手の5題3
【ピース!】
ピース!
掛け声と共に、秋彦は両手でピースサインを作る。
だが表情は完全にシラけており、笑顔とは程遠かった。
数時間前、美咲は丸川書店でバイト中に上司である社員に呼ばれ、こう言われた。
今日はこちらの仕事はもういいから、井坂専務の仕事を手伝って欲しいと。
その名から、正直言っていいイメージはできない。
美咲を「チビちゃん」と呼び、一人前扱いしてくれない井坂が苦手というだけではない。
井坂が美咲にさせる仕事なら、秋彦がらみとしか考えられないのだ。
ことわれるものならことわりたいが、仕事と言われればそうもいかない。
美咲は諦めて、指定された場所-渡されたメモによるとスタジオ-へ向かった。
そこは写真の撮影スタジオだった。
淡いトーンのスクリーンは背景用だろう。
カメラマンらしい男性が三脚に固定した大きなカメラを操作している。
そして部屋の隅で井坂と秋彦、そして秋彦の担当編集の相川が待っていた。
早速だけどチビちゃん!秋彦を笑わせてくれ!
井坂は美咲を見つけると、唐突にそう言った。
意味がわからない。
見かねた相川が取り成すように、事情を説明してくれた。
*****
今から撮影しようとしているのは、秋彦のスナップ写真。
本に「著者近影」として、載せるものだそうだ。
今までは真面目な表情のものが多かったので、今回は笑顔の写真にしたい。
それなのに、秋彦はちっとも笑わない。
そこで美咲が呼び寄せられたということらしい。
馬鹿馬鹿しい。
美咲はそう叫びたい気分だった。
そこまでして笑顔を載せる必要があるのか。
そもそも「著者近影」なんかなくても、本の内容に影響はないだろう。
だが相川は「先生の場合、これで売り上げが変わるのよ」と言う。
ならさっさと笑え。仕事だろ。
今度は秋彦に向き直ってそう言った。
秋彦は「笑ってるつもりだ」と答え、井坂は「あれは違うだろ」と文句をつけた。
曰く「営業用ではなく、心から笑っている笑顔を撮りたい」のだと言う。
確かに秋彦は、対談やパーティなどで笑うことはある。
だがそれは綺麗だし不自然ではないが、親しみを感じるようなものではない。
それがいわゆる営業用というやつだろう。
美咲と2人でいるときにたまに見せる、子供のような無邪気な笑顔。
多分井坂はそういう感じの写真を狙っているらしい。
俺もそんな写真、見てみたいかも。
美咲がポツリとそう言うと、やる気がなさそうだった秋彦の目が変わる。
それを見た井坂と相川は、顔を見合わせてニンマリと笑った。
*****
美咲の写真は笑顔が多いが、コツはあるのか?
真剣な顔でそう聞いてくる秋彦に、美咲は少し考える。
写真を撮るときにどうやって笑うかなんて、考えたことがなかった。
でもいつも無意識のうちに指をVの字にしていた気がする。
そうだ。ピース!ピースしてみたら?
美咲は思いついたことをそのまま口にした。
井坂が「コイツ、バカか?」という顔で美咲を見たが、幸い誰も気付かない。
スクリーンの前に立った秋彦は、真面目に「そうか?」と答えている。
ピース!
かくして掛け声と共に、秋彦は両手でピースサインを作る。
だが表情は完全にシラけており、笑顔とは程遠かった。
そもそもピースサインは指が伸びきっておらず、ぎこちない。
宇佐見秋彦大テンテー、何でこんな簡単なことができないのか。
美咲は、ガックリと肩を落とす。
だがこうなればもう意地だ。
美咲はツカツカと秋彦の横に向かい、並んで立った。
そして「こうだよ!」と両手の腕を伸ばして、渾身のピースを決めた。
*****
美咲君、欲しいのはピースじゃなくて笑顔なんだけど。
相川が絶妙の間で、口を挟んだ。
美咲は思わず「あ」と声を上げる。
確かにビシッとピースを決めた美咲の表情は笑顔と言うよりドヤ顔だ。
いつの間にかピースの方に気を取られてしまったようだ。
その瞬間、秋彦が弾けたように笑い出した。
面白くて仕方がないという、子供のような無邪気な笑いだ。
すかさずカメラマンが、立て続けにシャッターを押す。
そして「OKです」と声がかかったときには、秋彦は目に涙を浮かべていた。
井坂は「さすがチビちゃん」という褒め言葉をくれた。
そしてその月のバイト代は、写真スタジオにいた時間もしっかり加算されていた。
相川は「これで多分、売り上げは2割増、いいえ3割かしら」とウハウハ顔だ。
秋彦は何度も思い出して、爆笑する。
どうやら秋彦の笑いのツボに、見事にはまったようだ。
だが美咲は、もう泣きたい気分だった。
いつの間にかピースに気を取られた自分が恥ずかしいというだけではない。
できあがって本を飾る秋彦の写真は、思いのほか綺麗でかわいかったのだ。
こんな写真は人目に触れさせたくないが、それを口に出すのも癪なのだ。
兄ちゃん、まさかピースでこんな目に合うと思わなかったよ。
美咲は心の中で兄の孝浩に愚痴ることで、どうにか心の平穏を保っている。
【終】
ピース!
