クスリで10題
【エスタロンモカ】
「どうして、お前が!?」
まさかの再会に、伊月は激しく動揺した。
突然組織から放逐された伊月は、安いビジネスホテルにいた。
あの薄汚れた狭いアパート以外の場所で眠るのは、何年振りだろう。
持ち出した荷物は、携帯電話と財布だけだ。
それ以外のものはすべて置いてきた。
両親と姉妹とも連絡が取れた。
黛が現在の連絡先を教えてくれたので、電話をかけたのだ。
特に姉と妹は性的な仕事をさせられていないかと心配したが、それは杞憂だった。
フロント企業の事務、違法とはいえ一応は会社員だ。
本来ならば借金のカタに連行された女は、性を売る仕事に回されてしまうのに。
おそらくは黒子が、エンペラーこと赤司に口添えしてくれたのだろう。
これからどうしたらいいんだろう。
伊月は自由の身になったものの、これからどう生きていけばいいのかわからない。
結局どこかに就職しなければいけないのだが、そんな自分がイメージできなかった。
何しろいろいろと法に触れることをしまくっている。
今さら明るい道に戻って、何事もなかったように生きる自信がないのだ。
ドアチャイムが鳴らされて、物思いに沈んでいた伊月は我に返った。
すぐに立ち上がると、ドアに向かう。
そして魚眼レンズから外をのぞいた伊月は驚き、一瞬迷う。
だが次の瞬間には、思い切りドアを開けていた。
「どうして、お前が!?」
まさかの再会に、伊月は激しく動揺した。
そこにいたのは、木吉鉄平。
かつてのチームメイトで、恋敵で、今は警察官と犯罪者という間柄だ。
「連絡をもらったんだ。多分青峰から」
木吉は許可もなく、部屋に入って来ながら、そう告げた。
記憶の中の笑顔とは違う、追い詰め立てた表情だ。
そしてせっかちな動作で、ポケットから一枚のメモを取り出し、見せてくれた。
書かれていたのはたった2行だ。
エスタロンモカ、11錠。そしてどこかのサイトのアドレス。
木吉は交番に届けられた財布に入っていたこのメモの指示に従い、薬を注文した。
すると注文時に記載したアドレスに「何か動きがあったら連絡する」と返信があったのだ。
そして今日、このビジネスホテルの住所と部屋番号が書かれたメールが届いた。
「そっか。何だかんだで『キセキ』の連中は、黒子を助けたいんだなぁ」
伊月は思わず苦笑する。
おそらく伊月はこのホテルまで、尾行されていたのだろう。
だが木吉は切羽詰まった表情のままだ。
「まぁ座れよ」
「黒子は!?」
木吉は身を乗り出すように、そう聞いてきた。
わかっている。
木吉が捜しているのは、伊月ではなく黒子だ。
だが黒子はおそらく組織から解放されないだろう。
そのことを告げようとしたとき、再びドアチャイムが鳴った。
伊月は「ちょっと待て」と言い置いて、再びドアの前に立つ。
着の身着のままで入ったホテルなのに、なんでこんなに来客が多いんだ。
伊月はそんなことを思いながら、またレンズを覗いて「嘘だ」と声を上げる。
次の瞬間勢いよくドアを開けた。
「伊月センパイ」
久し振りに昔の呼び名で伊月を呼ぶのは、まぎれもなく黒子だった。
黒子は「失礼します」と部屋に入って来て、先客の姿を見つけると、驚き、目を見開いた。
木吉も立ったままの状態で、じっと黒子を凝視している。
ついに恋する2人が再会してしまった。
伊月は時が止まったようにじっと見つめ合う木吉と黒子を見ながら、肩を落とした。
*****
「早く『ボク』から逃げろ。」
巨大な犯罪組織のトップは、静かにそう告げた。
その日も黒子にとっては、何のことはない日のはずだった。
最近定番になりつつある、青峰と組んでの借金の取り立てだ。
