雪7題
【雪訪い】
もし大好きな人が死んだら、俺もきっと死ぬ。
あの時、嵯峨政宗はそう言った。
律が全てを捨てる覚悟を決めたきっかけは、幼なじみの死だった。
母親同士が友人で歳も近いから、小さい頃はよく遊んだ。
そんな彼の死の知らせは突然だった。
死因は白血病。病死だ。
「まさか発症するなんて。」
「HTLV-1は、ほとんどが発病しないのに。」
「でもきっと律君は大丈夫よ。ほとんどの人が発症しないんだから。こんな身近で2人も発症しないわ。」
「そうだな。律君にはアイツの分まで生きてもらわないと。」
告別式が始まる直前の葬儀式場の控え室で、彼の両親と律の両親が話していた。
ちょうど控え室に入ろうとして、その会話を聞いてしまった律はハッとした。
自分にまつわるとんでもない秘密が語られている。
控え室に飛び込み、両親を問い詰め、全てを知った。
HTLV-1ウィルス。
律はそのキャリア-保菌者だった。
元々は律の母親がキャリアであり、母子感染したのだ。
死んでしまった彼の母もキャリアだった。
そもそも律の母親も彼の母親も同じ病院にかかっており、そこで知り合ったのだ。
HTLV-1は、いったん感染すると生涯身体にウイルスが存在し続ける。
だがこの状態では病気ではない。
ほとんどのキャリアは、ごく普通に何事もない人生を全うすることができる。
キャリアであることすら知らずに死んでしまう人間も少なくないのだという。
だがごく一部、本当に稀な一部の人間が、彼のように成人T細胞白血病を発症するのだ。
つまりすごく低い可能性ではあるが、律も彼と同じ理由で死に至るかもしれない。
律の両親はその事実をずっと律に隠し続けていたのだった。
自分の命について真剣に考え始めた律が思い出したのが、高校時代のある出来事だった。
好きだった先輩、嵯峨とちょうど映画化された純愛小説の話をした。
いわゆる難病もので、ヒロインは不治の病。
主人公の青年は残された時間を彼女に寄り添い、死後は彼女の分まで生きると誓う。
青年の生き様に律は感動したが、高野は否定的だった。
もし大好きな人が死んだら、俺もきっと死ぬ。
あの時、嵯峨政宗は確かにそう言った。
ではもし自分が発症したら、高野も死を選ぶ?
高校生の頃の他愛無い話だし、忘れているかもしれない。
だけど、もし同じ気持ちだったら?
いや絶対にそんなことをさせてはならない。
迷い悩んだ律は、高野から離れる決心をした。
*****
「自殺しようとしたってことか?」
「だと思う。だけど誰にも言うな。エメ編の連中ですら知らねーんだから。」
丸川書店の休憩室の喫煙スペースで、横澤は桐嶋に念を押しながらタバコに火をつけた。
そしてふと思いついたように、タバコの箱を振りながら桐嶋に差し出す。
桐嶋は黙って煙草を1本抜き取りくわえると、横澤のタバコの先端から火種を移しとった。
桐嶋は何とか日和と律を和解させたいと思っていた。
日和と律が会っていたのを見て、横澤にその理由を突き止めさせた。
そして日和が悩んでいた理由は桐嶋と横澤の関係によるものだと知って、愕然とした。
しばらくは家から横澤を遠ざけ、日和に詫びた。
すると日和はまた元気を失い、落ち込んでしまった。
1人で耐える決心をしていた日和は、桐嶋と横澤に知られたことがショックだったのだ。
その上今まで悩みを聞いてくれて元気付けてくれた律に怒りをぶつけてしまったという。
話を聞いた横澤もまた日和と律を和解させたいと願った。
そのために律と連絡を取ろうと、横澤は高野に電話をかけた。
その電話で高野から、律が雪の中で薬を飲んだまま眠っていたことを聞かされたのだ。
律は降り積もる雪の中にほとんど埋もれていたという。
しかも携帯電話も財布も身元を証明するものは何も持っていなかった。
高野は電話口でひどく取り乱しながら、そう言った。
つまり律は自分の死を隠すことを望み、身元不明の死体になろうとしたということだ。
「ひよには黙っててくれよ。」
桐嶋がポツリとそう言うと、横澤が「当たり前だろ」と怒ったように応じる。
確かにわざわざ念を押す必要などない。
律が自殺を図ったなどと聞いたら、日和はますます落ち込んでしまうだろう。
もう間違っても日和を傷つけるようなことは言いたくない。
「それで小野寺の容態はどうなんだ?」
「一命は取り留めたけど、まだ意識は戻らないそうだ。」
「高野はどうしてる?」
「できることは全部羽鳥たちにまかせて空いた時間はずっと病院だ。」
「高野がずっと付き添ってるのか?小野寺の親御さんは?」
「お袋さんがショックで倒れて、そっちも大変らしい。」
2人は煙と共にため息を吐き出した。
桐嶋かもちろん横澤も、律の身体のことは一切聞かされていない。
だがよほどのことがあったのだということは察しがつく。
