クスリで10題
【ウインタミン】
「今回は普通に流通している薬なんですね。」
黒子はパソコンを覗き込みながら、首を傾げた。
伊月は「ちょっとね、トラップ」と言いながら、黙々とパソコンのキーを打ち続けた。
また伊月がサイトを変えた。
今回扱う薬はウインタミン。
これはもうすぐ販売中止になる予定だが、今のところはまだ製造販売されている精神安定剤だ。
もちろん薬局などで買える薬ではないから、ネットで売るのは違法。
だけど今までの不法に合成した睡眠薬を売るのに比べたら、少しはマシな気がする。
「トラップ、ですか?」
「うん。前々回も前回も、警察にサイトがバレたじゃない。」
「つまり、エス、ですか?」
黒子の言葉に、伊月は満足気に頷いた。
同じ洞察力を持っていてくれることが嬉しかったからだ。
違法薬物を売買するサイトは、短い間にアドレスも変えている。
それに検索にはかからないように、万全の工夫がされている。
何よりこのサイトはリピーターのためのサイトなのだ。
一度取引をして、信用のある客にしか知らせない。
それなのに、なぜか警察にバレている。
エスというのは、スパイのことだ。
顧客の中に、もしくは組の中に、スパイがいる。
だからバレているのではないだろうか。
そこで今回は趣向をガラリと変えたのだ。
サイトのデザイン、アドレスはもちろんのこと、扱っている薬物の毛色まで変えた。
これで警察に知られるようなら、おそらくマークされていると見て間違いないだろう。
伊月が作るサイトを、当局に知らせる輩がいるのだ。
「でもエスがいるとして、それが誰かまでは」
「大丈夫。わかるようになってる。」
伊月はニヤリと笑いながら、エンターキーを押した。
これでトラップ用のサイトは完成だ。
絶対に捕まるわけにはいかない。
借金を完済して、家族とまた再会するまでは。
そして黒子のことも、守り抜いてみせる。
絶対に逮捕なんてさせない。
こうして伊月はトラップを完成させた。
だがこれが原因で、事態は予想外の方向に進むことになる。
*****
「本当にこれがそのサイトなのか?」
木吉が思わず声を上げ、日向が頷く。
それほど前回、前々回の「彼ら」とはかけ離れていた。
木吉も日向も謹慎が明けて、再び職場に復帰していた。
だが二度とこの薬物密売の件には関わらないようにと釘を刺されていた。
それでも捜査本部の残ったリコは、こうして情報を流してくれる。
バレたら大変なことになるが、日向も木吉もバレるような真似をするつもりはなかった。
本当は命令を破ってでも、捜査に加わりたい。
もっと言うなら、黒子と伊月を捜したかった。
それでも考えもなく迂闊に動くと、ロクなことにならないことは証明済だ。
そこでこうして勤務が終わった後、独身寮の日向の部屋で男2人が向き合っているのだ。
「過去2回のサイトとは雰囲気がかなり違う。本当にこれ、そうなのか?」
信じられない木吉は、もう1度聞き返した。
日向のノートパソコンには、リコが知らせてくれたサイトが表示されている。
過去の2つのサイトも、デザインなどを変えてまったく違うサイトに見せかけていた。
それでも違法な薬物を売っているという雰囲気だけは、共通していたのだ。
だが今回のサイトは、それすらもない。
事務的なデザインで、病院や薬局などに薬を卸すような、つまりまっとうな商売に見えるのだ。
そもそもウインタミンは、普通に病院などで処方している薬だったはずだ。
「間違いない。潜入しているスパイが知らせて来たネタだそうだ。」
「潜入!?それって違法捜査なんじゃないのか!?」
「表向きはな。でも裏じゃこのくらいやってても、不思議じゃない。」
「はぁぁ。オレは平和な交番勤務でよかった。」
木吉は盛大にため息をついた。
犯罪者を逮捕するために、法を犯す。