その後、黄瀬が部屋に来て、どうでもいいような世間話をする。
そんな慣れきった1日だったのだ。
伊月の借金が終わって、組織を出たことは知っている。
あっさり解放されたのは、伊月のしてきたことは、この組織の中では可愛い方だからだ。
伊月が使っていたパソコンは始末されたし、作ったサイトも全部閉じられている。
仮に警察に訴えたところで、告げられて困るような情報はない。
そういう風にしてくれと赤司に頼んだのは黒子だ。
そもそもタチの悪い闇金が持っていた伊月家の負債を、赤司に買い取って欲しいと頼んだのだ。
これでよかったのだと黒子は思っている。
おそらく伊月の件がなければ、黒子はもう二度と「キセキの世代」たちと関わることはなかった。
ごくごく地味で、平凡な人生を送っていたはずだ。
ありきたりな言葉で表現するなら、転落人生だ。
だが放っておけば、伊月もその姉妹も、どん底に落とされたはずだ。
それを救えたし、今の生活だって、そんなに悪くはない。
逮捕される、もしくは殺される。
その覚悟さえできれば、淡々と仕事ができる。
だが夜、黄瀬と入れ替わりに赤司が現れた。
これはかなり珍しいことだ。
黒子は「何か急な仕事ですか?」と聞いてみた。
だが赤司は首を振ると、1枚のメモを差し出したのだ。
「ここに伊月がいる。一緒に行け。」
赤司の言葉の意味が、わからなかった。
目の前の赤司こそ、黒子を組織に足止めしている張本人だ。
伊月と違って、黒子はこの組織の色々な情報を知り尽くしている。
黒子が警察で全てを話したら、赤司個人どころか、赤司家も終わりだ。
「いったいどうしたっていうんですか?」
黒子は思わず赤司の顔を覗きこみ、気づいた。
今の赤司は、表の顔の赤司だ。
穏やかでよく気の回る、自分のことを「オレ」と呼ぶ赤司。
黒子は思わず「お久しぶりです」と頭を下げた。
組織を統べる赤司は、冷淡で酷薄で自分のことを「ボク」と呼ぶ。
もう何年も組織で働く黒子はずっと「オレ赤司」には会っていなかった。
「早く『ボク』から逃げろ。」
巨大な犯罪組織のトップは、静かにそう告げた。
どうして裏組織の仕事の時に、こっちの赤司が出てきたのかはわからない。
だが「オレ赤司」は「ボク赤司」から、黒子を逃がそうとしているのだ。
「いいか。絶対に逃げきれ。『ボク』の裏をかけ。いいな。」
赤司はそう告げて、メモを黒子の手に押し付けると、部屋を出て行った。
一瞬迷った黒子は、すぐに決意を固めた。
財布と携帯電話と読みかけの文庫本だけ持つと、部屋の明かりを消す。
今の生活に不満はないけど、やはり本来の自分の居場所ではないと思う。
部屋を出て、鍵をかけると、玄関前のポストにその鍵を放り込む。
そしてマンションを出ると、青峰と黄瀬が立っていた。
青峰が「車で送るか?」と聞いてくれたが、黒子は首を振った。
黄瀬が「黒子っちはやっぱり真っ当な場所で生きてた方がいいっス」と笑った。
黒子は無言で2人に頭を下げると、ゆっくりと歩き出した。
黒子はとりあえず赤司のメモに書かれたビジネスホテルを目指した。
青峰も黄瀬も緑間や紫原も、黒子には明るい場所で生きてほしいと思ってくれている。
それはバスケで才能を極めたせいで、普通の生活では満足できない彼らの思いかもしれない。
せめてお前だけは真っ当に生きろと。
だったらその期待に応えてみるのも、悪くない。
目的の部屋についた黒子は、ドアチャイムを鳴らした。
そして伊月、さらにまさかの木吉と再会することになったのだ。
*****
「「辞表!?」」
日向とリコ、2人の声がハモった。
だが木吉は涼しい顔で「おぉ!」と答えた。
木吉は非番の日を狙って、日向とリコを自宅に呼び出した。
