足の5題1
【バランス】
またか。
上司の様子を盗み見た朝比奈は、秘かにため息をつく。
だが瞳にも唇にも、微笑を浮かべていた。
朝比奈薫の上司であり恋人の井坂龍一郎は、有能な取締役だ。
時々驚くような強引な手法を取ることもある。
だが着実に結果を出しているから、誰も文句を言えない。
だが人知れず、井坂はかなりの努力をしている。
その1つが読書だ。
本を扱う商売なのだから、いい本を見極める目は常に鍛えておかなくてはいけない。
そのポリシーに従い、とにかく時間が許す限り、目を通している。
純文学からミステリー、コミックス、実用書、果ては趣味の雑誌や写真集。
しかも丸川書店のもののみならず、他社の書籍のチェックも怠らない。
今も井坂は次の会議までの空き時間に、本を読んでいた。
先週発売されたばかりの、吉川千春のコミックス。
取締役用の豪華な机でスーツ姿の男が、少女漫画を読む姿はなかなかシュールだ。
だが当の井坂は、至って真剣な表情だった。
朝比奈が横顔を盗み見ているのも気づかす、本に没頭している。
だがよくよく見ると、井坂の瞳が微かに潤んでいた。
朝比奈は思わず目を見張り、すぐにこっそりとため息をつく。
よくあることだ。
井坂は往々にして、本に感情移入してしまうのだ。
確か秘書課の女性社員が、吉川千春の最新刊は泣けると言っていたっけ。
世間では強気な、専務取締役。
だけど人の心に響く本を見分けるこの感受性が、実は井坂の最大の武器だ。
強さと純粋さのバランスこそ、彼が有能である所以なのだ。
朝比奈はそっと立ち上がった。
恋人がピュアな読者から、敏腕取締役に戻るときのために。
少しだけ準備を手伝うのが、朝比奈の役目だった。
*****
「そろそろお時間です。」
井坂はその声にハッと我に返った。
瞳に浮かんでいた涙を隠す間もなく、ハンカチが差し出された。
少しの空き時間に、発売されたばかりのコミックスを読んでいた。
少女漫画まで目を通す井坂は、取締役の中では少数派だ。
だがジャンルにこだわらず、面白いものを見抜く目は常に持っていたい。
それが井坂のポリシーだった。
今回は思いもよらず泣けるストーリーだった。
いつの間にかここが会社であることを忘れて、読みふけっていた。
思わずウルウルと瞳を潤ませた瞬間、朝比奈が声をかけてきたのだ。
「何だ、もうそんな時間か?」
井坂は差し出されたハンカチで涙を拭きながら、壁に掛けられた時計を見た。
だが会議まではまだしばらく時間がある。
「まだ時間、あるじゃねーか」
文句を言いながら、朝比奈を見上げる。
すると今度は別の者を差し出された。
目薬と冷たい水で濡らしたタオルだ。
「会議までに取締役の顔に戻ってください。」
あえて井坂と目を合わさないのは、朝比奈なりの気遣いだ。
井坂はありがたく目薬を差し、濡れたタオルを目に当てた。
この時間のために、朝比奈は少し早目に声をかけてくれたのだろう。
強引な取締役と、細やかで行き届いた秘書。
見事にバランスが取れている。
朝比奈がいるからこそ、井坂は自由に仕事ができる。
前だけを見て、進んでいけるのだ。
「よし、会議に行くぞ。」
身支度を終えた井坂が立ち上がる。
秘書兼恋人の男は、必要な書類をすばやく整えると、静かに後ろに寄り添った。
【終】
またか。
上司の様子を盗み見た朝比奈は、秘かにため息をつく。
だが瞳にも唇にも、微笑を浮かべていた。
朝比奈薫の上司であり恋人の井坂龍一郎は、有能な取締役だ。
時々驚くような強引な手法を取ることもある。
だが着実に結果を出しているから、誰も文句を言えない。
だが人知れず、井坂はかなりの努力をしている。
その1つが読書だ。
本を扱う商売なのだから、いい本を見極める目は常に鍛えておかなくてはいけない。
そのポリシーに従い、とにかく時間が許す限り、目を通している。
純文学からミステリー、コミックス、実用書、果ては趣味の雑誌や写真集。
しかも丸川書店のもののみならず、他社の書籍のチェックも怠らない。
今も井坂は次の会議までの空き時間に、本を読んでいた。
先週発売されたばかりの、吉川千春のコミックス。
取締役用の豪華な机でスーツ姿の男が、少女漫画を読む姿はなかなかシュールだ。
だが当の井坂は、至って真剣な表情だった。
朝比奈が横顔を盗み見ているのも気づかす、本に没頭している。
だがよくよく見ると、井坂の瞳が微かに潤んでいた。
朝比奈は思わず目を見張り、すぐにこっそりとため息をつく。
よくあることだ。
井坂は往々にして、本に感情移入してしまうのだ。
確か秘書課の女性社員が、吉川千春の最新刊は泣けると言っていたっけ。
世間では強気な、専務取締役。
だけど人の心に響く本を見分けるこの感受性が、実は井坂の最大の武器だ。
強さと純粋さのバランスこそ、彼が有能である所以なのだ。
朝比奈はそっと立ち上がった。
恋人がピュアな読者から、敏腕取締役に戻るときのために。
少しだけ準備を手伝うのが、朝比奈の役目だった。
*****
「そろそろお時間です。」
井坂はその声にハッと我に返った。
瞳に浮かんでいた涙を隠す間もなく、ハンカチが差し出された。
少しの空き時間に、発売されたばかりのコミックスを読んでいた。
少女漫画まで目を通す井坂は、取締役の中では少数派だ。
だがジャンルにこだわらず、面白いものを見抜く目は常に持っていたい。
それが井坂のポリシーだった。
今回は思いもよらず泣けるストーリーだった。
いつの間にかここが会社であることを忘れて、読みふけっていた。
思わずウルウルと瞳を潤ませた瞬間、朝比奈が声をかけてきたのだ。
「何だ、もうそんな時間か?」
井坂は差し出されたハンカチで涙を拭きながら、壁に掛けられた時計を見た。
だが会議まではまだしばらく時間がある。
「まだ時間、あるじゃねーか」
文句を言いながら、朝比奈を見上げる。
すると今度は別の者を差し出された。
目薬と冷たい水で濡らしたタオルだ。
「会議までに取締役の顔に戻ってください。」
あえて井坂と目を合わさないのは、朝比奈なりの気遣いだ。
井坂はありがたく目薬を差し、濡れたタオルを目に当てた。
この時間のために、朝比奈は少し早目に声をかけてくれたのだろう。
強引な取締役と、細やかで行き届いた秘書。
見事にバランスが取れている。
朝比奈がいるからこそ、井坂は自由に仕事ができる。
前だけを見て、進んでいけるのだ。
「よし、会議に行くぞ。」
身支度を終えた井坂が立ち上がる。
秘書兼恋人の男は、必要な書類をすばやく整えると、静かに後ろに寄り添った。
【終】
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