足の5題1
【歩く】
「少し歩くのが早いんじゃないですか?」
朝比奈は敬愛する上司に、声をかける。
だが上司は聞こえているのかいないのか、少しも足を緩める気配がない。
朝比奈薫は、いつも影のように上司である井坂龍一郎の隣を歩いている。
井坂の秘書兼お目付け役であり、暴走した井坂を牽制する役割を担っているからだ。
2人は出先から自社である丸川書店に戻ってきたところだった。
ここ最近は仕事が立て込んでいて忙しいが、次の会議まで少し時間がある。
つまり少しでも身体を休めておくべき状態なのだ。
それなのに無駄にスタスタと早足で歩く上司に、朝比奈は秘かにため息をついた。
一緒にいる時間が長いせいで、井坂の考えていることはよくわかる。
表情や仕草を見ればわかるのは当然だが、歩く速度や足取りだけでもある程度わかってしまう。
専務取締役であり、「落としの井坂」の異名を持ち、強引だが有能でやり手。
仕事中はめったなことでは感情を表に出すことはほとんどない。
笑ったり、怒ったりしてても、実はそれさえも仕事上での駆け引き込みだ。
だがごく稀にどうしても隠せない感情が「歩く」という動作に出てしまうことがある。
朝比奈にはそれほど長く井坂の隣を歩いているのだという自負がある。
そしてその朝比奈の見立てでは、今の井坂の歩き方は怒っている時だ。
しかも誰か他の人間ではなく、自分に腹を立てている。
*****
「どうしてこう面倒なことばっかり起こるもんかね?」
エレベーターに乗り込み、2人だけになった瞬間。
井坂は途方にくれたように、そう言った。
発端はつい先程、出先でのこと。
イベントの打ち合わせで顔を合わせた伊集院響に、執拗に聞かれたのだ。
まったくイベントには関係ない宇佐見秋彦の同居人、高橋美咲のことを。
伊集院から感じる美咲への好意や秋彦への敵意にはどこか尋常ではないものを感じた。
「俺だって、他人の恋愛なんて口を挟みたくねーんだけど。」
「よくわかります。」
井坂の嘆きのような愚痴に、朝比奈は頷いた。
宇佐見秋彦が高橋美咲にベタ惚れなのはわかるし、それが悪いとは思わない。
だが問題は秋彦が人気作家であり、顔を知られた有名人なのが問題なのだ。
井坂本人に同性愛に対する偏見はないが、世間はそうではない。
バレればスキャンダルは必至、下手をすれば作家人生も終わる。
大事な商品である作家や作品を、そんなことで潰すわけにはいかない。
だから心を鬼にして、井坂は美咲を牽制しているのに。
ここに伊集院までからまれては、やっかいなことこの上ない。
朝比奈にはよくわかる。
井坂は実は情に厚くて優しい人間で、人の恋愛を邪魔するようなことは嫌いだ。
だがそれでも横槍を入れるのは、ひとえに会社のために他ならない。
利益のために、時に好き合う2人の間に割って入るような真似をする自分に腹が立つのだ。
*****
「だいたいどうしてうちの会社は、同性愛者ばかり集まるんだ?」
井坂はさらにブツブツと恨み言のようにそう呟いた。
秋彦と美咲と伊集院の話ばかりではない。
月刊エメラルドの作家、吉川千春と担当編集がどうやら恋仲らしい。
エメラルドの編集長の高野と小野寺出版の御曹司にして新人編集の小野寺も怪しい気がする。
その上ジャプンの編集長の桐嶋と営業の横澤が最近やたらつるんでいるという話も聞く。
丸川書店の関係者でなければ、正直言ってどうでもいい話だ。
だが井坂が丸川書店の専務取締役である以上、やはり放置はできない。
警戒すべきは、作家のスキャンダルだけではない
漫画という夢を与える雑誌で編集者が同性愛者などとバレたら、これも大きなイメージダウンだ。
「取締役が同性愛者だからじゃないですか?」
朝比奈がシレっとそう答えると、井坂は目を剥いた。
井坂と朝比奈は幼馴染であり、実は通い同棲中の恋人だったりもするのだ。
文句を言うべく井坂が口を開いた途端、エレベーターが止まり、扉が開いた。
文句を言おうとしたものの出鼻を挫かれた井坂は、憮然としながら乱暴に足を踏み出す。
だがエレベーターの扉部分の微かな段差につまづき、転倒しそうになった。
朝比奈が「危ない!」と慌てて手を伸ばし、倒れそうになる井坂を支えた。
「気をつけて下さい。そんなに急いで歩く必要はないんですから。」
「うるさい!言っておくが転びそうになったのは、動揺したからじゃないからな!」
バツが悪そうな表情で強がる井坂に、朝比奈は思わず苦笑した。
やり手の取締役になっても、負けず嫌いで強がりなところは昔のままだ。
「イライラしても仕方ないですよ。彼らだって覚悟の上で恋愛しているんでしょうし。」
「ああ?」
「つまり私たちと同じなんです。黙って見守ってあげたらいいと思いますが。」
「うるさい!」
井坂はエレベーターを降りると、何事もなかったかのように歩き出す。
その歩き方はいつもの井坂の歩調に戻っていた。
朝比奈もまたいつもの冷静な表情で、その後に続いた。
【終】
「少し歩くのが早いんじゃないですか?」
