五雨

【雨隠れ】雨を避けること。あまやどり

「なんでここで降るかなぁ~」
高橋美咲はポツポツと雨粒が堕ち始めた空を見上げると、文句を言った。

ここは秋彦と美咲が住むマンションの近所のスーパーマーケット。
美咲は買い物に来ていた。
いや買い物というよりは、むしろ買い出しといえるかもしれない。
明日と明後日はバイトを頼まれたので、買い物する時間が取れない。
だから3日分の食料を買い込んだのだ。
両手に下げた買い物袋には、食材がずっしりと重い。

そんな時に限って、雨なんか降ったりするのだ。
普段は大量まとめ買いの時には、秋彦の車で来るのに。
何とか降る前に帰宅したいとスーパーまで走ってきたし、買い物も大急ぎですませたのに。
だが秋彦は相変わらず締め切りを守れず、相川によってマンションに軟禁状態。
迎えに来てもらうこともできない。
運が悪いといえばそれまでだが、よりによって何で今?と言いたくなる。

美咲は大きくため息をつくと、さてどうしようかと考える。
一応折りたたみの傘は持っている。
だが両手は買ったばかりの食材でふさがっているし、雨は降り始めたばかり。
考えている間に、ダッシュした方が早いような気がする。
美咲は「よし!」と気合いを入れると、雨の中を走り始めた。

*****

「何だよ、もう~!」
思いのほか早い雨足に、盛大に抗議する。
スーパーから秋彦のマンションまでのちょうど半分くらいのところで、雨は土砂降りになったのだ。
美咲は途中にあるカフェの軒下に滑り込んで、雨を避けた。

「濡れてるの、俺だけじゃん。」
美咲はゼイゼイと息を切らしながら、文句を言う。
雨の勢いを見誤ったせいで、もう髪も服もしっとりと濡れている。
今日は天気予報で強い雨が降ると報じられていた。
だから道行く人は皆、傘をちゃんと持っているのだ。
美咲だって、両手の買い物袋さえなければ傘を差していたのに。

「雨って、やっぱり嫌だな。」
美咲はポツリと呟いた。
雨のせいで人通りはかなり少なくなっている。
だが車は普段と変わることなく、行き来していた。

美咲の両親は、美咲が8歳の頃に事故で他界している。
こんな大雨の日に高速でスピードを出しすぎて事故を起こしたのだ。
幼い頃の自分が「早く帰ってきて」と願ったせいだと、美咲は思っている。
だから雨の中を疾走する車を見ると、どうしても心が騒ぐのだ。

*****

いつまで続くんだろう。
美咲は雨の日にいつもそう思う。
さすがに今さら、動揺したり泣いたりするようなことはない。
だけど未だに忘れることはできないし、心は騒ぐ。
その動揺を悟られないように、どうしても張り詰めてしまう。
兄の孝浩や同居している秋彦には、絶対にそれを知られてはいけない。
両親はもう帰らないのだから。
その原因である自分が未だに引きずっているなんて、おこがましいにも程がある。

「やっぱり最初から傘を使った方がよかったな。」
美咲は言い訳がましくそう言った。
横着せずに折りたたみ傘を使えばよかったのだ。
そうすればここで雨宿りなどすることもなく、雨の中を走る車をこんな風に見ることもなかった。
せめて今からでも、傘を差そう。
もうこれ以上、雨に濡れたくない。
だが美咲が傘を出そうと肩にかけた鞄に目を落とした瞬間、軋むようなブレーキ音が響いた。

「!?」
驚いて顔を上げた美咲の目に入ったのは、スリップして車線を外れる車だった。
車に詳しくない美咲には詳しい車種はわからないが、黒っぽいごくありふれて見える。
スリップした車は横滑りして、美咲とは反対側の電柱にぶつかった。
美咲は驚きのあまり声も出ず、前面が大きくへこんだ車を呆然と見ていた。

派手な衝突音に、美咲が軒下を借りていたカフェや他の店舗からわらわらと人が出てくる。
車に近づき声をかける人や遠巻きに見ている人、悪趣味にも携帯電話のカメラで撮影している人もいる。
だが美咲はその場から動くことができなかった。
膝がガクガク震えてしまって、立ち去ろうとしても足がうまく踏み出せないのだ。

*****

「雨なのに、スピードなんか出すからだ。。。」
美咲は搾り出すように呻く。
どうして今さらこんな光景を見なければいけないのだろう。
両親の死の責任が自分にあることを忘れるなということなのだろうか。

やがて救急車のサイレンが聞こえてきた。
救急車から2人の救急隊員が降り立って、事故車へと走っていく。
どうやら運転者は軽症のようで、自力で車から出て歩いていた。
美咲はそれを見て、ようやく足を動かすことができた。
その時になって初めて、美咲は泣いていることに気がついた。
涙が頬をポロポロと零れて落ちるのを、止めることができない。

早くこの場所を離れなければ。
美咲は思い切って、土砂降りの雨の中を走り出した。
涙が止まらないなら、雨で洗い流してしまえばいい。
これならば顔がグショグショでもバレないし、挙動不審になっても息切れだと言って誤魔化せる。

美咲の両親の事故とは違う。
車は派手にへこんでいたけど、中の人は全然大丈夫そうだったし。
そもそも美咲とは何の関係もない、知らない人の事故だ。
こんなの大したことじゃない。
気にすることなんかない。

美咲は必死で走った。
まるで追いかけてくる何かから逃れようとするように、全速力で走り続けた。

*****

「どうしたんだ!?」
宇佐見秋彦は、玄関に座り込んでしまった美咲に駆け寄った。
美咲は挙手をするようなポーズで、大丈夫であることを示す。
ゼイゼイと息が上がっており、すぐに声が出ないのだ。

「原稿、終わった?相川さんは?」
ようやく息が整った美咲が、何とか口を開く。
1度室内に入り、バスタオルを手に戻っていた秋彦が「もう帰ったよ」と答える。
その表情は憮然としており、不機嫌であることは明らかだ。

「傘を持っていかなかったのか?」
「持って行ったよ!でも荷物で両手がふさがってて面倒だったし、帰りだけなら大丈夫かと思って」
「大丈夫じゃないだろう!そんなに濡れて。。。」
だが美咲が盛大にくしゃみをすると、秋彦は言葉を切る。
そしてバスタオルを広げると美咲の頭にかぶせ、ガシガシと拭いた。
乱暴なのにどこか優しい秋彦の手つきに、美咲はまた零れそうになる涙を懸命にこらえた。
この人に余計な心配をさせたくない。
この人にだけは迷惑をかけたくない。

「ウサギさんの原稿が遅れたからだろう?車、出して欲しかったのに!」
美咲はわざと大きな声を張り上げた。
怒っているけど本気ではない、いつもの口調。
大丈夫、これならきっとバレてない。

「このままだと風邪を引くぞ。風呂に入った方がいい。」
秋彦はぶっきらぼうにそう言うと、買い物袋を持ってキッチンへと歩き出す。
美咲はその後ろ姿を見ながら、ついに潤んでしまった目をバスタオルでそっと拭った。

雨隠れに見た思わぬ光景。
それは美咲の心に小さな波紋を落とした。

【続く】
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