本編
何だお前は、のらくろみたいな顔になりおって!
玄田の遠慮ない一言に、郁は思わず「の、のらくろ~~!?」と絶叫した。
そのやりとりのせいで、事務所内は笑いに包まれる。
見事な大爆笑のせいで、郁がこっそりとため息をついたことには誰も気付かなかった。
昨日、検閲対象の「新世相」を図書館に搬入した図書特殊部隊。
良化隊は図書館前で本を狩ろうと待ちかまえている。
郁の役目は戦闘には加わらず、本を持って館内に駆け込むことだ。
良化隊員たちの追撃を躱した郁は、何とか本を届けることに成功。
だが勢い余って、自動ドアをぶち破ってしまった。
その結果、左目は昔の漫画の主人公の犬のように腫れてしまったのである。
班長には、散々説教された。
副班長は、腹を抱えて、床に沈んだ。
同期には、呆れられた。
だけど誰もそれ以上、深く考えなかった。
郁があのとき、どうしてまともに自動ドアに突っ込む羽目になったのか。
図書館のエントランスドアは、さまざまな利用者に対応するように調整されている。
中には勢いよく走って来る子供だっている。
だから事故防止のために、反応速度は早め、感知するセンサーもその範囲を広めに設定しているのだ。
普通に走り込んでいれば、開きかけのドアにぶつかることはあっても、正面からぶち破るようなことにはならない。
つまり郁は人ならざる能力を使ったせいで、自動ドアが反応できなかったのだ。
人ならざる能力。
郁自身がそれに気付いたのは、小学生の頃だった。
3人の兄たちと近所の山の中でおいかけっこをしていたときだ。
郁はどんなに頑張って走っても、兄たちに追いつけない。
だがそれは仕方のないことだった。
どうしたって年齢の差が、そのまま体力の差になってしまう時期なのだ。
だが負けず嫌いの幼い郁は、到底納得できない。
絶対に追いつく!とムキになって走った時に、それは起きた。
ほんの一瞬、時間にすればほぼ1秒。
郁の周りの時間が止まったのだ。
今でもその瞬間のことははっきりと覚えている。
風にそよいでいた木々の葉や、1歩前を走っていた兄たちの足や髪、郁が走った拍子に蹴り上げてしまった小石。
それらのものがピタリと止まったのだ。
初めてのときは何が何だかわからないまま終わり、郁はすぐに忘れた。
だが思い出したように、それは起こるようになった。
例えば小学校の運動会、郁がクラス代表でリレーの選手になった時。
または中学の陸上部で、大会に出場した時。
どうやら誰よりも早く走りたいと強く念じた時に、1秒だけ時間が止まるらしい。
思春期の郁は、この能力を持て余し、悩んでいた。
時間を自由に操れるというなら、もっといろいろなことができるだろう。
自分のために楽しいことを、または世のため人のためになることを。
だが発動のタイミングは制御できないし、時間は1秒だ。
何という中途半端な能力。
だが陸上の短距離選手としては、この上ない能力だ。
何もしなくてもそこそこ早い郁にとって、この1秒はデカい。
だがそうなると別の悩みが湧いてくる。
これはインチキではないのか?
みんな真面目に努力しているのに、郁だけが魔法の1秒を持っているのはずるいんじゃないか?
だが高校になると、事態は一変する。
郁が進んだ高校は陸上の名門で、部員同士の中でもライバル意識が強いのだ。
しかも単に上下関係が厳しいだけではない。
自分よりも優秀な新入生が入って来ると、徹底的に叩く。
何しろ陸上は個人の能力がはっきりと数字に出てきてしまう競技なのだ。
そこに難癖はつけにくいから、排除しようという方向になる。
上等だ。絶対に負けない!
