五雨

【雨注ぎ】あまだれのこと

「アイツに何の用だ?」
秋彦はその男の背中に声をかけた。
男がビクリと身体を震わせて、恐る恐る振り向く。
まだ少年のような幼い面立ちの男が、怯えたように秋彦を見上げていた。

「ウサギさんに聞いてほしい話があるんだ。」
「ひょっとして、迷惑をかけるかもしれないんだけど」
美咲がそう切り出したとき、正直言って嬉しかった。
美咲は「迷惑をかける」というキーワードにひどく敏感で、とにかく隠すからだ。
そのくせその隠し方が下手で「隠してます」オーラが全開だったりする。
そんな美咲が「迷惑をかけるかも」と言った。
自分から踏み出してくれたことが、本当に嬉しいと思った。

だがその内容は、深刻なものだった。
美咲は「ここ何日かずっと誰かに見られてる気がする」と言うのだ。
前置きよりも短いその内容は、秋彦を震撼させた。
美咲本人は「知らないうちに誰かに恨まれてるのかなぁ?」と困ったように笑った。
だけど秋彦としては気が気ではない。
とにかく美咲が好きな秋彦が、いつも考えている。
秋彦と同じ気持ちで美咲を見る者が現れる可能性は充分ありえるということを。

*****

「何でアイツをつけ回してた?」
秋彦はなおも怯えた表情の男に詰め寄った。
美咲に打ち明けられた翌日から、秋彦は動いた。
秋彦は美咲に張り付いて、監視を始めたのだ。

美咲は気のせいかもしれないと言った。
もっと美咲本人が確信を持っていれば、すぐに警察へ通報しただろう。
だが問い詰めるとどんどん自信なさ気になる美咲に、秋彦は自ら監視することにしたのだ。
けれどほんの1日監視するだけで、すぐに目的の人物は見つかった。
ちなみに秋彦の男への印象は「若い」だ。
男は美咲とさほど年齢が変わらないように見えた。

それにしても下手くそな尾行だ。
秋彦はその人物を見つけたとき、思わず失笑してしまった。
本当に挙動不審なのだ。
美咲に見つかりたくないばかりに、距離はかなり取っている。
だから例えば美咲が角を曲がったりした場合は、かなりの距離を全力疾走だ。
そして息を切らしながら、また距離を取る。
あまりにも必死な形相と滑稽な動きは、まるでコントだ。
秋彦は笑いをこらえるのが大変だった。

それに秋彦にはあまり自覚はないが、秋彦自身はどこにいても注目を浴びる。
その秋彦に尾行されて気付かないあたりに、彼の余裕のなさがうかがえる。
とにかく監視初日に尾行者は見つかったが、念のために翌日も監視した。
そして3日目の今日、秋彦は彼を捕まえたのだった。

*****

「どこかでお会いしました?」
男を前にした美咲の第一声はそれだった。
秋彦が男を捕まえて問い詰めたところ、男はなんとM大生だったのだ。
そこでここ、M大の学生食堂で美咲と秋彦は男と向かい合っている。

窓際の席に陣取った3人の間には、重い空気が立ち込めていた。
奇しくも窓の外はまた雨で、窓には歪な水玉模様ができている。
雨注ぎは、まるで閉じ込められているような圧迫感を醸し出していた。
普段は人気で、なかなか座れない窓際の席なのに。

「アンタ、俺に見覚えない?」
男は信じられないという表情で、美咲を見た。
だが美咲は本当に記憶になく「すみません」と首を振る。
秋彦は何でストーカーまがいの男に敬語なのかと、美咲の人のよさに呆れていた。

「何だよ、それ!俺、アンタに見られたと思ってっ」
「見られた?俺にですか?」
そう言われても、やっぱり美咲にはわからない。
助けを求めるように秋彦を見上げたが、秋彦にだってわからないのだ。

「俺が!あの事故を引き起こしたことだよ!」
「もしかして、あの雨の日の車の事故?」
「そうだよ!だからアンタがそれを誰かに話さないかって、心配で。。。」
「話すも何も、何のことかわからないんですが。」

「どういうことか説明しろ。」
かみ合わない2人の会話に焦れた秋彦が、口を挟む。
その口調には隠すこともない怒りがこめられていた。

*****

「あの日、俺、急いでて。よく確認もしないで、道路に飛び出したんだ。」
「え。。。?」
「あの車、その俺を避けて、電柱に突っ込んだんだよ!それをアンタに見られたと思って。。。」
「俺は、見てない。。。」

「何で見られたと思ったんだ?」
2人のやり取りを聞いていた秋彦がそう聞いた。
どうやらようやく見えてきた。
この男はあの雨の日の事故の原因となる行動を取ったのだ。
そしてそのことを美咲に目撃されたと思っているらしい。

「アンタ、雨の中でズブ濡れになりながら、俺を見てた。」
「それは、事故に驚いて。。。」
「俺を睨んでた!だから俺、アンタがそれを誰かに話すのが心配で。」
「だから俺を尾行してたんだ。。。」

男はどうやらかなり小心者なのだと、秋彦は結論づけた
事故の原因であることのプレッシャーに耐えられず、警察に出頭するだけの勇気もない。
目撃者(?)の美咲が誰かに話すのも怖いが、その美咲に声をかけることもできない。
その結果、美咲のことをまるでストーカーのように監視していたということだ。

だが同時に美咲のことを思うと、切ない気持ちになる。
美咲は雨の中をただ1点を見つめて、立ち尽くしていた。
心に疚しいことがある者には、睨んでいるように見えるほどの形相だったのだ。
やはり美咲の心の傷は、まだ完全には癒えていない。
雨の日にちょっとした事故を見ただけで、動けなくなってしまうのだ。

*****

「事故にあった人がどうなったか、知ってる?」
美咲が今にも泣き出しそうな男に、そう聞いた。
男はガックリと肩を落として、首を振る。
美咲は微かに苦笑しながら、男との距離を1歩縮めた。

「運転していた人、怪我はしてないみたいだった。少なくても自力で歩いてたよ。」
「え?」
「君がそこまで怯えるほどの事故じゃなかったんだよ。」
「そんな。。。」
「警察に行った方がいいよ。そんなに大変なことにはならないと思う。」

事情が飲み込めた美咲が、男を諭し始めた。
確かに男の反応は、かなり大げさだ。
秋彦も美咲から視線を感じるという話を聞かされても、この事故とは結びつかなかった。
なぜなら美咲から聞く限り、事故自体は大した話ではないということだ。
男が怖くて逃げてしまい、想像で事故を大きなものにしてしまったのなら納得だ。
だがそうすると、1つ疑問が生じる。

「どうしてコイツのことを尾行できたんだ?」
秋彦は美咲を指差しながら、男にそう聞いた。
事故を最後まで見届けず立ち去ったのなら、その後どうやって美咲のことを知ったのか?
面識もないようだし、住所や学校を知るのは不可能なはずだ。

「だってこの人はM大では有名だから。作家の宇佐見秋彦に高級外車で送迎されてるって。」
男の言葉に、美咲は「あ~、そういうことかぁ」と苦笑する。
だが秋彦は、そのことに衝撃を受けていた。

秋彦のせいで、美咲は不特定多数の人間に顔を知られている。
それは美咲にとって、危険なことではないのだろうか?
雨注ぎは、秋彦に心にもシミのような不安を滲ませた。

【続く】
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