手の5題
【腕を組む】
「あ~!!」
急に声を上げたかと思ったら、髪をかきむしる。
そんな恋人の姿に、草間野分はギョッとした。
野分の恋人、上條弘樹は座卓の上のノートパソコンの画面を睨んでいた。
あぐらをかいて腕を組んでいる状態で、時間にすれば約10分、ピクリとも動かない。
10分と言えば短く感じるが、横で見ていた野分からすれば長いし、異様だ。
思わず時間を計ってしまうほどだ。
そろそろ声をかけようかと思った瞬間「あ~!!」という冒頭の叫びとなる。
弘樹がパソコンで長時間の作業をしていることはよくある。
仕事熱心な彼は仕事を持ち帰ってくるのだ。
大学の助教授である彼は自分の論文を書いたり、生徒のレポートをチェックしたりする。
最近は生徒もパソコンでレポートや論文を書く者が多い。
だから最近は紙の文書ではなく、CD-ROMで提出させているという。
ちなみに野分は知らないことだが、弘樹は最後までデータでのレポート提出を拒んでいた。
他の教授たちはもうこの方式に切り替えている者が多い。
印刷しないから生徒たちも楽だし、教授側も持ち歩きが楽なのでどこでもチェックができる。
だが弘樹はどうしても嫌だった。
やはり手書きの文字から伝わってくる思いというものも含めてレポートだと思うからだ。
そんな弘樹がデータ提出に踏み切ったのは、ひとえに野分のためだ。
家で生徒の論文が見られれば、野分と過ごす時間も増える。
ヒロさん、かっこいいなぁ。
何も知らない野分は、パソコンに向かって腕を組む弘樹が好きだった。
基本的には野分にとって「ヒロさん」はかわいい人だ。
だが真剣な表情で論文と向き合う姿はかっこいいと思う。
自分の仕事に誇りを持つプロフェッショナルの姿だ。
*****
「ヒロさん、どうしたんですか?」
野分はゆっくりと弘樹の隣に腰を下ろして、声をかけた。
弘樹は「ああ、悪い」とため息をつく。
大きな声を上げてしまったことへの詫びだろう。
「何か俺に手伝えること、ありますか?」
野分は弘樹の顔を覗きこみながら、聞いた。
弘樹はどうも落ち込んでいるように見える。
パソコンの作業でもいいし、単に愚痴を聞くだけでもいい。
力になりたいと思った。
「これ、知ってる?」
弘樹はノートパソコンの画面を微かに野分の方に傾けて、見せてくれた。
野分は仕事のものを見ていいのかと一瞬迷うが、弘樹が言うのだからいいのだと思い直す。
何かのソフトが起動しているようで「88%」と数字が出ている。
だが野分にはそれが何なのかはわからなかった。
「いえ、知りません。何ですか?」
野分は素直にそう聞くと、弘樹は説明してくれる。
それはいわゆる「論文検索ソフト」と言われるものだ。
ネット上にアップされた様々な論文と比較し、もし引用している文章があればそれを表示する。
大手の図書館にある文献などはほとんど網羅できる優れものだ。
そして既存の論文の引用元と類似率をパーセンテージで表示するものだ。
つまり現在画面に表示されているものは、88%が引用されたもの。
オリジナル部分は12%しかないということになる。
「88%がコピーですか。。。」
「ああ。いろいろな文献を持ってきてうまくつなげてるけど。」
「もはや論文じゃないですね。」
「そう。単なるパクリ。この生徒の論文はいつもよくできてると思ってたんだけどなぁ。」
なるほどそういうことか、と野分は納得した。
しかもパソコンの脇に置かれた生徒の名簿らしきA4用紙を見ると、事態の深刻さがわかる。
印刷された全員の名前の横に「何%」と弘樹の字で走り書きされているからだ。
中には「99%」なんていう恐ろしいものもある。
*****
「うちの大学、出欠のチェックを全部コンピュータで管理しようかって話があるんだ。」
「ああ、学生証をIDカードにするヤツですね。やってる大学、結構あるんですよね?」
「そういう学生を疑うようなやり方は反対だったんだけど、これじゃあ。。。」
学生証をIDカードにして、各教室の前に読み取り機を置く。
そして入退出時は1回しかカードを通せない仕組みを作れば、代返は一切できなくなる。
弘樹はそういうやり方には抵抗があったが、この論文の実態を見れば仕方ないかもしれない。
「そりゃ単位数や時間割の都合で、仕方なく俺の講義を取ったヤツもいるんだろうけど。」
