クスリで10題
【プロミナール】
「本当に行かなくていいのか?」
伊月が心配そうに、そう聞いてくれる。
だが黒子は「別にかまいません」と首を振った。
身体がだるい。
黒子は薄い布団の上に、身体を投げ出していた。
濃厚な情事の後は、いつもそうだ。
本当に疲れ果ててしまって、なかなか動くことができない。
男同士の性行為は、受ける側にかなり負担がかかると聞いたことがあるが、本当にそうだと思う。
しかも伊月との情事はいつも激しいから、なおのことだ。
きっとこの荒んだ生活の反動なのだろうと思う。
何も考えたくないから、その分ただただ乱暴にお互いを求めるのだろう。
「大丈夫か?」
シャワーを浴びた伊月が、下着1枚の姿で黒子を覗き込んでいる。
黒子は「いつものことです」と言いながら、重い身体を起こした。
どんなにだるくても、もう朝だ。
自分もさっさとシャワーを浴びて、動き出さなければ。
「本当に行かなくていいのか?」
伊月が心配そうに、そう聞いてくれる。
だが黒子は「別にかまいません」と首を振った。
実は昨晩、黒子は実家に連絡をした。
こちらの連絡先は知らせていない代わりに、月に1度は電話をすることにしている。
そこで母親から、最近体調が悪く、近々入院するのだと聞かされたのだ。
黒子はそれを伊月には言わないつもりだったが、探り当てられてしまった。
何となく違和感を感じたらしい伊月は、情事にかこつけて執拗に黒子を攻め立てたのだ。
「見舞って来いよ。ひょっとしたら一生後悔するかもしれないぞ。」
伊月はすっかり寝乱れた黒子の髪をなでながら、そう言った。
黒子は「でも」と言い返す。
何だか妙な胸騒ぎがするのだ。
だけど伊月の真剣な目を見て、言葉を切った。
実家と定期的に連絡を取るようにと言ったのは、伊月だった。
伊月は家の事情で、親にも姉妹にも会えないのだ。
だから黒子には、肉親とのつながりを切ってはいけないと言う。
そこに伊月の悲しみや後悔を見た黒子は、伊月の言葉に従っていたのだ。
「いいから行けって。」
最後に命令口調になった伊月に、黒子はついに「はい」と頷いた。
嫌な予感はするが、それ以上に母親のことが心配だった。
*****
こんなことのために、磨いた技じゃないのに。
伊月はもう何度思ったかわからないことを、また考え込んでしまう。
純粋にバスケのために磨いた黒子の技を、汚してしまった罪悪感だ。
伊月は黒子と共に、人通りの多い繁華街にいた。
今日もまた、彼らの仕事。
客と接触して、違法な薬物の代金を受け取るのだ。
伊月は得意の目をを駆使して、不審な人の流れがないかを探る。
そして影の薄い黒子が、客と接触するのだ。
「問題ない。金を受け取って、鍵を渡せ。」
伊月は襟元に仕込んだマイクに、小さな声でそう言った。
この声は黒子の耳元のイヤホンに届く。
黒子の襟元にもマイクはあり、必要があれば向こうからの会話もできる。
だがこの役割分担だと、黒子から何かを喋ることはほとんどない。
今日、客に売る薬はプロミナール。
これも昔、市販されていた薬だが、伊月たちが扱うのは成分合成した新商品だ。
死後も身体から検出されにくい毒薬だと聞いている。
どう使われるのかと考えると背筋が寒くなるので、深く考えないことにしている。
黒子はターゲットの男に近づくと、背後からそっと声をかけている。
伊月や黒子の父親くらいの年齢の男だ。
黒子が振り返るなと指示したのだろう。
客の男は黒子の方を見ないまま、背後の黒子にそっと封筒を渡す。
中身を確認した黒子は、男のジャケットのポケットの中に鍵を落とした。
これはここから徒歩で数分ほどの場所にあるコインロッカーの鍵だ。
そして男に顔を見せないまま、黒子はすっと人混みに隠れる。
こんな人通りの多い場所で周囲に不審がられずに取引ができるのは、ひとえに黒子のスゴ技。
高校時代に磨いた視線誘導(ミスディレクション)の賜物だろう。
こんなことのために、磨いた技じゃないのに。
伊月はもう何度思ったかわからないことを、また考え込んでしまう。
純粋にバスケのために磨いた黒子の技を、伊月の都合で汚してしまった。
もう引き返せないとわかっているのに、いつも心を締め付ける。
「今日の仕事は終わりだ。これから行くんだろ?」
伊月は罪悪感を振り払うように、マイクに向かってまた声をかける。
すると耳元のイヤホンから「はい。駅に向かいます」と答えが返ってきた。
黒子はこれから久し振りに実家に戻る。