勝手知ったる木吉の部屋で、木吉の祖母手作りの和菓子と茶を楽しむ。
高校時代のアルバムを出して来て、思い出話をしたりもした。
そして帰り際に「オレ、辞表を出したんだ」と打ち明けた。
木吉が辞表を出したのは、2週間ほど前のことだ。
そして来週にはもう退職が決まっている。
日向やリコに言わなかったのは、しつこく慰留されることがわかっていたことだ。
辞表を出したその前日は、伊月、そして黒子と再会した日だった。
「木吉センパイ、お久しぶりです。」
伊月が宿泊するビジネスホテルで、たっぶり1分ほど睨めっこをした後、黒子は冷静にそう告げた。
木吉は自分で何と答えたのか、覚えていない。
多分「ああ」とか「おお」とか言ったのではないだろうか。
それほど黒子との再会は衝撃的だった。
「組織から逃げてきました。」
木吉と伊月にそう告げた黒子は、晴れやかな顔をしていた。
細かい事情は語らなかったが、完全に自由になったというわけではないらしい。
そして静かに「東京を離れるつもりです」と告げた。
「オレも一緒に行っていいか?」
黒子にそう告げたのは、木吉ではなく伊月だった。
予想より早く借金を完済したばかりだという伊月は、身軽なのだ。
黒子と2人、どこへでも行ける。
木吉は迷っていた。
警察官としては、2人を逮捕するべきなのだとわかっている。
2人はきっと組織の全容は言わないが、自分たちの罪については話すだろう。
だが黒子に手錠をかけて連行する自分の姿を想像して、ブルりと震えた。
そんなことはどうしたってできない。
「また2人で暮らしましょうか」
黒子は伊月に笑いかけた。
今でも黒子は木吉のことを好きだと思ってくれているのかどうかはわからない。
だが木吉が警察官である限り、木吉と黒子にはきっと未来はない。
黒子は自分が犯罪を犯して、警察官と恋人でいるような不実なことはできない性格だ。
結局木吉は2人を残して、ビジネスホテルを出た。
「「辞表!?」」
日向とリコ、2人の声がハモった。
だが木吉は涼しい顔で「おぉ!」と答えた。
これが木吉なりのケジメだった。
正義と友情を秤にかけて、友情を取った。
黒子と伊月を見逃したのだ。
そしてこれを日向たちにも話すつもりはなかった。
2人には何も知らずに、正義を守って欲しい。
「元気でな。お前らもいいかげんにくっついちゃえよ!」
木吉は努めて明るく、日向とリコにエールを送った。
リコが少し傷ついた顔になった意味は、何となく理解している。
だが警察官失格になった自分は、もう彼らと対等ではない。
「これからどうするんだ?」
心配そうに聞いてくれる日向に、木吉は「ちょっと旅行にな」と答えた。
結局黒子たちは、東北の地方都市に落ち着き、職も見つけて頑張っているらしい。
それを知らせてきたのは、伊月だった。
2人で住んでいる部屋の住所も知らせてくれて「遊びに来いよ」とまで言った。
それは今度こそ正々堂々、黒子の恋人の座を争おうという伊月の宣戦布告だ。
「旅行?いい気なものねぇ」
リコがややわざとらしい声でそう告げた。
だけど木吉は「そうでもないけど」と答えた。
多分日向やリコとはもう会わない。
彼らはそんな木吉の決意を感じ取っているだろうか。
これから忙しくなる。
木吉はこの家を離れるつもりはないから、遠距離恋愛になる。
伊月は強敵だけれど、絶対に負けるつもりはない。
新しい職を探さなければならないし、祖父母にも孝行したい。
でもまた恋ができるのだ。
前途多難なのに、木吉は愉快な気分だった。
【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
「どうして、お前が!?」
