五雨

【雨障】雨に妨げられて外出できないこと

あれ?
美咲は気配を感じて振り返った。
だがいつもと変わらない見慣れた風景が広がっているだけだ。
それでも拭えない違和感に、美咲は首を傾げた。

雨に濡れたせいで高熱を出した美咲だったが、体調はすぐによくなった。
秋彦の看病もあったし、元々身体は丈夫なほうだ。
さほどこじらせることもなく、元の生活に戻った。

秋彦は美咲の心の傷を心配していたようだが、それもなかった。
正直なところ、あの雨の日の事故はショックではあった。
だが事故自体は大したことがなかったことで、ホッとしたという思いが強い。
そして何より、秋彦の存在が心強かった。

落ち込んでも、転んでも、支えてくれる人がいる。
そう思うだけで、何があっても大丈夫だと思えた。
もちろん秋彦本人には、間違ってもそんなことを言う気はなかったが。

それでも心配性の秋彦は、未だに美咲を心配する。
今日も空模様が怪しいのを見て「大学を休んだらどうだ?」などと言い出した。
雨で外出できないことを古い言葉で雨障、「あまさわり」とか「あまつつみ」というらしい。
だが雨具が充実したこの現代、雨のたびに家にこもるなど過保護もいいところだ。、

*****

「誰。。。」
美咲は立ち止まって、辺りを見回した。
大学の正面入口前、ちょうどあと少しで講義が始まる時間帯。
大勢の学生が校舎に入っていく中、1人立ち止まった美咲の動きは浮いていた。

だが今、人の視線を感じたのだ。
明らかに入口から校舎に向かう美咲の動きを追っていた。
美咲は懸命に視線の主を捜したが、どこから見ていたのかはかはわからない。

そのうちに勢いよく走ってきた男子学生が、美咲と接触した。
もうすぐ講義が始めるので、急いでいたのだろう。
美咲と肩がぶつかり、お互いよろめく。
確かに1人だけ立ち止まって、キョロキョロと辺りを見回す美咲は通行の邪魔だ。
思い切り舌打ちをする相手に、美咲は慌てて「すみません」と頭を下げた。

気のせいだったのだろうか?
美咲は納得がいかないまま歩き出した。
確かに誰かに見られていたと感じたが、今はもう何もない。
そもそも誰にしろ、美咲を見る理由が思いつけない。
かわいい女の子でもないのだし、面白くも何ともないだろう。

もうすぐ講義が始まってしまう。
美咲は慌てて、小走りで教室へ急いだ。
そして教室に着く頃にはどうでもよくなり、授業が終わる頃にはすっかり忘れてしまった。

*****

「それってさ、あの先生のせいじゃない?」
明るい口調でそう言ったのは、藤堂進之介。
美咲が落とした「ザ☆漢」のストラップを拾ってくれた縁で知り合った友人だ。
話をするうちにすっかり意気投合して、親しくなったのだ。
こうして時間が合えば、学生食堂で向かい合って一緒に昼食をとったりする。

「ウサギさんのせい?」
聞き捨てならない言葉に、美咲の箸が止まった。
あの日以来、美咲はよく視線を感じるようになったのだ。
大学の構内、バイト先、家の近所。
あちこちで視線が貼り付いているような気がしてならない。
それを藤堂に話した結果、返ってきた答えがそれだった。

「例えば先生のファンで、よく一緒にいる高橋に嫉妬してる、とか。」
藤堂の意見はもっともだと思う。
彼は秋彦と面識があり、ついでに薫子や水樹にまで会っている。
秋彦は良くも悪くも存在感たっぷりな男なのだ。
内面はともかく姿形は美しく、ベストセラー作家で、金回りがよさそうな身なり。
傍にいることが多い美咲が目をつけられる可能性は、低くないだろう。

「違う気がするんだよなぁ。。。」
再び箸を動かしながら、美咲はポツリと呟いた。
美咲は大学に入学してから、ずっと友人ができなかった時期がある。
程なくしてわかったのは、原因はやはり秋彦だった。
あの宇佐見秋彦に高級車で送迎させる美咲は、他の学生たちに引かれてしまい、距離を置かれた。
そのときにも微妙な視線を感じたが、どうも質が違うような気がするのだ。

まだ見ぬ宇佐見という姓を持つ誰かなのかと考えたりもしたが、それも違う。
秋彦と血縁関係を持つ者は、美咲を遠巻きに見るような真似はしない。
堂々と美咲の前に立ち、言いたいことを言うだろう。
おそらくは美咲にとっては、あまり愉快ではない言葉で。

*****

「宇佐見先生に相談したら?大家さんなんだろ?」
藤堂はまたしても、至極もっともなことを言った。
秋彦と美咲の本当の関係を知らない藤堂の言葉は無邪気なものだ。
だが美咲は「そう、だね」と曖昧に言葉を濁した。

迷惑をかけたくない。
まず最初にどうしてもそう思ってしまうのだ。
いくら秋彦に「メーワクかけろ」と言われても、これは変わらない。

まして秋彦は、今修羅場真っ最中だ。
ただでさえ筆が遅いくせに、美咲が熱を出している間は慣れない看病にかかりきっていた。
レトルトの粥や缶詰のフルーツを皿に盛るだけの作業が、秋彦には重労働だったのだ
今頃きっとマンションでは、相川が悲鳴を上げているに違いない。

「いよいよヤバくなったら言えよ。俺でできることならするし。」
藤堂の人懐っこい笑顔に、美咲は申し訳ない気持ちになった。
迷惑をかけたくないと言いながらも、やはり得体の知れない視線は怖いし、不安だった。
だからたまたま顔を合わせた藤堂に話してしまったのだ。
秋彦に迷惑をかけたくないと言いながら、結果的に藤堂に迷惑をかけている。

どうしても誰かに迷惑をかけなければならないのだとしたら。
やはりその相手は美咲を誰よりも大事にしてくれている人-秋彦であるべきだ。

*****

「すみません。俺が熱なんか出したせいで。。。」
「いいのよ、美咲君!じゃあまた!」
ちょうど秋彦の原稿が上がったばかりらしい。
大学から帰宅した美咲と入れ違うように、相川がマンションから飛び出していく。
もう何日寝ていないのか、相川は髪もくしゃくしゃで、目も血走っていた。
せっかくの美人なのに、これでは台無しだ。

「ウサギさん、いつもいつもこんな事じゃ相川さんがかわいそうだよ。」
ただいまより先に、美咲は思わずそう言った。
だが秋彦は「アイツが勝手に騒いでいるだけだ。」と涼しい顔だ。
どうして締め切りを破っている男がこんなに偉そうなのか。
まったく理解できない。

「あのさ、ウサギさん。話があるんだけど。。。」
「相川の話なら、聞かないぞ。」
「違うよ。あの。。。」
どうやら機嫌が悪い秋彦に、美咲は思わず口ごもる。
やはり迷惑をかけることは言わない方がいいのだろうか。

だが美咲は思い直した。
このままじゃいつまでも雨障のままだ。
雨に妨げられて外出できないままではいけない。
勇気を出して雨の中に踏み出さなければ、秋彦をまた傷つける。

「ウサギさんに聞いてほしい話があるんだ。」
「改まってどうしたんだ?」
「ひょっとして、迷惑をかけるかもしれないんだけど」
秋彦はただならぬ決意が伝わったのか、黙って美咲の言葉を待っている。
美咲はスッと息を吸い込むと、思い切って話し始めた。

【続く】
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