体調が悪いという母親を見舞うためだ。
黒子は渋っていたけど、伊月が帰るようにと説得した。
優しさではなく、罪悪感からだ。
伊月は人混みの向こうに見え隠れする黒子の後ろ姿を見ながら、自分を叱咤した。
後戻りはもうできないのだから、感傷に浸っている場合ではない。
*****
「久しぶりだな。」
木吉はさり気なさをよそおいながら、そう言った。
元々細身だった青年は、高校時代より少し痩せたように見えた。
木吉は昨晩からずっと黒子の家の前で待っていた。
違法薬物の件は、スパイが消えたことで完全に暗礁に乗り上げていた。
木吉自身は直接かかわっていないが、すごく気になっている。
黒子、そして伊月。
木吉は彼らが違法行為に関わっていることを、確信している。
その上で何とか2人を救いだしたいと思っていた。
だからこそ木吉は一計を案じたのだ。
実に安易な計画だが、見事に当たった。
張り込んでいた木吉の前に、黒子が姿を現したのだ。
「久しぶりだな。」
木吉はさり気なさをよそおいながら、そう言った。
元々細身だった青年は、高校時代より少し痩せたように見えた。
切なさと痛々しさで、木吉の表情が歪む。
だが黒子はかすかに目を見開いただけで「お久しぶりです」と頭を下げた。
相変わらず表情が読みにくいところは、変わっていないようだ。
「実はな、黒子。お前のおふくろさん、具合なんか悪くないんだ。」
「え?」
「オレが頼んで、嘘を言ってもらった。」
「・・・ボクに会うため、ですか?」
「そうだ。騙して悪かった。」
木吉は深々と頭を下げる。
だが黒子はあっさりと「そうですか」と告げ、クルリと踵を返した。
どうやら帰るつもりのようだ。
木吉は慌てて「待ってくれ!」と叫び、黒子の腕を掴む。
「今どこに住んでるんだ?ちゃんと食えてるのか?」
「なぜそんなことを聞くんです?」
「心配だからだ。お前は大丈夫なのか?」
「もう子供じゃないんですから。」
「伊月は一緒なのか?」
伊月の名を出した途端、ずっと冷静だった黒子の表情がかすかに揺れたように見えた。
だがそれは些細なことだ。
とにかくずっと見つからなかった黒子は、今目の前にいる。
何があってももう見失わないと、木吉は固く心に誓っていた。
【続く】
「本当に行かなくていいのか?」
伊月が心配そうに、そう聞いてくれる。
だが黒子は「別にかまいません」と首を振った。
身体がだるい。
黒子は薄い布団の上に、身体を投げ出していた。
濃厚な情事の後は、いつもそうだ。
本当に疲れ果ててしまって、なかなか動くことができない。
男同士の性行為は、受ける側にかなり負担がかかると聞いたことがあるが、本当にそうだと思う。
しかも伊月との情事はいつも激しいから、なおのことだ。
きっとこの荒んだ生活の反動なのだろうと思う。
何も考えたくないから、その分ただただ乱暴にお互いを求めるのだろう。
「大丈夫か?」
シャワーを浴びた伊月が、下着1枚の姿で黒子を覗き込んでいる。
黒子は「いつものことです」と言いながら、重い身体を起こした。
どんなにだるくても、もう朝だ。
自分もさっさとシャワーを浴びて、動き出さなければ。
「本当に行かなくていいのか?」
伊月が心配そうに、そう聞いてくれる。
だが黒子は「別にかまいません」と首を振った。
実は昨晩、黒子は実家に連絡をした。
こちらの連絡先は知らせていない代わりに、月に1度は電話をすることにしている。
そこで母親から、最近体調が悪く、近々入院するのだと聞かされたのだ。
黒子はそれを伊月には言わないつもりだったが、探り当てられてしまった。
何となく違和感を感じたらしい伊月は、情事にかこつけて執拗に黒子を攻め立てたのだ。
「見舞って来いよ。ひょっとしたら一生後悔するかもしれないぞ。」
伊月はすっかり寝乱れた黒子の髪をなでながら、そう言った。
黒子は「でも」と言い返す。
何だか妙な胸騒ぎがするのだ。
だけど伊月の真剣な目を見て、言葉を切った。
実家と定期的に連絡を取るようにと言ったのは、伊月だった。
伊月は家の事情で、親にも姉妹にも会えないのだ。
だから黒子には、肉親とのつながりを切ってはいけないと言う。
そこに伊月の悲しみや後悔を見た黒子は、伊月の言葉に従っていたのだ。
「いいから行けって。」
最後に命令口調になった伊月に、黒子はついに「はい」と頷いた。
嫌な予感はするが、それ以上に母親のことが心配だった。
*****
こんなことのために、磨いた技じゃないのに。