それが警察の仕事なのだから、何とも空しい。
「なぁ日向、いいかげんリコとくっつく気はないのか?」
「はぁ!?いきなり何だ!?」
「いやまぁ、何となく。そろそろいいんじゃないのかなと思って。」
「あるわけないだろ!」
日向の一刀両断な否定に、木吉は「そうか」と肩を落とした。
木吉は日向がずっとリコを想い続けていることを知っている。
事件の犯人として、高校時代のチームメイトが逮捕されるかもしれない。
そんな荒んだ事態を前にして、明るい話題が欲しかったのだ。
だが当のリコの想い人が自分であることには気が付いていない。
そしてその言葉が日向にとって、残酷であることも。
「とにかく事件が終わるまでは、そういう話題は考えたくない。」
日向はきっぱりとそう告げて、話題を断ち切った。
本当はこの鈍感な友人を殴りたい気持ちに駆られていた。
だが今はそれどころではないと必死に自分に言い聞かせて、思いとどまった。
*****
まさか、そんな。
彼は意外な人物の登場に、言葉もなく立ち尽くした。
彼はとある薬物の密売組織に売人として、名を連ねている。
だがその実態は警察のスパイだ。
組織内部の情報を、警察にもらす。
それが彼の本当の仕事だった。
彼は警察官ではない。
そして彼が潜入しているスパイであることを知っているのは、警察内でもごくわずか。
もしヘマをすれば、彼は組織に消されてしまうだろう。
そして人知れず死体すら消され、警察は何もしてくれない。
だが成功すれば、多額の報酬を手にできる。
それは捜査費から出ているのだが、彼の知るところではない。
彼は暮らし向きには困っていない。
実家はごくごく普通の家庭で、取り立てて裕福ではないが、貧乏ではない。
事実彼も大学まで出してもらい、何不自由のない生活を送った。
それなのにこんな仕事をしているのは、スリルを求めてのことだ。
勝てば大金を手にして、負ければ命さえ危ない。
そんなギャンブルのような生活を、案外楽しんでいる。
それにしても今回潜入した組織は、ガードが固い。
新入りである彼はまだ信用されてないようで、末端の人間数人しか顔を見る機会が与えられないのだ。
だから今まで警察に流せた情報は、薬物売買用のサイトのアドレスだけだ。
警察はそれに基づいて動いたようだが、組織の摘発には至っていない。
ならばさっさともっと大きなネタをゲットしなければ、長引いてしまう。
彼はコンビニで食事を買い、アジトとして与えられているアパートの部屋に戻ってきた。
潜入中はさすがに外食をする気分になれないからだ。
コンビニはあちこち変えているが、徒歩で行ける場所は限られている。
そろそろ店員にも、顔を覚えられそうだ。
「ホーク」
背後から声を掛けられ、彼は振り返った。
ホーク。それは彼が潜入中に使っているコードネームだ。
だが次の瞬間、彼の手から部屋の鍵が滑って落ちた。
まさか、そんな。
男は意外な人物の登場に、言葉もなく立ち尽くした。
「お久しぶりです。高尾君」
久し振りに呼ばれた本名に、彼はようやく我に返る。
相手は高校時代にバスケでライバルだった男だ。
「もうすぐ君がスパイだということが組織のトップに知れます。」
「・・・は?」
「昔のよしみで教えたんです。ボクも君が殺されては目覚めが悪いので。」
「どういうことだ。」
「君はトラップにかかったんです。命が惜しければ早く逃げた方がいい。」
「・・・黒子」
昔と変わらない冷静な黒子の態度に、高尾はようやく事態を把握する。
逃げなければ命が危ない。
高尾は手にしていたコンビニ袋を放り出すと、全力疾走でその場を走り去った。
「もったいない。ありがたくいただきます。」
黒子は高尾が残していったコンビニの袋を拾い上げた。
中にはまだ温かい弁当が、食欲をくすぐるにおいを発している。
