五雨

【雨霧】小雨のような霧

「だから休めと言ったんだ。」
宇佐見秋彦はうんざりした声で言った。
美咲はベットに沈んだまま「うぅ」と唸るような声を上げた。

ほかの人に迷惑をかけたくない。
それは一般的には長所であり、褒められるべき美徳だ。
だが美咲ほどになると、もはやそんな言葉では言い表せない。
あまりにも頑固で、もはや病気の域だ。
実際そのせいで寝込んでいるのだから、もう呆れるしかない。

美咲が雨の日に買い物に出てグショグショに濡れて帰ってきたのは3日程前のこと。
その日はすぐに入浴して身体を温めたものの、やはり具合は悪そうだった。
美咲は「少しだるいだけだよ」と疲れた笑顔を見せていた。

一昨日と昨日はバイトに出ていた。
秋彦は休んだ方がいいと何度も言ったが、美咲は聞き入れなかった。
どうしても頼むと拝み倒されたバイトだから、休めないと言う。
ここでも美咲は伝家の宝刀「迷惑かけたくないから」を繰り返した。
そしてバイトが終わった昨日の夜、美咲は高熱を出してしまったのだ。

「お前はバカか?」
そう言いながらも、秋彦は美咲を看病していた。
秋彦を知る者がその光景を見たら、誰もがわが目を疑うだろう。
この男に病人の看病などできるものかと。
だが実際、秋彦は甲斐甲斐しく世話を焼いていた。

*****

「ウサギさん、まさかそれ作ったのか?」
粥とレンゲを乗せたトレーを持ってベットの横に来た秋彦に、美咲の顔が引き攣った。
間違っても秋彦には粥など作れないことを、美咲はよく知っている。
粥の出来栄えとキッチンの惨状を想像したのだろう。
なんて失礼なヤツだと秋彦は内心ムッとしたが、顔には出さない。

「レトルトパックを温めただけだ。」
案の定そう言ってやると、美咲は明らかにホッとした表情になった。
秋彦としては非常に不本意だが、仕方がない。
実際こと料理に関しては、美咲にはかなわないからだ。

「卵粥にした」
秋彦はベットの横の椅子に腰を下ろすと、そう言った。
本人は至極真面目にそう言っている。
だがベットから身体を起こして、トレーを見た美咲は目を剥いた。

トレーの上では、丼に入った真っ白な粥が湯気を立てている。
そしてその横にチョコンと置かれた生卵が2つ。
世間的にはこれは卵粥とは言わない。
あくまで白粥の生卵添えだ。
美咲はそれを言おうとして、だがすぐに諦めた。
この男に一般常識を教えるには、体調が万全でないと無理だと思ったのだ。
ちなみに秋彦はそんな美咲の葛藤など知らず、涼しい顔だ。

*****

「美味しい。ウサギさん、ありがとう。」
美咲は丼からレンゲで粥をすくって、口に入れると笑顔になった。
正直言って味もついてないし、後から卵を割り入れているから少し冷めてしまった。
だが熱がある美咲には味はわからないし、熱すぎなくてちょうどいい。
結果的にこのチョイスは大成功だ。
普段は生活能力などないくせに、ここ一番という時にはうまくいってしまう。
宇佐見秋彦はまさしくそういう人間だ。

「ア~ン、というのは定番じゃないのか?」
だが秋彦は不満だった。
病気の恋人にお粥を作って「フ~フ~」「ア~ン」というベタなことをやりたかったのに。
照れ屋で素直じゃない恋人は、断固として拒んだのだ。
こういうところはかわいくない。
それでもまぁ食欲があるのだから、よしとしよう。

「今日はまた雨なのか?」
「ああ。小雨だけど、降ってる。」
「ウサギさん、雨の中をお粥を買いに行ってくれたの?」
「いや相川が資料を持ってくることになってたから、ついでに頼んだ。」
「そうか。よかった。」

美咲がまたホッとした表情になる。
秋彦がスーパーやコンビニでレトルトパックの粥を買う姿が想像できなかったのだ。
だから相川が買ったと知って、安堵した。
秋彦としては、買い物さえできないと思われているのがまた心外だった。

*****

「3日前の雨の日、何があった?」
美咲が粥を全部平らげたのを見届けた秋彦が口を開いた。
元気がないのは単に体調が悪いせいだけとは思えなかった。
こんなに熱が出るほど雨に濡れてしまったのは、その「何か」のせいかもしれない。
そう思えば、知らない振りはできなかった。

「前にウサギさんは言ってくれたよね。メーワクかけろって。」
美咲はポツリとそう言った。
それは以前、美咲が悩んでいた時に秋彦が言ったセリフだった。
秋彦の父の冬彦や、兄の春彦、丸川書店の井坂も「秋彦に美咲は相応しくない」と言った。
思い悩んだ美咲に、秋彦は言ったのだ。
心配させたくないつもりが、かえって心配をかけている。
だから迷惑をかけろと。

「あの時の悩みはウサギさんも無関係じゃなかっただろ?」
「っていうかむしろ俺が原因だろ」
「まぁそう。。。かな。でもこれは違うんだ。俺が悪いから。誰かに助けてもらったらダメなんだ。」
「ダメだと?」
「俺が背負っていかなきゃいけないことなんだよ。」

背負っていく。
頑張るとか、乗り越えるとかではなく、背負っていく。
その言葉で秋彦には閃くことがあった。
美咲が未だに心の奥底で自分を責め続けていること。
誰かに話してもどうにもならないこと。
思い当たることはただ1つ、美咲の両親の事故だ。

*****

「俺は本当はこんなときくらい、自分で粥を作れればいいのにって思うよ。」
秋彦は美咲に顔を寄せると、熱で潤んだ瞳を覗きこんだ。
そして長い指で、寝乱れた髪をなでて整えてやる。
美咲は「ウサギさんには無理だよ」と言って、プイと目をそらした。
照れ隠しなのだろうが、子供みたいな仕草がかわいい。

「そうだ。だからやらない。粥に限らず、俺には美咲以上に美味いメシは作れないから。」
「それは、まぁ」
「後片付けもできない。だから変にやろうとすれば美咲の手間を増やすだけだ。」
「ウサギさん。。。」
「お前もそうだろ?隠すのが下手なくせに隠してうまくいかない。後片付けが大変だ。」
「ごめんなさい。。。」

美咲が熱のせいだけではない涙を含んだ瞳で、秋彦を見上げている。
いつものように自作官能小説を読み上げてやれば、美咲は白状する。
だがこんなに弱った美咲に、そんな真似はしたくなかった。
だから言葉で説得してみたのだが、どうやらうまくいったようだ。

それでも一瞬迷った美咲だったが、意を決したように口を開いた。
美咲はたどたどしく、だが懸命に言葉を紡ぐ。
そして秋彦は3日前に美咲が目撃した事故のことを知った。

美咲の両親の事故の日の雨は、もう止んでいる。
美咲は雨の日だって、元気に暮らしている。
だが美咲の心の中には、消せない雨霧があるのだ。
ふとしたことで心は曇り、雨が降る。
だけと足を踏ん張って、頑張っている。
秋彦はそんな美咲がかわいくて、愛しくて、かわいそうだと思う。

「これからは何かあったらちゃんと言えよ」
秋彦はただそう言った。
お前のせいじゃないなんて、安易な慰めなど言わない。
ただ1人で美咲が苦しまないように、ちゃんと見守っていたい。

「ありがとう。ウサギさん。」
最後にそう呟いて、美咲の瞼が落ちた。
秋彦はいつまでも飽きることなく、美咲の愛らしい寝顔を見つめていた。

【続く】
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