伊月はもう何度思ったかわからないことを、また考え込んでしまう。
純粋にバスケのために磨いた黒子の技を、汚してしまった罪悪感だ。
伊月は黒子と共に、人通りの多い繁華街にいた。
今日もまた、彼らの仕事。
客と接触して、違法な薬物の代金を受け取るのだ。
伊月は得意の目をを駆使して、不審な人の流れがないかを探る。
そして影の薄い黒子が、客と接触するのだ。
「問題ない。金を受け取って、鍵を渡せ。」
伊月は襟元に仕込んだマイクに、小さな声でそう言った。
この声は黒子の耳元のイヤホンに届く。
黒子の襟元にもマイクはあり、必要があれば向こうからの会話もできる。
だがこの役割分担だと、黒子から何かを喋ることはほとんどない。
今日、客に売る薬はプロミナール。
これも昔、市販されていた薬だが、伊月たちが扱うのは成分合成した新商品だ。
死後も身体から検出されにくい毒薬だと聞いている。
どう使われるのかと考えると背筋が寒くなるので、深く考えないことにしている。
黒子はターゲットの男に近づくと、背後からそっと声をかけている。
伊月や黒子の父親くらいの年齢の男だ。
黒子が振り返るなと指示したのだろう。
客の男は黒子の方を見ないまま、背後の黒子にそっと封筒を渡す。
中身を確認した黒子は、男のジャケットのポケットの中に鍵を落とした。
これはここから徒歩で数分ほどの場所にあるコインロッカーの鍵だ。
そして男に顔を見せないまま、黒子はすっと人混みに隠れる。
こんな人通りの多い場所で周囲に不審がられずに取引ができるのは、ひとえに黒子のスゴ技。
高校時代に磨いた視線誘導(ミスディレクション)の賜物だろう。
こんなことのために、磨いた技じゃないのに。
伊月はもう何度思ったかわからないことを、また考え込んでしまう。
純粋にバスケのために磨いた黒子の技を、伊月の都合で汚してしまった。
もう引き返せないとわかっているのに、いつも心を締め付ける。
「今日の仕事は終わりだ。これから行くんだろ?」
伊月は罪悪感を振り払うように、マイクに向かってまた声をかける。
すると耳元のイヤホンから「はい。駅に向かいます」と答えが返ってきた。
黒子はこれから久し振りに実家に戻る。
体調が悪いという母親を見舞うためだ。
黒子は渋っていたけど、伊月が帰るようにと説得した。
優しさではなく、罪悪感からだ。
伊月は人混みの向こうに見え隠れする黒子の後ろ姿を見ながら、自分を叱咤した。
後戻りはもうできないのだから、感傷に浸っている場合ではない。
*****
「久しぶりだな。」
木吉はさり気なさをよそおいながら、そう言った。
元々細身だった青年は、高校時代より少し痩せたように見えた。
木吉は昨晩からずっと黒子の家の前で待っていた。
違法薬物の件は、スパイが消えたことで完全に暗礁に乗り上げていた。
木吉自身は直接かかわっていないが、すごく気になっている。
黒子、そして伊月。
木吉は彼らが違法行為に関わっていることを、確信している。
その上で何とか2人を救いだしたいと思っていた。
だからこそ木吉は一計を案じたのだ。
実に安易な計画だが、見事に当たった。
張り込んでいた木吉の前に、黒子が姿を現したのだ。
「久しぶりだな。」
木吉はさり気なさをよそおいながら、そう言った。
元々細身だった青年は、高校時代より少し痩せたように見えた。
切なさと痛々しさで、木吉の表情が歪む。
だが黒子はかすかに目を見開いただけで「お久しぶりです」と頭を下げた。
相変わらず表情が読みにくいところは、変わっていないようだ。
「実はな、黒子。お前のおふくろさん、具合なんか悪くないんだ。」
「え?」
「オレが頼んで、嘘を言ってもらった。」
「・・・ボクに会うため、ですか?」
「そうだ。騙して悪かった。」
木吉は深々と頭を下げる。
だが黒子はあっさりと「そうですか」と告げ、クルリと踵を返した。
どうやら帰るつもりのようだ。
木吉は慌てて「待ってくれ!」と叫び、黒子の腕を掴む。
「今どこに住んでるんだ?ちゃんと食えてるのか?」
「なぜそんなことを聞くんです?」
「心配だからだ。お前は大丈夫なのか?」
「もう子供じゃないんですから。」
「伊月は一緒なのか?」
伊月の名を出した途端、ずっと冷静だった黒子の表情がかすかに揺れたように見えた。
だがそれは些細なことだ。
とにかくずっと見つからなかった黒子は、今目の前にいる。
何があってももう見失わないと、木吉は固く心に誓っていた。
【続く】