掛け声と共に、秋彦は両手でピースサインを作る。
だが表情は完全にシラけており、笑顔とは程遠かった。
数時間前、美咲は丸川書店でバイト中に上司である社員に呼ばれ、こう言われた。
今日はこちらの仕事はもういいから、井坂専務の仕事を手伝って欲しいと。
その名から、正直言っていいイメージはできない。
美咲を「チビちゃん」と呼び、一人前扱いしてくれない井坂が苦手というだけではない。
井坂が美咲にさせる仕事なら、秋彦がらみとしか考えられないのだ。
ことわれるものならことわりたいが、仕事と言われればそうもいかない。
美咲は諦めて、指定された場所-渡されたメモによるとスタジオ-へ向かった。
そこは写真の撮影スタジオだった。
淡いトーンのスクリーンは背景用だろう。
カメラマンらしい男性が三脚に固定した大きなカメラを操作している。
そして部屋の隅で井坂と秋彦、そして秋彦の担当編集の相川が待っていた。
早速だけどチビちゃん!秋彦を笑わせてくれ!
井坂は美咲を見つけると、唐突にそう言った。
意味がわからない。
見かねた相川が取り成すように、事情を説明してくれた。
*****
今から撮影しようとしているのは、秋彦のスナップ写真。
本に「著者近影」として、載せるものだそうだ。
今までは真面目な表情のものが多かったので、今回は笑顔の写真にしたい。
それなのに、秋彦はちっとも笑わない。
そこで美咲が呼び寄せられたということらしい。
馬鹿馬鹿しい。
美咲はそう叫びたい気分だった。
そこまでして笑顔を載せる必要があるのか。
そもそも「著者近影」なんかなくても、本の内容に影響はないだろう。
だが相川は「先生の場合、これで売り上げが変わるのよ」と言う。
ならさっさと笑え。仕事だろ。
今度は秋彦に向き直ってそう言った。
秋彦は「笑ってるつもりだ」と答え、井坂は「あれは違うだろ」と文句をつけた。
曰く「営業用ではなく、心から笑っている笑顔を撮りたい」のだと言う。
確かに秋彦は、対談やパーティなどで笑うことはある。
だがそれは綺麗だし不自然ではないが、親しみを感じるようなものではない。
それがいわゆる営業用というやつだろう。
美咲と2人でいるときにたまに見せる、子供のような無邪気な笑顔。
多分井坂はそういう感じの写真を狙っているらしい。
俺もそんな写真、見てみたいかも。
美咲がポツリとそう言うと、やる気がなさそうだった秋彦の目が変わる。
それを見た井坂と相川は、顔を見合わせてニンマリと笑った。
*****
美咲の写真は笑顔が多いが、コツはあるのか?
真剣な顔でそう聞いてくる秋彦に、美咲は少し考える。
写真を撮るときにどうやって笑うかなんて、考えたことがなかった。
でもいつも無意識のうちに指をVの字にしていた気がする。
そうだ。ピース!ピースしてみたら?
美咲は思いついたことをそのまま口にした。
井坂が「コイツ、バカか?」という顔で美咲を見たが、幸い誰も気付かない。
スクリーンの前に立った秋彦は、真面目に「そうか?」と答えている。
ピース!
かくして掛け声と共に、秋彦は両手でピースサインを作る。
だが表情は完全にシラけており、笑顔とは程遠かった。
そもそもピースサインは指が伸びきっておらず、ぎこちない。
宇佐見秋彦大テンテー、何でこんな簡単なことができないのか。
美咲は、ガックリと肩を落とす。
だがこうなればもう意地だ。
美咲はツカツカと秋彦の横に向かい、並んで立った。
そして「こうだよ!」と両手の腕を伸ばして、渾身のピースを決めた。
*****
美咲君、欲しいのはピースじゃなくて笑顔なんだけど。
相川が絶妙の間で、口を挟んだ。
美咲は思わず「あ」と声を上げる。
確かにビシッとピースを決めた美咲の表情は笑顔と言うよりドヤ顔だ。
いつの間にかピースの方に気を取られてしまったようだ。
その瞬間、秋彦が弾けたように笑い出した。
面白くて仕方がないという、子供のような無邪気な笑いだ。
すかさずカメラマンが、立て続けにシャッターを押す。
そして「OKです」と声がかかったときには、秋彦は目に涙を浮かべていた。
井坂は「さすがチビちゃん」という褒め言葉をくれた。
そしてその月のバイト代は、写真スタジオにいた時間もしっかり加算されていた。
相川は「これで多分、売り上げは2割増、いいえ3割かしら」とウハウハ顔だ。
秋彦は何度も思い出して、爆笑する。
どうやら秋彦の笑いのツボに、見事にはまったようだ。
だが美咲は、もう泣きたい気分だった。
いつの間にかピースに気を取られた自分が恥ずかしいというだけではない。
できあがって本を飾る秋彦の写真は、思いのほか綺麗でかわいかったのだ。
こんな写真は人目に触れさせたくないが、それを口に出すのも癪なのだ。
兄ちゃん、まさかピースでこんな目に合うと思わなかったよ。
美咲は心の中で兄の孝浩に愚痴ることで、どうにか心の平穏を保っている。
【終】
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