっかく助けた命が他人の命を刈るように育ってしまったと知れば、この心優しいフェリーンはきっとがっかりしてしまうだろう。
「人殺し、か。だが私にとってはお前は命の恩人だ。恩人の名を知りたいと思うのは当然だろう?」
「それ、は、たまたま悪い人がいたから、で。貴方を助けたわけじゃ——」
「違うな」
拙い言い訳はきっぱりと否定される。思わず顔を上げると、彼は微笑みを浮かべていた。
「お前は少なくとも三回は私を助けてくれたはずだ。三度もたまたま悪い人がいた、などと言われても信じ難い」
「……」
気付かれていたのだ。若き家長の彼には当然護衛がいるが、近所への買い物など一人で出かけることもある。そんな隙を狙う者たちを密かに僕が屠っていたことを。
まだ仕事に就くには幼く、十分な教育も受けていない僕にできることは限られていた。アーツにはあまり適性がなく、しかも学ぶには相応の金がかかると聞き、自然と剣を取ることを選んだ。技量はともかく体力には自信がある。剣の扱い方や戦い方は傭兵だった父親に教わった。鍛錬を積み重ね、ついに帯剣を許された日に父は言ってくれた。自分なりのやり方で恩義に報いなさい、と。
僕はこれが今できる唯一の恩返しの方法だと信じていたのだ。
「さあ終わったぞ」
あれから黙りこくってしまった僕に彼は呆れた顔を見せつつも、それ以上追求してくることはなかった。
「ありがとうございます、では——」
失礼します、と立ち去ろうとすると待てと止められる。
「これは応急処置だ。屋敷へ戻って医者を呼ぼう」
なんて大げさな、よくある刀傷だろうに。小首をかしげてシルバーアッシュ卿を見た。彼は自分の裂けたシャツを摘んで、これの説明をしなければならないからなとばつが悪そうに笑った。
「悪いがお前が怪我をしていたところを通りかかった、ということにしてほしい」
「ええっと?」
意味が飲み込めずに素っ頓狂な声を出す。
「本屋すら一人で行けなくなると困るからな」
なるほど。自分が襲われたと知られると自由に行動できなくなるというわけか。何度か襲われかけているのだから常時護衛がついていた方が安全だとは思うけれど、あの黒づくめの連中に囲まれて買い物なんて考えただけでゾッとする。
「なら、僕がお護りしますよ」
自然と出てきた言葉だった。していることは今と変わらないのだから、いい考えだと思ったのに。
「却下だ。護衛なら代々仕えている者がいるからな」
「でも」
食い下がる僕を彼は強い眼差しだけで封じた。少し頭が冷えると、貴族である彼に取り入ろうとしているみたいに思えてきて自分が恥ずかしくなる。
「ごめんなさい。貴方の役に立てたらって……」
消え入るような声で謝罪すると、彼は二度三度瞬きをして不思議そうに僕を見た。
「私の役に立ちたいと?」
「はい」
その気持ちには一滴の嘘も偽りもない。まっすぐにシルバーアッシュ卿を見つめる。彼はしばし考え込んでいたが、やがて表情を緩めた。
「さっきも言った通り、護衛は間に合っている。そうだな、
初めて聞く言葉だった。クーリエって何だろう。
多分仕事の種類だろう、わからないけれどやってやれないことはないはずだ。この人にそれが必要だというのなら。
「では貴方のクーリエになりますよ」
それを聞いたシルバーアッシュ卿は吹き出した。そんなにおかしなことを言ったのだろうか。
「私の
クーリエ、これからお前をそう呼ぼう。
そう言って差し出されたその手を迷いなく僕は取った。
彼は満足げに先導してそのまま歩き出す。これから使用人として仕える身だというのに手を引かれるなどしていいのだろうかとは思ったが、その温もりは手離しがたく屋敷に着くまでならばと自分に言い聞かせたのだった。
こうしてクーリエと呼ばれるようになった僕が、
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