まさかの再会に、伊月は激しく動揺した。
突然組織から放逐された伊月は、安いビジネスホテルにいた。
あの薄汚れた狭いアパート以外の場所で眠るのは、何年振りだろう。
持ち出した荷物は、携帯電話と財布だけだ。
それ以外のものはすべて置いてきた。
両親と姉妹とも連絡が取れた。
黛が現在の連絡先を教えてくれたので、電話をかけたのだ。
特に姉と妹は性的な仕事をさせられていないかと心配したが、それは杞憂だった。
フロント企業の事務、違法とはいえ一応は会社員だ。
本来ならば借金のカタに連行された女は、性を売る仕事に回されてしまうのに。
おそらくは黒子が、エンペラーこと赤司に口添えしてくれたのだろう。
これからどうしたらいいんだろう。
伊月は自由の身になったものの、これからどう生きていけばいいのかわからない。
結局どこかに就職しなければいけないのだが、そんな自分がイメージできなかった。
何しろいろいろと法に触れることをしまくっている。
今さら明るい道に戻って、何事もなかったように生きる自信がないのだ。
ドアチャイムが鳴らされて、物思いに沈んでいた伊月は我に返った。
すぐに立ち上がると、ドアに向かう。
そして魚眼レンズから外をのぞいた伊月は驚き、一瞬迷う。
だが次の瞬間には、思い切りドアを開けていた。
「どうして、お前が!?」
まさかの再会に、伊月は激しく動揺した。
そこにいたのは、木吉鉄平。
かつてのチームメイトで、恋敵で、今は警察官と犯罪者という間柄だ。
「連絡をもらったんだ。多分青峰から」
木吉は許可もなく、部屋に入って来ながら、そう告げた。
記憶の中の笑顔とは違う、追い詰め立てた表情だ。
そしてせっかちな動作で、ポケットから一枚のメモを取り出し、見せてくれた。
書かれていたのはたった2行だ。
エスタロンモカ、11錠。そしてどこかのサイトのアドレス。
木吉は交番に届けられた財布に入っていたこのメモの指示に従い、薬を注文した。
すると注文時に記載したアドレスに「何か動きがあったら連絡する」と返信があったのだ。
そして今日、このビジネスホテルの住所と部屋番号が書かれたメールが届いた。
「そっか。何だかんだで『キセキ』の連中は、黒子を助けたいんだなぁ」
伊月は思わず苦笑する。
おそらく伊月はこのホテルまで、尾行されていたのだろう。
だが木吉は切羽詰まった表情のままだ。
「まぁ座れよ」
「黒子は!?」
木吉は身を乗り出すように、そう聞いてきた。
わかっている。
木吉が捜しているのは、伊月ではなく黒子だ。
だが黒子はおそらく組織から解放されないだろう。
そのことを告げようとしたとき、再びドアチャイムが鳴った。
伊月は「ちょっと待て」と言い置いて、再びドアの前に立つ。
着の身着のままで入ったホテルなのに、なんでこんなに来客が多いんだ。
伊月はそんなことを思いながら、またレンズを覗いて「嘘だ」と声を上げる。
次の瞬間勢いよくドアを開けた。
「伊月センパイ」
久し振りに昔の呼び名で伊月を呼ぶのは、まぎれもなく黒子だった。
黒子は「失礼します」と部屋に入って来て、先客の姿を見つけると、驚き、目を見開いた。
木吉も立ったままの状態で、じっと黒子を凝視している。
ついに恋する2人が再会してしまった。
伊月は時が止まったようにじっと見つめ合う木吉と黒子を見ながら、肩を落とした。
*****
「早く『ボク』から逃げろ。」
巨大な犯罪組織のトップは、静かにそう告げた。
その日も黒子にとっては、何のことはない日のはずだった。
最近定番になりつつある、青峰と組んでの借金の取り立てだ。
その後、黄瀬が部屋に来て、どうでもいいような世間話をする。
そんな慣れきった1日だったのだ。
