クスリで10題

【ジギトキシン】

「オレを裏切る気じゃないよな。」
不安に駆られた伊月は、思わずそう口走った。
だが黒子はいつもの通りの無表情で「まさか」と答えた。

「ジギトキシン、ですか。」
「そ。これも今は製造中止になってるクスリ」
「睡眠薬ですか?」
「いや心不全や不整脈の治療薬だったかな?でもうちで売るのは成分合成した毒薬。」

狭いアパートの部屋で、伊月は相変わらずパソコンのキーを叩いている。
新しい商品をサイトにアップするためだ。
前回トラップのサイトを作って、スパイを発見した。
だからもう心配することなく、商売ができる。

伊月の作ったトラップはこうだ。
見た目はまったく同じサイトをいくつも作って、新顔の売人にそれぞれ1つずつ教えた。
顧客ではない不審なアクセスがあったサイトが当たり。
そのアドレスを教えられた売人がスパイということになる。
ごくごく単純な仕掛けだったが、見事に1人引っかかった。
ホークというコードネームで呼ばれている売人。
その正体が高校時代のライバルであることを知って、伊月も黒子もかなり驚いた。

だがホークこと高尾和成は、組織で身柄を押さえる前に逃げた。
貸し与えていたアパートの部屋から、忽然と消えたのだ。
何か不穏な空気を感じたのか?
それとも正体がバレたことが、バレたのか?
だが伊月は、黒子が高尾を逃がしたと思っている。
なぜなら伊月だって、思いは同じだからだ。
高尾が組織に消されることになったら、どうにも目覚めが悪い。

だが実際、まずい立場になったと思う。
高尾をトラップであぶり出したのは、伊月なのだ。
それを組織に伝えたときに、上層部からホークの正体を知らされた。
その直後に高尾が消えたのだ。
昔の知り合いだなんて知れたら、疑われることは間違いないだろう。
黒子はそこまで考えた上で、高尾を逃がしたのだろうか。

「オレを裏切る気じゃないよな。」
不安に駆られた伊月は、思わずそう口走った。
だが黒子はいつもの通りの無表情で「まさか」と答えた。

*****

悪いけど、何も言えない。
高尾は心底驚いた表情を作った。

高尾は知り合いの家を転々としていた。
とにかく今は組織からの追手が怖い。
警察なんて、当てにならない。
こっちを利用するだけ利用して、こういうときは何もしてくれないのだ。

昨晩は、高校時代の先輩の家に泊めてもらった。
現在は普通の勤め人になってる彼のひとり暮らしのマンション。
部屋で酒を飲みながら、思い出話に花を咲かせた。

「もしよかったら、もう少し泊まっていってもいいぞ。」
優しい先輩は、そう言ってくれた。
ありがたいことだ。
2つ年上のSFのこの男は、高校時代も面倒見がよくて、厳しいけれど優しかった。
今も高尾に何かの事情があることを察してくれているようだ。

「いや、いいっす。いきなり来て泊めてもらって、本当に助かりました。」
高尾は礼を言って、先輩宅を後にした。
だが1階のエントランスを出たところで、顔見知りの男に声を掛けられた。

「久しぶり。オレのこと、覚えてるか?」
男は人の好さそうな笑顔で、そう告げた。
覚えていない訳がない。
見た目ほどわかりやすい人間でないことも知っている。

「どうも、木吉先輩。珍しいところで会いますね。」
高尾はおどけて、挨拶する。
偶然なんかじゃない。
たしかこの男は警察官になったと聞いた。
つまり高尾がスパイだったことも知っていて、探りにきたのだろう。

「黒子と伊月は元気なのか?」
「は?高校卒業した後、会ってないっすけど」
高尾はごく自然に返したけれど、内心はかなり動揺していた。
あの組織に黒子がいたことはわかっていたが、伊月もいたのか。
いやそもそも警察は、彼らが組織にいることをつかんでいるのか。

悪いけど、何も言えない。
高尾は心底驚いた表情を作った。
こういうフェイクは得意なのだ。

黒子のおかげで、どうにか逃げ延びることができたのだ。
その黒子を警察の手に渡すわけには、いかない。
だから絶対に黒子たちのことは喋らないと、高尾は固く心に誓っていた。

*****

「ホークを逃がしたのは、お前だね?」
彼は静かに黒子を審問する。
黒子は「はい」と短く答えて、彼の視線を真っ向から受け止めた。

彼はこの密売組織のリーダーだった。
元々彼の父親が運営していたが、最近それを引き継いだ。
彼の家は、日本を代表する有名な財閥系の家系。
そして薬や武器の密売など、日本の裏社会にも君臨している。

彼の家は代々長男が、当主となる。
そして当主は決まって、その身体に2つの人格を有していた。
1人は温厚で優しく、もう1人は冷淡で独善的。
そして温厚な人格が表の企業を、冷淡な人格が裏組織を支配する。
今、黒子と相対しているのは、もちろん冷淡な方だ。
アジトの1つである、古いビルの一室で、2人は向かい合っていた。

「ホークを逃がしたのは、お前だね?」
彼は静かに黒子を審問する。
黒子は「はい」と短く答えて、彼の視線を真っ向から受け止めた。

「ホークが我々のことを警察に密告する可能性は?」
「ありません。だって彼は何も知らない。だからこそ警察だって組織の全容を掴んでいない。」
「だがお前が売人であることは、バレただろう?」
「はい。ひょっとしたらボクは逮捕されるかもしれません。だけど何も喋りません。」
「捜査本部には、お前の先輩がいるようだが」
「こっちにもボクの先輩がいます。」

黒子の言葉には淀みがない。
彼はわざとらしくため息をつくと、肩を竦めた。
黒子の判断に間違いはないことは、彼にも直感で分かる。

「イーグルはよく働いている。お前のおかげでいい拾い物だ」
彼は唐突に話題を変え、表情を緩め、口元を綻ばせた。
黒子はそっけなく「どうも」と答える。
これで「ホーク」の話は終わりという意思表示であり、黒子にもそれがわかっているだろう。

「それじゃボクは戻ります。」
黒子は一礼すると、さっさとビルを出て行く。
コードネーム「エンペラー」組織のトップである彼、赤司征十郎は黙ってその後姿を見送った。

【続く】
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