郁が決意した途端、この能力は頻繁に発動した。
そして逆に郁に難癖をつけてきた短距離の先輩を撃破した頃には、自力で能力を出せるようになっていた。
勢いに乗って、大学も陸上の名門校に進学する。
だが大学では自分から能力を使うことは、ほとんどなかった。
それでもインカレなどの大きなレースで集中すると、勝手に飛び出してしまったりする。
そのため大学時代の競技会の表彰式の写真の郁は、いつも憮然とした顔をしていた。
その後、企業からの誘いはあったが、すべてことわった。
すでに図書隊に入ることに決めていたからだ。
こんな微妙な能力だが、速く走るためには役に立つ。
だけどこれを自分のためには使わない。
図書隊員として、本を守るために使うと心に決めた。
かくして晴れて図書隊に入隊し、図書特殊部隊に配属になった。
上官たちも郁の能力は足であることを理解してくれていて、それを生かした使い方をしてくれる。
大学の時と打って変わって、郁はこの能力を頻繁に使うようになった。
大事な場面で効果的に使えるように、人知れず磨いておかなければならない。
上官たちは目敏いが、さすがに郁がこんな能力を持っていることはバレていないようだ。
そして昨日の図書搬入の時、良化隊員の中で1人、かなり足が速い男がいた。
あと数歩で図書館内に駆け込めるというところで、その男の指が郁の戦闘服のベルトにかかった。
これはまずいと能力を発動させた途端、自動ドアに突っ込んだのだ。
そして今、能力の代償と言わんばかりに、郁の左目にはのらくろ印が刻まれている。
それにしても昨日の良化隊員、本当に早かった。
郁は特殊部隊の隊員たちの爆笑の影で、こっそりとため息をつきながらそう思った。
他の隊員たちが多くの良化隊員を足止めしてくれている間に、裏をかくようにダッシュできたと思ったのだ。
まさか服を掴まれるところまで追い込まれるとは思わなかった。
それならばもっとあの力を磨かなければ。
郁は秘かにそんなことを思いながら、未だに「のらくろ」と茶化す先輩隊員にあっかんべーと舌を出した。
玄田の遠慮ない一言に、郁は思わず「の、のらくろ~~!?」と絶叫した。
そのやりとりのせいで、事務所内は笑いに包まれる。
見事な大爆笑のせいで、郁がこっそりとため息をついたことには誰も気付かなかった。
昨日、検閲対象の「新世相」を図書館に搬入した図書特殊部隊。
良化隊は図書館前で本を狩ろうと待ちかまえている。
郁の役目は戦闘には加わらず、本を持って館内に駆け込むことだ。
良化隊員たちの追撃を躱した郁は、何とか本を届けることに成功。
だが勢い余って、自動ドアをぶち破ってしまった。
その結果、左目は昔の漫画の主人公の犬のように腫れてしまったのである。
班長には、散々説教された。
副班長は、腹を抱えて、床に沈んだ。
同期には、呆れられた。
だけど誰もそれ以上、深く考えなかった。
郁があのとき、どうしてまともに自動ドアに突っ込む羽目になったのか。
図書館のエントランスドアは、さまざまな利用者に対応するように調整されている。
中には勢いよく走って来る子供だっている。
だから事故防止のために、反応速度は早め、感知するセンサーもその範囲を広めに設定しているのだ。
普通に走り込んでいれば、開きかけのドアにぶつかることはあっても、正面からぶち破るようなことにはならない。
つまり郁は人ならざる能力を使ったせいで、自動ドアが反応できなかったのだ。
人ならざる能力。
郁自身がそれに気付いたのは、小学生の頃だった。
3人の兄たちと近所の山の中でおいかけっこをしていたときだ。
郁はどんなに頑張って走っても、兄たちに追いつけない。
だがそれは仕方のないことだった。
どうしたって年齢の差が、そのまま体力の差になってしまう時期なのだ。
だが負けず嫌いの幼い郁は、到底納得できない。
絶対に追いつく!とムキになって走った時に、それは起きた。
