五雨
【雨夜】雨の降る夜
夕方、受講している授業を全部受けた後、美咲は大学を出た。
今日はバイトもないので、まっすぐマンションに戻る。
雨の中を歩くその足取りは、どうにも重い。
今日の昼間、ここ何日か美咲をつけ回していたらしい青年と話をした。
秋彦もその場に同席して、その理由もはっきりした。
青年は美咲に謝罪してくれたし、今日のうちに警察に出頭するとも言っていた。
全部解決したし、すっきりしたはずなのに。
秋彦の表情だけは冴えなかった。
いつもの秋彦だったら、講義が終わる頃に迎えに来ると言っただろう。
過保護で、美咲に関しては独占欲が強い秋彦はとにかく行動を共にしたがる。
だが秋彦は、学生食堂で青年と別れた後「じゃあ」と言って、帰ってしまった。
さっさと身を翻した後は、美咲の方を見ようともしなかった。
何でそんなに素っ気ないんだ?
美咲は秋彦の後ろ姿を見送りながら、そう思った。
その後美咲は講義があったのだから、一緒に帰れないのはわかっている。
だが秋彦のことだから「後で迎えに来る」くらいは言うと思っていたのだ。
まったく矛盾する感情なのだと美咲もよくわかっている。
美咲は常日頃から、秋彦が迎えに来ることを嫌がっていた。
庶民ばかりが通う大学で、高級車で乗り付ける秋彦は目立ちすぎるからだ。
それでもここまで素っ気ない態度を取られると「迎えに来ないのかよ!」とツッコミたくなる。
ひょっとして怒らせてしまったのだろうか?
確かに迷惑をかけてしまったし、何か知らないうちに不用意なことを言ったかもしれない。
とにかくグルグルと考えてしまっていて、足取りも重くなっていた。
*****
「ウサギさん、いろいろゴメン。」
その夜、食事を終えた後のリビングで。
美咲は向かい合って座る秋彦に頭を下げた。
秋彦にはいろいろ迷惑をかけてしまった。
美咲はお詫びの意味を込めて、夕飯は秋彦の好物を並べた。
それなのに秋彦はほとんどそのメニューには関心を示さなかった。
何か考え込んでいるようで、口数も少ない。
かと思えば、美咲の顔をジッと見ていたりする。
昼間と同様、明らかに普段の秋彦とは様子が違った。
「なんでお前があやまるんだ?」
不思議そうな顔で聞いてくる秋彦は、美咲の葛藤など気付いていないらしい。
美咲はちょっと拍子抜けした気分で「怒ってるんじゃないの?」と聞き返す。
秋彦はかすかに首を傾げると「何で?」という顔だ。
「ウサギさん、何かずっと不機嫌じゃん。」
「そうか?」
「いろいろ迷惑かけたし。怒ってるんだろ?」
「はぁ?」
美咲が思い切って切り出すと、秋彦はついに声を上げる。
今回の1件ですっきりしないのは同じだが、考えていることは微妙にすれ違っているようだ。
2人の間に一瞬、沈黙が下りた。
降り続く雨の音だけが、室内に響いている。
誤解があるならキチンと解かなくてはいけない。
美咲はスッと息を吸い込むと、意を決して口を開いた。
*****
「俺、今度は自分でちゃんと解決するようにするから。だから」
「違う」
秋彦は美咲の言葉を遮った。
確かに今回の1件で考え込んでしまっていたが、そのことで美咲に誤解をさせたようだ。
美咲のことが好きなのに、どうしていつもこんなに不安にさせてしまうのだろう。
秋彦は自分の不甲斐なさに、思わずため息をついてしまう。
「今回のことは俺のせいだ。」
「え?何で?」
今度は美咲の方がポカンとした表情になる。
やはり人の良い美咲は自分以外の誰かに責任があるなどとは思わなかったらしい。
「あの男がお前を尾行したのは、お前の顔に見覚えがあったからだろう?」
「あ~そんなことを言ってたね。」
「何で見覚えがあったかっていうと、俺がお前を車で送り迎えしていたからだ。」
「ウサギさん、目立つからね。」
「つまり俺のせいで、お前は何日も気持ち悪い思いをしてたわけだろう。」
「ええ~?違うよ!」
最初はのほほんと応じていた美咲の声が裏返る。
美咲は咄嗟に否定したが、秋彦にとってはそれが事実。
事故の現場から1度逃げた青年が美咲を補足できたのは、秋彦と一緒の姿を覚えられていたせいだ。
