本編
今まで、ありがとうございました!
郁は勢いよく頭を下げた後、敬礼をした。
その顔は晴れやかだったが、対照的に事務所に集うガタイのいい男たちは泣きそうな顔をしていた。
正化38年、4月1日。
笠原郁は図書特殊部隊を離れ、異動することになった。
異動先は業務部。
武蔵野第一図書館勤務であるから、通勤の手間は変わらない。
閲覧室業務などは特殊部隊でも月に1週間くらいはやっていた。
だから郁にしてみれば、あまり異動するという感じはなかった。
この異動は、郁から志願したものだった。
理由を一言で言うなら、体力の限界。
30歳になった郁の体力は、ピークを過ぎている。
100メートルのタイムも落ち始めているし、その他の体力データも下降していた。
折しも検閲抗争時の火気使用規制法案が成立したばかり。
肉弾戦になれば、ただでさえ女であり腕力では劣る郁の最前線での出番はなくなる。
もう自分の出番は終わったんだ。
郁はそれを悟った。
そこには怒りも悲しみもない。
覚悟はとっくにできていたからだ。
少しずつ体力が落ちていることは、自分でも感じていた。
いつか最前線から退く日が来ることも、女の自分はおそらく他の隊員よりも早いことも。
そしてそうなった時、特殊部隊に郁の居場所はない。
瞬発力と反射神経、そしてスピードが郁の武器だ。
それがなくなった郁には、特殊部隊どころか防衛員としても価値がないのだ。
郁は当初、どこかの地方の図書館に行きたいと思い、転属願を出すときにもそう伝えた。
業務部員としての自分は全然ダメだと思っていたからだ。
だったら小さな図書館で地元の人と触れ合いながら、のんびりと仕事ができればいい。
自分の性にも合っている。
だがその願いは届かず、配属先は武蔵野第一図書館だ。
がっかりはしたものの、かなり楽だったのは事実だ。
寮にはそのままい続けられるから、引っ越しの必要はない。
柴崎は手塚と結婚して官舎に引っ越しており、今は気楽に1人部屋。
快適な暮らしが継続できるのは、ありがたい。
机の移動も私物をダンボールに詰めて、徒歩数分で完了だ。
だからこの異動も悪くないと、思い直せた。
そしてついに異動日当日、郁はまず古巣である特殊部隊の事務室に出勤した。
かなり早く出勤したつもりだったが、堂上も小牧も手塚ももう来ていた。
楽しかった堂上班とも、今日でお別れだ。
郁は挨拶の後、笑顔で「コーヒーを淹れますね」と告げた。
特殊部隊で最後のコーヒーを淹れて、堂上班のみんなで味わう。
悪くないラストだ。
どうぞ。堂上教官。
郁はまずは班長である堂上の前に、カップを置く。
次に副班長の小牧、そして手塚、最後に自分に。
いつもはミルクと砂糖を入れるけど、今日だけはみんなと同じブラックで飲むことにした。
堂上たちも感慨深い表情で、最後の郁のコーヒーを味わってくれている。
いろいろあったけど、楽しかったです。
郁は誰にともなくそう告げると、チラリと堂上を見た。
そして改めて、この人が好きだと思う。
入隊した時には「チビでクソ教官」だったのに、いつの間にか尊敬できる上官になった。
そして今は、恋をしている。
学生時代の片想いなんて目じゃない、生まれて初めての本気の恋だ。
何度も気持ちがこぼれそうになった。
例えば2人でカミツレのお茶を飲んだ時。
あの日はお茶の後、映画を見る流れになっていた。
郁はその後、告白するつもりだったけど、当麻蔵人の事件が起きて、それどころではなくなった。
最高裁判決のあの嵐の日、堂上が撃たれたとき。
書店のバックヤードでぐったりとしている堂上に、顔を寄せた。
衝動的に、キスをしようとしたのだ。
だが唇が重なる前に、堂上は意識を失っていた。
そんな風に、堂上とはことごとくこんな感じだった。
それから何度もいい雰囲気になったが、告白することもされることもなかった。
最初はタイミングが悪いのだと思ったが、今は違う。
きっと堂上と郁は、結ばれる運命ではなかったのだ。
昨年、手塚と柴崎は結婚したし、先月小牧と大学を卒業したばかりの毬江も結婚した。
堂上もそう遠からず、結婚するだろう。
きっと郁よりも小さくて、可愛くて、女らしい女性と。
郁がコーヒーを飲み終わった頃には、特殊部隊の面々はほぼ全員が揃っていた。
夜勤明けの者もまだ帰宅せず、非番の者もいる。
全員が郁がこの特殊部隊事務室に出勤する最後の日を見届けに来てくれたのだ。
ああ、幸せだ。
あたしはみんなに支えられて、ここまで来られた。
やがて始業時間になり、隊長室から玄田と緒形が出てきた。
緒形の口から改めて、郁の異動が告げられる。
そして玄田は「今までよく頑張った!」と郁の頭をぐしゃぐしゃとなでた。
今まで、ありがとうございました!