伊月の借金が終わって、組織を出たことは知っている。
あっさり解放されたのは、伊月のしてきたことは、この組織の中では可愛い方だからだ。
伊月が使っていたパソコンは始末されたし、作ったサイトも全部閉じられている。
仮に警察に訴えたところで、告げられて困るような情報はない。
そういう風にしてくれと赤司に頼んだのは黒子だ。
そもそもタチの悪い闇金が持っていた伊月家の負債を、赤司に買い取って欲しいと頼んだのだ。
これでよかったのだと黒子は思っている。
おそらく伊月の件がなければ、黒子はもう二度と「キセキの世代」たちと関わることはなかった。
ごくごく地味で、平凡な人生を送っていたはずだ。
ありきたりな言葉で表現するなら、転落人生だ。
だが放っておけば、伊月もその姉妹も、どん底に落とされたはずだ。
それを救えたし、今の生活だって、そんなに悪くはない。
逮捕される、もしくは殺される。
その覚悟さえできれば、淡々と仕事ができる。
だが夜、黄瀬と入れ替わりに赤司が現れた。
これはかなり珍しいことだ。
黒子は「何か急な仕事ですか?」と聞いてみた。
だが赤司は首を振ると、1枚のメモを差し出したのだ。
「ここに伊月がいる。一緒に行け。」
赤司の言葉の意味が、わからなかった。
目の前の赤司こそ、黒子を組織に足止めしている張本人だ。
伊月と違って、黒子はこの組織の色々な情報を知り尽くしている。
黒子が警察で全てを話したら、赤司個人どころか、赤司家も終わりだ。
「いったいどうしたっていうんですか?」
黒子は思わず赤司の顔を覗きこみ、気づいた。
今の赤司は、表の顔の赤司だ。
穏やかでよく気の回る、自分のことを「オレ」と呼ぶ赤司。
黒子は思わず「お久しぶりです」と頭を下げた。
組織を統べる赤司は、冷淡で酷薄で自分のことを「ボク」と呼ぶ。
もう何年も組織で働く黒子はずっと「オレ赤司」には会っていなかった。
「早く『ボク』から逃げろ。」
巨大な犯罪組織のトップは、静かにそう告げた。
どうして裏組織の仕事の時に、こっちの赤司が出てきたのかはわからない。
だが「オレ赤司」は「ボク赤司」から、黒子を逃がそうとしているのだ。
「いいか。絶対に逃げきれ。『ボク』の裏をかけ。いいな。」
赤司はそう告げて、メモを黒子の手に押し付けると、部屋を出て行った。
一瞬迷った黒子は、すぐに決意を固めた。
財布と携帯電話と読みかけの文庫本だけ持つと、部屋の明かりを消す。
今の生活に不満はないけど、やはり本来の自分の居場所ではないと思う。
部屋を出て、鍵をかけると、玄関前のポストにその鍵を放り込む。
そしてマンションを出ると、青峰と黄瀬が立っていた。
青峰が「車で送るか?」と聞いてくれたが、黒子は首を振った。
黄瀬が「黒子っちはやっぱり真っ当な場所で生きてた方がいいっス」と笑った。
黒子は無言で2人に頭を下げると、ゆっくりと歩き出した。
黒子はとりあえず赤司のメモに書かれたビジネスホテルを目指した。
青峰も黄瀬も緑間や紫原も、黒子には明るい場所で生きてほしいと思ってくれている。
それはバスケで才能を極めたせいで、普通の生活では満足できない彼らの思いかもしれない。
せめてお前だけは真っ当に生きろと。
だったらその期待に応えてみるのも、悪くない。
目的の部屋についた黒子は、ドアチャイムを鳴らした。
そして伊月、さらにまさかの木吉と再会することになったのだ。
*****
「「辞表!?」」
日向とリコ、2人の声がハモった。
だが木吉は涼しい顔で「おぉ!」と答えた。
木吉は非番の日を狙って、日向とリコを自宅に呼び出した。
勝手知ったる木吉の部屋で、木吉の祖母手作りの和菓子と茶を楽しむ。