ほんの一瞬、時間にすればほぼ1秒。
郁の周りの時間が止まったのだ。
今でもその瞬間のことははっきりと覚えている。
風にそよいでいた木々の葉や、1歩前を走っていた兄たちの足や髪、郁が走った拍子に蹴り上げてしまった小石。
それらのものがピタリと止まったのだ。
初めてのときは何が何だかわからないまま終わり、郁はすぐに忘れた。
だが思い出したように、それは起こるようになった。
例えば小学校の運動会、郁がクラス代表でリレーの選手になった時。
または中学の陸上部で、大会に出場した時。
どうやら誰よりも早く走りたいと強く念じた時に、1秒だけ時間が止まるらしい。
思春期の郁は、この能力を持て余し、悩んでいた。
時間を自由に操れるというなら、もっといろいろなことができるだろう。
自分のために楽しいことを、または世のため人のためになることを。
だが発動のタイミングは制御できないし、時間は1秒だ。
何という中途半端な能力。
だが陸上の短距離選手としては、この上ない能力だ。
何もしなくてもそこそこ早い郁にとって、この1秒はデカい。
だがそうなると別の悩みが湧いてくる。
これはインチキではないのか?
みんな真面目に努力しているのに、郁だけが魔法の1秒を持っているのはずるいんじゃないか?
だが高校になると、事態は一変する。
郁が進んだ高校は陸上の名門で、部員同士の中でもライバル意識が強いのだ。
しかも単に上下関係が厳しいだけではない。
自分よりも優秀な新入生が入って来ると、徹底的に叩く。
何しろ陸上は個人の能力がはっきりと数字に出てきてしまう競技なのだ。
そこに難癖はつけにくいから、排除しようという方向になる。
上等だ。絶対に負けない!
郁が決意した途端、この能力は頻繁に発動した。
そして逆に郁に難癖をつけてきた短距離の先輩を撃破した頃には、自力で能力を出せるようになっていた。
勢いに乗って、大学も陸上の名門校に進学する。
だが大学では自分から能力を使うことは、ほとんどなかった。
それでもインカレなどの大きなレースで集中すると、勝手に飛び出してしまったりする。
そのため大学時代の競技会の表彰式の写真の郁は、いつも憮然とした顔をしていた。
その後、企業からの誘いはあったが、すべてことわった。
すでに図書隊に入ることに決めていたからだ。
こんな微妙な能力だが、速く走るためには役に立つ。
だけどこれを自分のためには使わない。
図書隊員として、本を守るために使うと心に決めた。
かくして晴れて図書隊に入隊し、図書特殊部隊に配属になった。
上官たちも郁の能力は足であることを理解してくれていて、それを生かした使い方をしてくれる。
大学の時と打って変わって、郁はこの能力を頻繁に使うようになった。
大事な場面で効果的に使えるように、人知れず磨いておかなければならない。
上官たちは目敏いが、さすがに郁がこんな能力を持っていることはバレていないようだ。
そして昨日の図書搬入の時、良化隊員の中で1人、かなり足が速い男がいた。
あと数歩で図書館内に駆け込めるというところで、その男の指が郁の戦闘服のベルトにかかった。
これはまずいと能力を発動させた途端、自動ドアに突っ込んだのだ。
そして今、能力の代償と言わんばかりに、郁の左目にはのらくろ印が刻まれている。
それにしても昨日の良化隊員、本当に早かった。
郁は特殊部隊の隊員たちの爆笑の影で、こっそりとため息をつきながらそう思った。
他の隊員たちが多くの良化隊員を足止めしてくれている間に、裏をかくようにダッシュできたと思ったのだ。
まさか服を掴まれるところまで追い込まれるとは思わなかった。
それならばもっとあの力を磨かなければ。
郁は秘かにそんなことを思いながら、未だに「のらくろ」と茶化す先輩隊員にあっかんべーと舌を出した。
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