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シトリン

「篤さん、絶対に無事でいて」
郁は生活感のない殺風景な部屋の中で、ひとりポツリと呟いた。
短い期間しかいないから、必要最低限の物しかない。
それでもここが、今の郁の居場所だ。

関西図書基地の官舎の一室に、郁はいた。
未だに銃で撃たれた傷は、ズキズキと痛む。
本来ならば、まだまだ入院が必要な重傷だ。
だが狙われている身であり、迂闊にそこらの病院にかかるのは危険だ。
だから官舎の空室を急遽病室代わりにして、療養していた。

郁としては、病院にいるよりもありがたいことだった。
普通の人たちが生活している空間にいることで、元気でいられる気がする。
何より図書館が同じ敷地内にあるので、いつでも本が借りに行ける。
図書館員たちは絶対安静と言われている郁が図書館に行くとギョッとするが、そんなことは気にならない。
基地に勤務している医師に定期的に診察してもらっているし、まぁまぁ充実した療養生活だ。

もうすぐ東京では、犯人をおびき寄せる大作戦が始まる。
郁は明日、東京に戻ると、安達を通じて、犯人側に偽情報が流されたと聞いている。
そして特殊部隊は明日から、臨戦態勢になる。
犯人たちは郁を狙いながら、図書館を蹂躙しようとするだろう。
それに参加できないことだけが、郁の心残りだった。

郁はちょうど読み終わった本を、パタリと閉じた。
午前中に夢中になって読んでいるうちに、外はもう夕方だ。
食事をとることさえ忘れて、読みふけっていた。
そもそもケガのせいでまだ少し微熱があるので、食欲はない。
だがちゃっと食べなければ、東京に戻った時に痩せてやつれていたら、最愛の夫が心配する。

「篤さん、絶対に無事でいて」
郁はまた同じひとりごとを繰り返した。
銃を持って押し入って来るであろう敵に、電動ガンのゴム弾で応戦する。
玄田の作戦だから大丈夫だとは思うが、やはり不安だ。
食事に出るついでに本を返して、また別の本を借りよう。
何かで気をまぎわらしていないと、叫び出しそうだ。

そのとき、郁のスマートフォンが鳴った。
篤さんかな。それとも柴崎?
郁は軽い気持ちで、スマホの画面を見て「え?」と声を上げる。
表示された電話の発信者の名は「手塚慧」。
手塚の兄であり、郁とは因縁の相手であり、番号こそ登録しているが電話やメールのやり取りなんかしたことがない。
そんな相手がなぜと思いながら、郁は通話ボタンを押した。

「もしもし」
『笠原さん、いや堂上三正。君に大事な話がある。』
もしかして間違い電話かと思ったが、相手ははっきりと郁の名を呼んだ。
しかも通称の「笠原」から、わざわざ公式の「堂上三正」と言い直して。
前置きもない切迫した雰囲気に、郁は思わず身構えた。

「堂上です。もしかして明日のことですか?」
郁はじわじわと身体の中からせり上がるような不吉な予感に耐えながら、声が震えないように用心した。
手塚慧が『察しがよくて助かる』と始まり、告げられた事実に、郁は戦わなければならないことを覚悟したのだった。
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