そして心の底から願わずにはいられない。
日和を励ましてくれた心優しい青年が心も身体も救われることを。
「雪がまだ残っているうちに、日和と俺とお前で見舞いに行こうか。」
「そうだな。雪訪いか。」
桐嶋と横澤は顔を見合わせると、煙草を灰皿に押し付ける。
そしてそれ以上言葉もないまま、揃って休憩室を出た。
*****
「律、早く起きろよ。」
高野はベットに眠る律の手を握りながら、そう言った。
もちろん意識のない律から返事はない。
だが高野は一方的に律に話し続けていた。
あの夜、高野は雪の中で倒れて眠る律を見つけた。
抱き起こして名前を呼んでも、頬を叩いても、律は目を開けることはなかった。
そして足元に薬の空瓶が落ちているのを見つけたときの驚愕と恐怖は言い表せない。
高野はすぐに救急車を呼んだ。
そして律は搬送された病院で治療を受けて、そのまま入院することになった。
あと少し発見が遅ければ、命はなかったでしょう。
医師の言葉に、駆けつけてきた律の母親は泣き崩れた。
そして律の父親は「何も死ぬことはないだろう!」と腹立たしげに吐き捨てた。
律の両親は律が死のうとまで思いつめたその理由を知っている。
そう確信した高野は何度も頭を下げて、それを教えて欲しいと頼んだ。
律の両親は高野が律の上司であり死のうとした律を発見して阻止したと知り、その事実を話してくれたのだ。
「何で言ってくれなかったんだよ。」
高野は律の小さな手を指でさすりながら、そう言った。
HTLV-1ウィルス。
律の両親から語られた律の秘密は、高野を驚かせるには充分だった。
律が独りで悩み、苦しんでいたのだと思うだけで、胸が締め付けられるように痛い。
「もしかして俺が高校の頃に言ったこと、気にしてたか?」
2人きりの静かな病室のせいで、高野の小さな声もはっきりと響いた。
両手で一生懸命に温めているのに、律の白い手は冷たいままだ。
それに元々細かった顔も身体も腕も、さらにやせ細っていた。
もし大好きな人が死んだら、俺もきっと死ぬ。
高野も自分の高校時代の言葉を覚えていた。
そしてその気持ちは今も変わらない。
律が死んでしまった後の世界を生きていく自信などなかった。
「トリが俺の代わりに頑張ってくれてる。」
「木佐も美濃も何度も見舞いに来たんだぞ。」
高野は「雪訪いだな」と寂しげに笑う。
律は相変わらず目覚めない。
まるでつらい現実の世界に戻るのを拒否しているようだ。
だが高野はもう決心を固めていた。
今度こそもう間違えない。
律が何と言おうと、絶対に手を離したりしない。
【続く】
もし大好きな人が死んだら、俺もきっと死ぬ。
あの時、嵯峨政宗はそう言った。
律が全てを捨てる覚悟を決めたきっかけは、幼なじみの死だった。
母親同士が友人で歳も近いから、小さい頃はよく遊んだ。
そんな彼の死の知らせは突然だった。
死因は白血病。病死だ。
「まさか発症するなんて。」
「HTLV-1は、ほとんどが発病しないのに。」
「でもきっと律君は大丈夫よ。ほとんどの人が発症しないんだから。こんな身近で2人も発症しないわ。」
「そうだな。律君にはアイツの分まで生きてもらわないと。」
告別式が始まる直前の葬儀式場の控え室で、彼の両親と律の両親が話していた。
ちょうど控え室に入ろうとして、その会話を聞いてしまった律はハッとした。
自分にまつわるとんでもない秘密が語られている。
控え室に飛び込み、両親を問い詰め、全てを知った。
HTLV-1ウィルス。
律はそのキャリア-保菌者だった。
元々は律の母親がキャリアであり、母子感染したのだ。
死んでしまった彼の母もキャリアだった。
そもそも律の母親も彼の母親も同じ病院にかかっており、そこで知り合ったのだ。
HTLV-1は、いったん感染すると生涯身体にウイルスが存在し続ける。
だがこの状態では病気ではない。
ほとんどのキャリアは、ごく普通に何事もない人生を全うすることができる。
キャリアであることすら知らずに死んでしまう人間も少なくないのだという。
だがごく一部、本当に稀な一部の人間が、彼のように成人T細胞白血病を発症するのだ。
つまりすごく低い可能性ではあるが、律も彼と同じ理由で死に至るかもしれない。
律の両親はその事実をずっと律に隠し続けていたのだった。
自分の命について真剣に考え始めた律が思い出したのが、高校時代のある出来事だった。
好きだった先輩、嵯峨とちょうど映画化された純愛小説の話をした。
いわゆる難病もので、ヒロインは不治の病。
主人公の青年は残された時間を彼女に寄り添い、死後は彼女の分まで生きると誓う。
青年の生き様に律は感動したが、高野は否定的だった。
もし大好きな人が死んだら、俺もきっと死ぬ。
あの時、嵯峨政宗は確かにそう言った。
ではもし自分が発症したら、高野も死を選ぶ?