【続く】
「今回は普通に流通している薬なんですね。」
黒子はパソコンを覗き込みながら、首を傾げた。
伊月は「ちょっとね、トラップ」と言いながら、黙々とパソコンのキーを打ち続けた。
また伊月がサイトを変えた。
今回扱う薬はウインタミン。
これはもうすぐ販売中止になる予定だが、今のところはまだ製造販売されている精神安定剤だ。
もちろん薬局などで買える薬ではないから、ネットで売るのは違法。
だけど今までの不法に合成した睡眠薬を売るのに比べたら、少しはマシな気がする。
「トラップ、ですか?」
「うん。前々回も前回も、警察にサイトがバレたじゃない。」
「つまり、エス、ですか?」
黒子の言葉に、伊月は満足気に頷いた。
同じ洞察力を持っていてくれることが嬉しかったからだ。
違法薬物を売買するサイトは、短い間にアドレスも変えている。
それに検索にはかからないように、万全の工夫がされている。
何よりこのサイトはリピーターのためのサイトなのだ。
一度取引をして、信用のある客にしか知らせない。
それなのに、なぜか警察にバレている。
エスというのは、スパイのことだ。
顧客の中に、もしくは組の中に、スパイがいる。
だからバレているのではないだろうか。
そこで今回は趣向をガラリと変えたのだ。
サイトのデザイン、アドレスはもちろんのこと、扱っている薬物の毛色まで変えた。
これで警察に知られるようなら、おそらくマークされていると見て間違いないだろう。
伊月が作るサイトを、当局に知らせる輩がいるのだ。
「でもエスがいるとして、それが誰かまでは」
「大丈夫。わかるようになってる。」
伊月はニヤリと笑いながら、エンターキーを押した。
これでトラップ用のサイトは完成だ。
絶対に捕まるわけにはいかない。
借金を完済して、家族とまた再会するまでは。
そして黒子のことも、守り抜いてみせる。
絶対に逮捕なんてさせない。
こうして伊月はトラップを完成させた。
だがこれが原因で、事態は予想外の方向に進むことになる。
*****
「本当にこれがそのサイトなのか?」
木吉が思わず声を上げ、日向が頷く。
それほど前回、前々回の「彼ら」とはかけ離れていた。
木吉も日向も謹慎が明けて、再び職場に復帰していた。
だが二度とこの薬物密売の件には関わらないようにと釘を刺されていた。
それでも捜査本部の残ったリコは、こうして情報を流してくれる。
バレたら大変なことになるが、日向も木吉もバレるような真似をするつもりはなかった。
本当は命令を破ってでも、捜査に加わりたい。
もっと言うなら、黒子と伊月を捜したかった。
それでも考えもなく迂闊に動くと、ロクなことにならないことは証明済だ。
そこでこうして勤務が終わった後、独身寮の日向の部屋で男2人が向き合っているのだ。
「過去2回のサイトとは雰囲気がかなり違う。本当にこれ、そうなのか?」
信じられない木吉は、もう1度聞き返した。
日向のノートパソコンには、リコが知らせてくれたサイトが表示されている。
過去の2つのサイトも、デザインなどを変えてまったく違うサイトに見せかけていた。
それでも違法な薬物を売っているという雰囲気だけは、共通していたのだ。
だが今回のサイトは、それすらもない。
事務的なデザインで、病院や薬局などに薬を卸すような、つまりまっとうな商売に見えるのだ。
そもそもウインタミンは、普通に病院などで処方している薬だったはずだ。
「間違いない。潜入しているスパイが知らせて来たネタだそうだ。」
「潜入!?それって違法捜査なんじゃないのか!?」
「表向きはな。でも裏じゃこのくらいやってても、不思議じゃない。」
「はぁぁ。オレは平和な交番勤務でよかった。」
木吉は盛大にため息をついた。
犯罪者を逮捕するために、法を犯す。