弘樹ががっくりと肩を落としているのを見て、野分は驚いた。
恋愛に対しては不慣れで弱気な弘樹はかわいいが、今回はまさに弘樹の土俵なのだ。
得意分野の文学の世界で、こんなに自信なさ気な弘樹を見ることになるなんて。
「俺がもしヒロさんの講義をいろいろな都合で仕方なく取ったとしても。」
「え?」
野分の言葉に、弘樹は顔を上げる。
独り言のつもりだったから、答えが返ってくるとは思わなかったのだ。
「俺は絶対に文学が好きになりますよ。毎回ヒロさんの講義が楽しみになります!」
野分の勢いに驚いた弘樹は、一瞬ポカンとしたものの、次の瞬間には笑い出した。
あまりにも一生懸命に励まそうとしてくれる野分の力み方がおかしくて。
でもそれ以上に心からそう言ってくれるのが、嬉しかったからだ。
*****
「そうだな。俺がもっと面白い講義をすればいいだけだな。」
弘樹は力強くそう言うと、また腕を組む。
そして「引用率」の数字が書かれたリストを見ながら、ニヤリと笑った。
引用の確率が高い論文の生徒たちはとりあえず書き直し。
そしてこの上條の講義を受けられる幸運をしっかりと説教してやる。
弘樹はそんな事をブツブツと呟きながら、リストにチェックを入れていく。
「ヒロさん、かっこいいです。」
野分はそんな弘樹の様子を、惚れ惚れと眺めた。
腕を組んで、自信に満ちた表情で、仕事をする弘樹が好きだと思う。
弘樹が「うるせーよ」と照れ隠しの文句を言っても、野分の笑顔は揺るがない。
「あ、でも『0%』ってコもいますね。例えばほら」
野分が指差した名前を見て、弘樹は思わず顔をしかめる。
その妙な反応に、野分は怪訝な表情で弘樹を見た。
「コイツの論文、論理が飛躍してて、時々意味不明なんだ。」
「意味不明?」
「何か好きな漫画のストーリーと比べてどうこうとか書いてたり」
「でもその人は間違いなくコピーなんかしてないですね。」
「だけど俺は漫画読まねーから、わからないし。」
野分が指差したその名は、高橋美咲。
漫画「ザ☆漢」をこよなく愛し、論文にもついついその気持ちを書き連ねてしまう学生だ。
【終】
「あ~!!」
急に声を上げたかと思ったら、髪をかきむしる。
そんな恋人の姿に、草間野分はギョッとした。
野分の恋人、上條弘樹は座卓の上のノートパソコンの画面を睨んでいた。
あぐらをかいて腕を組んでいる状態で、時間にすれば約10分、ピクリとも動かない。
10分と言えば短く感じるが、横で見ていた野分からすれば長いし、異様だ。
思わず時間を計ってしまうほどだ。
そろそろ声をかけようかと思った瞬間「あ~!!」という冒頭の叫びとなる。
弘樹がパソコンで長時間の作業をしていることはよくある。
仕事熱心な彼は仕事を持ち帰ってくるのだ。
大学の助教授である彼は自分の論文を書いたり、生徒のレポートをチェックしたりする。
最近は生徒もパソコンでレポートや論文を書く者が多い。
だから最近は紙の文書ではなく、CD-ROMで提出させているという。
ちなみに野分は知らないことだが、弘樹は最後までデータでのレポート提出を拒んでいた。
他の教授たちはもうこの方式に切り替えている者が多い。
印刷しないから生徒たちも楽だし、教授側も持ち歩きが楽なのでどこでもチェックができる。
だが弘樹はどうしても嫌だった。
やはり手書きの文字から伝わってくる思いというものも含めてレポートだと思うからだ。
そんな弘樹がデータ提出に踏み切ったのは、ひとえに野分のためだ。
家で生徒の論文が見られれば、野分と過ごす時間も増える。
ヒロさん、かっこいいなぁ。
何も知らない野分は、パソコンに向かって腕を組む弘樹が好きだった。
基本的には野分にとって「ヒロさん」はかわいい人だ。
だが真剣な表情で論文と向き合う姿はかっこいいと思う。
自分の仕事に誇りを持つプロフェッショナルの姿だ。
*****
「ヒロさん、どうしたんですか?」
野分はゆっくりと弘樹の隣に腰を下ろして、声をかけた。
弘樹は「ああ、悪い」とため息をつく。
大きな声を上げてしまったことへの詫びだろう。
「何か俺に手伝えること、ありますか?」
野分は弘樹の顔を覗きこみながら、聞いた。
弘樹はどうも落ち込んでいるように見える。
パソコンの作業でもいいし、単に愚痴を聞くだけでもいい。
力になりたいと思った。
「これ、知ってる?」