高校時代のアルバムを出して来て、思い出話をしたりもした。
そして帰り際に「オレ、辞表を出したんだ」と打ち明けた。
木吉が辞表を出したのは、2週間ほど前のことだ。
そして来週にはもう退職が決まっている。
日向やリコに言わなかったのは、しつこく慰留されることがわかっていたことだ。
辞表を出したその前日は、伊月、そして黒子と再会した日だった。
「木吉センパイ、お久しぶりです。」
伊月が宿泊するビジネスホテルで、たっぶり1分ほど睨めっこをした後、黒子は冷静にそう告げた。
木吉は自分で何と答えたのか、覚えていない。
多分「ああ」とか「おお」とか言ったのではないだろうか。
それほど黒子との再会は衝撃的だった。
「組織から逃げてきました。」
木吉と伊月にそう告げた黒子は、晴れやかな顔をしていた。
細かい事情は語らなかったが、完全に自由になったというわけではないらしい。
そして静かに「東京を離れるつもりです」と告げた。
「オレも一緒に行っていいか?」
黒子にそう告げたのは、木吉ではなく伊月だった。
予想より早く借金を完済したばかりだという伊月は、身軽なのだ。
黒子と2人、どこへでも行ける。
木吉は迷っていた。
警察官としては、2人を逮捕するべきなのだとわかっている。
2人はきっと組織の全容は言わないが、自分たちの罪については話すだろう。
だが黒子に手錠をかけて連行する自分の姿を想像して、ブルりと震えた。
そんなことはどうしたってできない。
「また2人で暮らしましょうか」
黒子は伊月に笑いかけた。
今でも黒子は木吉のことを好きだと思ってくれているのかどうかはわからない。
だが木吉が警察官である限り、木吉と黒子にはきっと未来はない。
黒子は自分が犯罪を犯して、警察官と恋人でいるような不実なことはできない性格だ。
結局木吉は2人を残して、ビジネスホテルを出た。
「「辞表!?」」
日向とリコ、2人の声がハモった。
だが木吉は涼しい顔で「おぉ!」と答えた。
これが木吉なりのケジメだった。
正義と友情を秤にかけて、友情を取った。
黒子と伊月を見逃したのだ。
そしてこれを日向たちにも話すつもりはなかった。
2人には何も知らずに、正義を守って欲しい。
「元気でな。お前らもいいかげんにくっついちゃえよ!」
木吉は努めて明るく、日向とリコにエールを送った。
リコが少し傷ついた顔になった意味は、何となく理解している。
だが警察官失格になった自分は、もう彼らと対等ではない。
「これからどうするんだ?」
心配そうに聞いてくれる日向に、木吉は「ちょっと旅行にな」と答えた。
結局黒子たちは、東北の地方都市に落ち着き、職も見つけて頑張っているらしい。
それを知らせてきたのは、伊月だった。
2人で住んでいる部屋の住所も知らせてくれて「遊びに来いよ」とまで言った。
それは今度こそ正々堂々、黒子の恋人の座を争おうという伊月の宣戦布告だ。
「旅行?いい気なものねぇ」
リコがややわざとらしい声でそう告げた。
だけど木吉は「そうでもないけど」と答えた。
多分日向やリコとはもう会わない。
彼らはそんな木吉の決意を感じ取っているだろうか。
これから忙しくなる。
木吉はこの家を離れるつもりはないから、遠距離恋愛になる。
伊月は強敵だけれど、絶対に負けるつもりはない。
新しい職を探さなければならないし、祖父母にも孝行したい。
でもまた恋ができるのだ。
前途多難なのに、木吉は愉快な気分だった。
【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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