幸いと言うべきか、犯人(?)は気が弱く、美咲をつけ回すもののそれ以上のことをしなかった。
だがもし思い切って何かの凶行に及び、美咲が危険な目にでも合っていたら。
それを考えると秋彦はゾッとして、未だに生きた心地がしなくなるのだ。
*****
「でもさ、ウサギさんのおかげで、あの人と話ができたんだよ?」
「あの人とちゃんと話せて、あの事故が大したことなかったって教えてあげられたし。」
「同じ大学だったんだから、結局顔を合わせたかもしれないだろ。」
「それでいきなり声をかけられるよりはちゃんと心構えができたし。これでよかったんだよ。」
ようやく秋彦が考えていることがわかった美咲は、懸命に言葉を紡いだ。
まさか秋彦が自分のせいだと思っているなんて、考えもしなかった。
だがあくまで前向きな美咲は、自分が襲われる可能性など少しも考えていない。
あの青年と向かい合い、すべてが解決したことを単純に喜んでいた。
「何かあってからじゃ遅いんだぞ!」
「バカウサギ!大きな声を出すなよ!」
思わず声を荒げた秋彦に、驚いた美咲も負けずに大声で応じる。
そして秋彦を睨みつけた瞬間、秋彦の身体がかすかに震えていることに気がついた。
「怪我でもさせられたら、それが俺のせいだったら。絶対に耐えられない。」
秋彦は打って変わって気弱な口調でそう言った。
そして立ち上がり、美咲の隣に腰を下ろす。
「俺のせいで危険な目にあうくらいなら、手放したほうがいいのかって考えた。」
「ウサギさん。。。」
「だけどもう、お前なしで生きていける自信がないんだ。。。」
こんなにも心配をかけたのか。
いつも自信に満ち溢れた秋彦の苦しげな横顔に、美咲は切なくなった。
*****
「ゴメン。これからはもっと早く言うから。」
美咲はそう言って、秋彦の胸に身体を寄せた。
めったに無い美咲からの抱擁に、秋彦は驚き、絶句する。
「何日も悩む前にウサギさんにちゃんと言う!だから大丈夫だよ。」
「美咲」
「今回は乗り切ったんだ。次はもっとうまくやろう。って次がないのが一番だけどさ。」
「そう、だな。」
秋彦はそっと背中に腕を回す。
そして美咲が身体を秋彦を預けようとした瞬間、一転してソファに押し倒した。
抱きしめられるのだと思った美咲の裏をかく形になった。
「な、何するんだ、このエロウサギ!」
「心配事がなくなったら、抱きたくなった」
秋彦は美咲のシャツの裾をまくり、素肌に手のひらを這わせながら囁いた。
我ながら変わり身が早いと思ったが、仕方ない。
「これから」とか「次は」なんて、ずっと一緒にいようと言っているのと同じだ。
屈託の無い瞳でそんなことを言われたら、もう悩むのも馬鹿馬鹿しくなった。
「美咲、好きだよ」
「何だ、それ!っていうか今までのシリアスな空気はどこ行った!」
「うるさい」
美咲がいつものように騒いでいるが、もう関係ない。
口では何だかんだと言いながら、美咲はいつも逆らわない。
秋彦が仕掛ける行為に、全身で感じて乱れてくれる。
2人の距離がまた少し近づいた雨夜。
秋彦も美咲も心穏やかに、恋人の体温を感じていた。
【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
夕方、受講している授業を全部受けた後、美咲は大学を出た。
今日はバイトもないので、まっすぐマンションに戻る。
雨の中を歩くその足取りは、どうにも重い。
今日の昼間、ここ何日か美咲をつけ回していたらしい青年と話をした。
秋彦もその場に同席して、その理由もはっきりした。
青年は美咲に謝罪してくれたし、今日のうちに警察に出頭するとも言っていた。
全部解決したし、すっきりしたはずなのに。
秋彦の表情だけは冴えなかった。
いつもの秋彦だったら、講義が終わる頃に迎えに来ると言っただろう。
過保護で、美咲に関しては独占欲が強い秋彦はとにかく行動を共にしたがる。
だが秋彦は、学生食堂で青年と別れた後「じゃあ」と言って、帰ってしまった。
さっさと身を翻した後は、美咲の方を見ようともしなかった。
何でそんなに素っ気ないんだ?