弘樹はノートパソコンの画面を微かに野分の方に傾けて、見せてくれた。
野分は仕事のものを見ていいのかと一瞬迷うが、弘樹が言うのだからいいのだと思い直す。
何かのソフトが起動しているようで「88%」と数字が出ている。
だが野分にはそれが何なのかはわからなかった。
「いえ、知りません。何ですか?」
野分は素直にそう聞くと、弘樹は説明してくれる。
それはいわゆる「論文検索ソフト」と言われるものだ。
ネット上にアップされた様々な論文と比較し、もし引用している文章があればそれを表示する。
大手の図書館にある文献などはほとんど網羅できる優れものだ。
そして既存の論文の引用元と類似率をパーセンテージで表示するものだ。
つまり現在画面に表示されているものは、88%が引用されたもの。
オリジナル部分は12%しかないということになる。
「88%がコピーですか。。。」
「ああ。いろいろな文献を持ってきてうまくつなげてるけど。」
「もはや論文じゃないですね。」
「そう。単なるパクリ。この生徒の論文はいつもよくできてると思ってたんだけどなぁ。」
なるほどそういうことか、と野分は納得した。
しかもパソコンの脇に置かれた生徒の名簿らしきA4用紙を見ると、事態の深刻さがわかる。
印刷された全員の名前の横に「何%」と弘樹の字で走り書きされているからだ。
中には「99%」なんていう恐ろしいものもある。
*****
「うちの大学、出欠のチェックを全部コンピュータで管理しようかって話があるんだ。」
「ああ、学生証をIDカードにするヤツですね。やってる大学、結構あるんですよね?」
「そういう学生を疑うようなやり方は反対だったんだけど、これじゃあ。。。」
学生証をIDカードにして、各教室の前に読み取り機を置く。
そして入退出時は1回しかカードを通せない仕組みを作れば、代返は一切できなくなる。
弘樹はそういうやり方には抵抗があったが、この論文の実態を見れば仕方ないかもしれない。
「そりゃ単位数や時間割の都合で、仕方なく俺の講義を取ったヤツもいるんだろうけど。」
弘樹ががっくりと肩を落としているのを見て、野分は驚いた。
恋愛に対しては不慣れで弱気な弘樹はかわいいが、今回はまさに弘樹の土俵なのだ。
得意分野の文学の世界で、こんなに自信なさ気な弘樹を見ることになるなんて。
「俺がもしヒロさんの講義をいろいろな都合で仕方なく取ったとしても。」
「え?」
野分の言葉に、弘樹は顔を上げる。
独り言のつもりだったから、答えが返ってくるとは思わなかったのだ。
「俺は絶対に文学が好きになりますよ。毎回ヒロさんの講義が楽しみになります!」
野分の勢いに驚いた弘樹は、一瞬ポカンとしたものの、次の瞬間には笑い出した。
あまりにも一生懸命に励まそうとしてくれる野分の力み方がおかしくて。
でもそれ以上に心からそう言ってくれるのが、嬉しかったからだ。
*****
「そうだな。俺がもっと面白い講義をすればいいだけだな。」
弘樹は力強くそう言うと、また腕を組む。
そして「引用率」の数字が書かれたリストを見ながら、ニヤリと笑った。
引用の確率が高い論文の生徒たちはとりあえず書き直し。
そしてこの上條の講義を受けられる幸運をしっかりと説教してやる。
弘樹はそんな事をブツブツと呟きながら、リストにチェックを入れていく。
「ヒロさん、かっこいいです。」
野分はそんな弘樹の様子を、惚れ惚れと眺めた。
腕を組んで、自信に満ちた表情で、仕事をする弘樹が好きだと思う。
弘樹が「うるせーよ」と照れ隠しの文句を言っても、野分の笑顔は揺るがない。
「あ、でも『0%』ってコもいますね。例えばほら」
野分が指差した名前を見て、弘樹は思わず顔をしかめる。
その妙な反応に、野分は怪訝な表情で弘樹を見た。
「コイツの論文、論理が飛躍してて、時々意味不明なんだ。」
「意味不明?」
「何か好きな漫画のストーリーと比べてどうこうとか書いてたり」
「でもその人は間違いなくコピーなんかしてないですね。」
「だけど俺は漫画読まねーから、わからないし。」
野分が指差したその名は、高橋美咲。
漫画「ザ☆漢」をこよなく愛し、論文にもついついその気持ちを書き連ねてしまう学生だ。
【終】
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