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本編

もう諦めて、陸上を続けたらどうだ?
目の前の男が、つくづく呆れたと言わんばかりの様子でそう言った。
だが郁は首を振って「申し訳ありません」と頭を下げたのだった。

平成30年。
大学4年生の笠原郁は、就職活動中だった。
同期のほとんどはもう就職先を決めていた。
あとは卒業を待つばかりとゆったり過ごす友人を横目に、郁はリクルートスーツで走り回っている。
郁だけが決まらない理由は、本人も周囲の人間もわかっている。
あまり成績がよくない上、業種を絞っているからだ。
もっと手当たり次第に受ければ、1つくらいはひっかかるよ。
就職課の職員も、友人たちもそう忠告してくれる。
だが郁は「やりたい仕事に就きたいから」と言い張り、聞き入れなかった。

笠原、まだ決まらないんだって。
やっぱり陸上に進んだ方がいいんじゃないのか?
郁の顔を見るたびにそんなことを言うのは、所属している陸上部のコーチだった。
郁は陸上短距離では、全国トップクラスのタイムを叩きだすアスリートでもある。
だから企業からの誘いはいくつもあるし、コーチもそちらに進ませたいのだろう。

陸上はもうしません。
どうしてもやりたいことがあるので、就職できなければバイトします。
郁がニッコリ笑ってそう答えると、コーチの表情が強張った。

就職が決まらないのは、お前が陸上をやるのが運命だからだ。
もう諦めて、陸上を続けたらどうだ?
コーチはつくづく呆れたと言わんばかりの様子で、そう言った。
だが郁は首を振って「申し訳ありません」と頭を下げる。
そして心の中だけで、あたしの運命は陸上じゃないんだものと呟いた。

本を守る仕事につく。
それが郁の目標であり、子供の頃からの夢だった。
だがそれを人に話すことはしない。
家族や親しい友人に話したことはあるが「どういう意味?」と聞き返されれば答えられないからだ。
この世界ではたくさんの本が書店に並び、またはネットでも買えるし、電子書籍なんてものもある。
言論の自由を保障されている今、出版も自由であり、本を何かから守る必要なんてないのだ。

でも郁はたびたび夢を見るのだ。
コンスタントに2、3ヶ月に1度、だが時折3日間連続でなんてこともある。
夢の中で郁は戦闘服を着て、銃を持っていた。
そして奪われようとする本を守って、走り、格闘し、銃を撃つ。
郁の隣にはいつも同じ男がいて、一緒に戦っていた。

でもなんで、本を守ってるんだろう。
本のために戦争みたいなことをしているなんて、どういうことになっているのか。
もしかして前世の記憶みたいなものなのかと思って、調べたりもした。
だがどの時代か絞り込むことさえ、できなかった。
断片的なシーンしか見えないが、日本のことだと思うのだ。
それに戦闘服に大きな銃ということは、太古の昔というわけでもない。
だが明治、大正、昭和、平成、どの時代を見回しても、歴史上本をめぐって戦った事実なんてないようだ。

平成31年。
郁は結局就職が決まらず、アルバイトをすることになった。
場所は新宿、東口の駅前にある大きな書店だ。
いずれは正社員になれればいいと、頭の隅でそう思う。
だがそれ以前に、本に関わる仕事に就けてホッとした。
とにかく本を守る仕事に就きたい。
その欲求は年々強くなり、今や強迫観念に変わっていたのだ。

笠原さん、これバックヤードに運んでくれる?
先輩の書店員に声をかけられた郁は「はい!」と答えて、示されたダンボール箱を持ちあげた。
就職してわかったことは、本屋というのは力仕事だということだ。
本は意外と重い。
それを運んで、並べて、時に場所を入れ替えたり、売れないものを引っ込めたりする。
先輩社員の中で、腰を痛めている者が多いのも道理だと思う。

郁はダンボール箱を、バックヤードに運び込んだ。
すると先にそこにいた男が「ああ、これはこっちに」と郁に指示を出す。
はいと答えて、その男を見た郁の手から、するりとダンボール箱が落ちた。
郁はその男に見覚えがあった。夢の中にいつも出てくる男だ。
そして唐突に目の前に、1つの場面がフラッシュバックした。
この男がここのバックヤードの壁にもたれて、血を流しながらぐったりしていた。

ようやく来たか。
男は郁を見て、笑顔になった。
そして唐突に「俺と結婚してくれ」と言ったのだ。

はい。あたしでよければ。
郁もニッコリ笑って、そう答えた。
細かいところはよくわからないけど、心の奥の深い部分で理解できる。
郁は、この男と出逢うためにここに来たのだ。
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