美咲は秋彦の後ろ姿を見送りながら、そう思った。
その後美咲は講義があったのだから、一緒に帰れないのはわかっている。
だが秋彦のことだから「後で迎えに来る」くらいは言うと思っていたのだ。
まったく矛盾する感情なのだと美咲もよくわかっている。
美咲は常日頃から、秋彦が迎えに来ることを嫌がっていた。
庶民ばかりが通う大学で、高級車で乗り付ける秋彦は目立ちすぎるからだ。
それでもここまで素っ気ない態度を取られると「迎えに来ないのかよ!」とツッコミたくなる。
ひょっとして怒らせてしまったのだろうか?
確かに迷惑をかけてしまったし、何か知らないうちに不用意なことを言ったかもしれない。
とにかくグルグルと考えてしまっていて、足取りも重くなっていた。
*****
「ウサギさん、いろいろゴメン。」
その夜、食事を終えた後のリビングで。
美咲は向かい合って座る秋彦に頭を下げた。
秋彦にはいろいろ迷惑をかけてしまった。
美咲はお詫びの意味を込めて、夕飯は秋彦の好物を並べた。
それなのに秋彦はほとんどそのメニューには関心を示さなかった。
何か考え込んでいるようで、口数も少ない。
かと思えば、美咲の顔をジッと見ていたりする。
昼間と同様、明らかに普段の秋彦とは様子が違った。
「なんでお前があやまるんだ?」
不思議そうな顔で聞いてくる秋彦は、美咲の葛藤など気付いていないらしい。
美咲はちょっと拍子抜けした気分で「怒ってるんじゃないの?」と聞き返す。
秋彦はかすかに首を傾げると「何で?」という顔だ。
「ウサギさん、何かずっと不機嫌じゃん。」
「そうか?」
「いろいろ迷惑かけたし。怒ってるんだろ?」
「はぁ?」
美咲が思い切って切り出すと、秋彦はついに声を上げる。
今回の1件ですっきりしないのは同じだが、考えていることは微妙にすれ違っているようだ。
2人の間に一瞬、沈黙が下りた。
降り続く雨の音だけが、室内に響いている。
誤解があるならキチンと解かなくてはいけない。
美咲はスッと息を吸い込むと、意を決して口を開いた。
*****
「俺、今度は自分でちゃんと解決するようにするから。だから」
「違う」
秋彦は美咲の言葉を遮った。
確かに今回の1件で考え込んでしまっていたが、そのことで美咲に誤解をさせたようだ。
美咲のことが好きなのに、どうしていつもこんなに不安にさせてしまうのだろう。
秋彦は自分の不甲斐なさに、思わずため息をついてしまう。
「今回のことは俺のせいだ。」
「え?何で?」
今度は美咲の方がポカンとした表情になる。
やはり人の良い美咲は自分以外の誰かに責任があるなどとは思わなかったらしい。
「あの男がお前を尾行したのは、お前の顔に見覚えがあったからだろう?」
「あ~そんなことを言ってたね。」
「何で見覚えがあったかっていうと、俺がお前を車で送り迎えしていたからだ。」
「ウサギさん、目立つからね。」
「つまり俺のせいで、お前は何日も気持ち悪い思いをしてたわけだろう。」
「ええ~?違うよ!」
最初はのほほんと応じていた美咲の声が裏返る。
美咲は咄嗟に否定したが、秋彦にとってはそれが事実。
事故の現場から1度逃げた青年が美咲を補足できたのは、秋彦と一緒の姿を覚えられていたせいだ。