それが警察の仕事なのだから、何とも空しい。
「なぁ日向、いいかげんリコとくっつく気はないのか?」
「はぁ!?いきなり何だ!?」
「いやまぁ、何となく。そろそろいいんじゃないのかなと思って。」
「あるわけないだろ!」
日向の一刀両断な否定に、木吉は「そうか」と肩を落とした。
木吉は日向がずっとリコを想い続けていることを知っている。
事件の犯人として、高校時代のチームメイトが逮捕されるかもしれない。
そんな荒んだ事態を前にして、明るい話題が欲しかったのだ。
だが当のリコの想い人が自分であることには気が付いていない。
そしてその言葉が日向にとって、残酷であることも。
「とにかく事件が終わるまでは、そういう話題は考えたくない。」
日向はきっぱりとそう告げて、話題を断ち切った。
本当はこの鈍感な友人を殴りたい気持ちに駆られていた。
だが今はそれどころではないと必死に自分に言い聞かせて、思いとどまった。
*****
まさか、そんな。
彼は意外な人物の登場に、言葉もなく立ち尽くした。
彼はとある薬物の密売組織に売人として、名を連ねている。
だがその実態は警察のスパイだ。
組織内部の情報を、警察にもらす。
それが彼の本当の仕事だった。
彼は警察官ではない。
そして彼が潜入しているスパイであることを知っているのは、警察内でもごくわずか。
もしヘマをすれば、彼は組織に消されてしまうだろう。
そして人知れず死体すら消され、警察は何もしてくれない。
だが成功すれば、多額の報酬を手にできる。
それは捜査費から出ているのだが、彼の知るところではない。
彼は暮らし向きには困っていない。
実家はごくごく普通の家庭で、取り立てて裕福ではないが、貧乏ではない。
事実彼も大学まで出してもらい、何不自由のない生活を送った。
それなのにこんな仕事をしているのは、スリルを求めてのことだ。
勝てば大金を手にして、負ければ命さえ危ない。
そんなギャンブルのような生活を、案外楽しんでいる。
それにしても今回潜入した組織は、ガードが固い。
新入りである彼はまだ信用されてないようで、末端の人間数人しか顔を見る機会が与えられないのだ。
だから今まで警察に流せた情報は、薬物売買用のサイトのアドレスだけだ。
警察はそれに基づいて動いたようだが、組織の摘発には至っていない。
ならばさっさともっと大きなネタをゲットしなければ、長引いてしまう。
彼はコンビニで食事を買い、アジトとして与えられているアパートの部屋に戻ってきた。
潜入中はさすがに外食をする気分になれないからだ。
コンビニはあちこち変えているが、徒歩で行ける場所は限られている。
そろそろ店員にも、顔を覚えられそうだ。
「ホーク」
背後から声を掛けられ、彼は振り返った。
ホーク。それは彼が潜入中に使っているコードネームだ。
だが次の瞬間、彼の手から部屋の鍵が滑って落ちた。
まさか、そんな。
男は意外な人物の登場に、言葉もなく立ち尽くした。
「お久しぶりです。高尾君」
久し振りに呼ばれた本名に、彼はようやく我に返る。
相手は高校時代にバスケでライバルだった男だ。
「もうすぐ君がスパイだということが組織のトップに知れます。」
「・・・は?」
「昔のよしみで教えたんです。ボクも君が殺されては目覚めが悪いので。」
「どういうことだ。」
「君はトラップにかかったんです。命が惜しければ早く逃げた方がいい。」
「・・・黒子」
昔と変わらない冷静な黒子の態度に、高尾はようやく事態を把握する。
逃げなければ命が危ない。
高尾は手にしていたコンビニ袋を放り出すと、全力疾走でその場を走り去った。
「もったいない。ありがたくいただきます。」
黒子は高尾が残していったコンビニの袋を拾い上げた。
中にはまだ温かい弁当が、食欲をくすぐるにおいを発している。
【続く】