郁は勢いよく頭を下げた後、敬礼をした。
その顔は晴れやかだったが、対照的に事務所に集うガタイのいい男たちは泣きそうな顔をしていた。
郁は勢いよく頭を下げた後、敬礼をした。
その顔は晴れやかだったが、対照的に事務所に集うガタイのいい男たちは泣きそうな顔をしていた。
正化38年、4月1日。
笠原郁は図書特殊部隊を離れ、異動することになった。
異動先は業務部。
武蔵野第一図書館勤務であるから、通勤の手間は変わらない。
閲覧室業務などは特殊部隊でも月に1週間くらいはやっていた。
だから郁にしてみれば、あまり異動するという感じはなかった。
この異動は、郁から志願したものだった。
理由を一言で言うなら、体力の限界。
30歳になった郁の体力は、ピークを過ぎている。
100メートルのタイムも落ち始めているし、その他の体力データも下降していた。
折しも検閲抗争時の火気使用規制法案が成立したばかり。
肉弾戦になれば、ただでさえ女であり腕力では劣る郁の最前線での出番はなくなる。
もう自分の出番は終わったんだ。
郁はそれを悟った。
そこには怒りも悲しみもない。
覚悟はとっくにできていたからだ。
少しずつ体力が落ちていることは、自分でも感じていた。
いつか最前線から退く日が来ることも、女の自分はおそらく他の隊員よりも早いことも。
そしてそうなった時、特殊部隊に郁の居場所はない。
瞬発力と反射神経、そしてスピードが郁の武器だ。
それがなくなった郁には、特殊部隊どころか防衛員としても価値がないのだ。
郁は当初、どこかの地方の図書館に行きたいと思い、転属願を出すときにもそう伝えた。
業務部員としての自分は全然ダメだと思っていたからだ。
だったら小さな図書館で地元の人と触れ合いながら、のんびりと仕事ができればいい。
自分の性にも合っている。
だがその願いは届かず、配属先は武蔵野第一図書館だ。
がっかりはしたものの、かなり楽だったのは事実だ。
寮にはそのままい続けられるから、引っ越しの必要はない。
柴崎は手塚と結婚して官舎に引っ越しており、今は気楽に1人部屋。
快適な暮らしが継続できるのは、ありがたい。
机の移動も私物をダンボールに詰めて、徒歩数分で完了だ。
だからこの異動も悪くないと、思い直せた。
そしてついに異動日当日、郁はまず古巣である特殊部隊の事務室に出勤した。
かなり早く出勤したつもりだったが、堂上も小牧も手塚ももう来ていた。
楽しかった堂上班とも、今日でお別れだ。
郁は挨拶の後、笑顔で「コーヒーを淹れますね」と告げた。
特殊部隊で最後のコーヒーを淹れて、堂上班のみんなで味わう。
悪くないラストだ。
どうぞ。堂上教官。
郁はまずは班長である堂上の前に、カップを置く。
次に副班長の小牧、そして手塚、最後に自分に。
いつもはミルクと砂糖を入れるけど、今日だけはみんなと同じブラックで飲むことにした。
堂上たちも感慨深い表情で、最後の郁のコーヒーを味わってくれている。
いろいろあったけど、楽しかったです。
郁は誰にともなくそう告げると、チラリと堂上を見た。
そして改めて、この人が好きだと思う。
入隊した時には「チビでクソ教官」だったのに、いつの間にか尊敬できる上官になった。
そして今は、恋をしている。
学生時代の片想いなんて目じゃない、生まれて初めての本気の恋だ。
何度も気持ちがこぼれそうになった。
例えば2人でカミツレのお茶を飲んだ時。
あの日はお茶の後、映画を見る流れになっていた。
郁はその後、告白するつもりだったけど、当麻蔵人の事件が起きて、それどころではなくなった。
最高裁判決のあの嵐の日、堂上が撃たれたとき。
書店のバックヤードでぐったりとしている堂上に、顔を寄せた。
衝動的に、キスをしようとしたのだ。
だが唇が重なる前に、堂上は意識を失っていた。
そんな風に、堂上とはことごとくこんな感じだった。
それから何度もいい雰囲気になったが、告白することもされることもなかった。
最初はタイミングが悪いのだと思ったが、今は違う。
きっと堂上と郁は、結ばれる運命ではなかったのだ。
昨年、手塚と柴崎は結婚したし、先月小牧と大学を卒業したばかりの毬江も結婚した。
堂上もそう遠からず、結婚するだろう。
きっと郁よりも小さくて、可愛くて、女らしい女性と。
郁がコーヒーを飲み終わった頃には、特殊部隊の面々はほぼ全員が揃っていた。
夜勤明けの者もまだ帰宅せず、非番の者もいる。
全員が郁がこの特殊部隊事務室に出勤する最後の日を見届けに来てくれたのだ。
ああ、幸せだ。
あたしはみんなに支えられて、ここまで来られた。
やがて始業時間になり、隊長室から玄田と緒形が出てきた。
緒形の口から改めて、郁の異動が告げられる。
そして玄田は「今までよく頑張った!」と郁の頭をぐしゃぐしゃとなでた。
今まで、ありがとうございました!
郁は勢いよく頭を下げた後、敬礼をした。
その顔は晴れやかだったが、対照的に事務所に集うガタイのいい男たちは泣きそうな顔をしていた。
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