幸いと言うべきか、犯人(?)は気が弱く、美咲をつけ回すもののそれ以上のことをしなかった。
だがもし思い切って何かの凶行に及び、美咲が危険な目にでも合っていたら。
それを考えると秋彦はゾッとして、未だに生きた心地がしなくなるのだ。
*****
「でもさ、ウサギさんのおかげで、あの人と話ができたんだよ?」
「あの人とちゃんと話せて、あの事故が大したことなかったって教えてあげられたし。」
「同じ大学だったんだから、結局顔を合わせたかもしれないだろ。」
「それでいきなり声をかけられるよりはちゃんと心構えができたし。これでよかったんだよ。」
ようやく秋彦が考えていることがわかった美咲は、懸命に言葉を紡いだ。
まさか秋彦が自分のせいだと思っているなんて、考えもしなかった。
だがあくまで前向きな美咲は、自分が襲われる可能性など少しも考えていない。
あの青年と向かい合い、すべてが解決したことを単純に喜んでいた。
「何かあってからじゃ遅いんだぞ!」
「バカウサギ!大きな声を出すなよ!」
思わず声を荒げた秋彦に、驚いた美咲も負けずに大声で応じる。
そして秋彦を睨みつけた瞬間、秋彦の身体がかすかに震えていることに気がついた。
「怪我でもさせられたら、それが俺のせいだったら。絶対に耐えられない。」
秋彦は打って変わって気弱な口調でそう言った。
そして立ち上がり、美咲の隣に腰を下ろす。
「俺のせいで危険な目にあうくらいなら、手放したほうがいいのかって考えた。」
「ウサギさん。。。」
「だけどもう、お前なしで生きていける自信がないんだ。。。」
こんなにも心配をかけたのか。
いつも自信に満ち溢れた秋彦の苦しげな横顔に、美咲は切なくなった。
*****
「ゴメン。これからはもっと早く言うから。」
美咲はそう言って、秋彦の胸に身体を寄せた。
めったに無い美咲からの抱擁に、秋彦は驚き、絶句する。
「何日も悩む前にウサギさんにちゃんと言う!だから大丈夫だよ。」
「美咲」
「今回は乗り切ったんだ。次はもっとうまくやろう。って次がないのが一番だけどさ。」
「そう、だな。」
秋彦はそっと背中に腕を回す。
そして美咲が身体を秋彦を預けようとした瞬間、一転してソファに押し倒した。
抱きしめられるのだと思った美咲の裏をかく形になった。
「な、何するんだ、このエロウサギ!」
「心配事がなくなったら、抱きたくなった」
秋彦は美咲のシャツの裾をまくり、素肌に手のひらを這わせながら囁いた。
我ながら変わり身が早いと思ったが、仕方ない。
「これから」とか「次は」なんて、ずっと一緒にいようと言っているのと同じだ。
屈託の無い瞳でそんなことを言われたら、もう悩むのも馬鹿馬鹿しくなった。
「美咲、好きだよ」
「何だ、それ!っていうか今までのシリアスな空気はどこ行った!」
「うるさい」
美咲がいつものように騒いでいるが、もう関係ない。
口では何だかんだと言いながら、美咲はいつも逆らわない。
秋彦が仕掛ける行為に、全身で感じて乱れてくれる。
2人の距離がまた少し近づいた雨夜。
秋彦も美咲も心穏やかに、恋人の体温を感じていた。
【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
5/5ページ