朝比奈は敬愛する上司に、声をかける。
だが上司は聞こえているのかいないのか、少しも足を緩める気配がない。
朝比奈薫は、いつも影のように上司である井坂龍一郎の隣を歩いている。
井坂の秘書兼お目付け役であり、暴走した井坂を牽制する役割を担っているからだ。
2人は出先から自社である丸川書店に戻ってきたところだった。
ここ最近は仕事が立て込んでいて忙しいが、次の会議まで少し時間がある。
つまり少しでも身体を休めておくべき状態なのだ。
それなのに無駄にスタスタと早足で歩く上司に、朝比奈は秘かにため息をついた。
一緒にいる時間が長いせいで、井坂の考えていることはよくわかる。
表情や仕草を見ればわかるのは当然だが、歩く速度や足取りだけでもある程度わかってしまう。
専務取締役であり、「落としの井坂」の異名を持ち、強引だが有能でやり手。
仕事中はめったなことでは感情を表に出すことはほとんどない。
笑ったり、怒ったりしてても、実はそれさえも仕事上での駆け引き込みだ。
だがごく稀にどうしても隠せない感情が「歩く」という動作に出てしまうことがある。
朝比奈にはそれほど長く井坂の隣を歩いているのだという自負がある。
そしてその朝比奈の見立てでは、今の井坂の歩き方は怒っている時だ。
しかも誰か他の人間ではなく、自分に腹を立てている。
*****
「どうしてこう面倒なことばっかり起こるもんかね?」
エレベーターに乗り込み、2人だけになった瞬間。
井坂は途方にくれたように、そう言った。
発端はつい先程、出先でのこと。
イベントの打ち合わせで顔を合わせた伊集院響に、執拗に聞かれたのだ。
まったくイベントには関係ない宇佐見秋彦の同居人、高橋美咲のことを。
伊集院から感じる美咲への好意や秋彦への敵意にはどこか尋常ではないものを感じた。
「俺だって、他人の恋愛なんて口を挟みたくねーんだけど。」
「よくわかります。」
井坂の嘆きのような愚痴に、朝比奈は頷いた。
宇佐見秋彦が高橋美咲にベタ惚れなのはわかるし、それが悪いとは思わない。
だが問題は秋彦が人気作家であり、顔を知られた有名人なのが問題なのだ。
井坂本人に同性愛に対する偏見はないが、世間はそうではない。
バレればスキャンダルは必至、下手をすれば作家人生も終わる。
大事な商品である作家や作品を、そんなことで潰すわけにはいかない。
だから心を鬼にして、井坂は美咲を牽制しているのに。
ここに伊集院までからまれては、やっかいなことこの上ない。
朝比奈にはよくわかる。
井坂は実は情に厚くて優しい人間で、人の恋愛を邪魔するようなことは嫌いだ。
だがそれでも横槍を入れるのは、ひとえに会社のために他ならない。
利益のために、時に好き合う2人の間に割って入るような真似をする自分に腹が立つのだ。
*****
「だいたいどうしてうちの会社は、同性愛者ばかり集まるんだ?」
井坂はさらにブツブツと恨み言のようにそう呟いた。
秋彦と美咲と伊集院の話ばかりではない。
月刊エメラルドの作家、吉川千春と担当編集がどうやら恋仲らしい。
エメラルドの編集長の高野と小野寺出版の御曹司にして新人編集の小野寺も怪しい気がする。
その上ジャプンの編集長の桐嶋と営業の横澤が最近やたらつるんでいるという話も聞く。
丸川書店の関係者でなければ、正直言ってどうでもいい話だ。
だが井坂が丸川書店の専務取締役である以上、やはり放置はできない。
警戒すべきは、作家のスキャンダルだけではない
漫画という夢を与える雑誌で編集者が同性愛者などとバレたら、これも大きなイメージダウンだ。
「取締役が同性愛者だからじゃないですか?」
朝比奈がシレっとそう答えると、井坂は目を剥いた。
井坂と朝比奈は幼馴染であり、実は通い同棲中の恋人だったりもするのだ。
文句を言うべく井坂が口を開いた途端、エレベーターが止まり、扉が開いた。
文句を言おうとしたものの出鼻を挫かれた井坂は、憮然としながら乱暴に足を踏み出す。
だがエレベーターの扉部分の微かな段差につまづき、転倒しそうになった。
朝比奈が「危ない!」と慌てて手を伸ばし、倒れそうになる井坂を支えた。
「気をつけて下さい。そんなに急いで歩く必要はないんですから。」
「うるさい!言っておくが転びそうになったのは、動揺したからじゃないからな!」
バツが悪そうな表情で強がる井坂に、朝比奈は思わず苦笑した。
やり手の取締役になっても、負けず嫌いで強がりなところは昔のままだ。
「イライラしても仕方ないですよ。彼らだって覚悟の上で恋愛しているんでしょうし。」
「ああ?」
「つまり私たちと同じなんです。黙って見守ってあげたらいいと思いますが。」
「うるさい!」
井坂はエレベーターを降りると、何事もなかったかのように歩き出す。
その歩き方はいつもの井坂の歩調に戻っていた。
朝比奈もまたいつもの冷静な表情で、その後に続いた。
【終】
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