高校生の頃の他愛無い話だし、忘れているかもしれない。
だけど、もし同じ気持ちだったら?
いや絶対にそんなことをさせてはならない。
迷い悩んだ律は、高野から離れる決心をした。
*****
「自殺しようとしたってことか?」
「だと思う。だけど誰にも言うな。エメ編の連中ですら知らねーんだから。」
丸川書店の休憩室の喫煙スペースで、横澤は桐嶋に念を押しながらタバコに火をつけた。
そしてふと思いついたように、タバコの箱を振りながら桐嶋に差し出す。
桐嶋は黙って煙草を1本抜き取りくわえると、横澤のタバコの先端から火種を移しとった。
桐嶋は何とか日和と律を和解させたいと思っていた。
日和と律が会っていたのを見て、横澤にその理由を突き止めさせた。
そして日和が悩んでいた理由は桐嶋と横澤の関係によるものだと知って、愕然とした。
しばらくは家から横澤を遠ざけ、日和に詫びた。
すると日和はまた元気を失い、落ち込んでしまった。
1人で耐える決心をしていた日和は、桐嶋と横澤に知られたことがショックだったのだ。
その上今まで悩みを聞いてくれて元気付けてくれた律に怒りをぶつけてしまったという。
話を聞いた横澤もまた日和と律を和解させたいと願った。
そのために律と連絡を取ろうと、横澤は高野に電話をかけた。
その電話で高野から、律が雪の中で薬を飲んだまま眠っていたことを聞かされたのだ。
律は降り積もる雪の中にほとんど埋もれていたという。
しかも携帯電話も財布も身元を証明するものは何も持っていなかった。
高野は電話口でひどく取り乱しながら、そう言った。
つまり律は自分の死を隠すことを望み、身元不明の死体になろうとしたということだ。
「ひよには黙っててくれよ。」
桐嶋がポツリとそう言うと、横澤が「当たり前だろ」と怒ったように応じる。
確かにわざわざ念を押す必要などない。
律が自殺を図ったなどと聞いたら、日和はますます落ち込んでしまうだろう。
もう間違っても日和を傷つけるようなことは言いたくない。
「それで小野寺の容態はどうなんだ?」
「一命は取り留めたけど、まだ意識は戻らないそうだ。」
「高野はどうしてる?」
「できることは全部羽鳥たちにまかせて空いた時間はずっと病院だ。」
「高野がずっと付き添ってるのか?小野寺の親御さんは?」
「お袋さんがショックで倒れて、そっちも大変らしい。」
2人は煙と共にため息を吐き出した。
桐嶋かもちろん横澤も、律の身体のことは一切聞かされていない。
だがよほどのことがあったのだということは察しがつく。
そして心の底から願わずにはいられない。
日和を励ましてくれた心優しい青年が心も身体も救われることを。
「雪がまだ残っているうちに、日和と俺とお前で見舞いに行こうか。」
「そうだな。雪訪いか。」
桐嶋と横澤は顔を見合わせると、煙草を灰皿に押し付ける。
そしてそれ以上言葉もないまま、揃って休憩室を出た。
*****
「律、早く起きろよ。」
高野はベットに眠る律の手を握りながら、そう言った。
もちろん意識のない律から返事はない。
だが高野は一方的に律に話し続けていた。
あの夜、高野は雪の中で倒れて眠る律を見つけた。
抱き起こして名前を呼んでも、頬を叩いても、律は目を開けることはなかった。
そして足元に薬の空瓶が落ちているのを見つけたときの驚愕と恐怖は言い表せない。
高野はすぐに救急車を呼んだ。
そして律は搬送された病院で治療を受けて、そのまま入院することになった。
あと少し発見が遅ければ、命はなかったでしょう。
医師の言葉に、駆けつけてきた律の母親は泣き崩れた。
そして律の父親は「何も死ぬことはないだろう!」と腹立たしげに吐き捨てた。
律の両親は律が死のうとまで思いつめたその理由を知っている。
そう確信した高野は何度も頭を下げて、それを教えて欲しいと頼んだ。
律の両親は高野が律の上司であり死のうとした律を発見して阻止したと知り、その事実を話してくれたのだ。
「何で言ってくれなかったんだよ。」
高野は律の小さな手を指でさすりながら、そう言った。
HTLV-1ウィルス。
律の両親から語られた律の秘密は、高野を驚かせるには充分だった。
律が独りで悩み、苦しんでいたのだと思うだけで、胸が締め付けられるように痛い。
「もしかして俺が高校の頃に言ったこと、気にしてたか?」
2人きりの静かな病室のせいで、高野の小さな声もはっきりと響いた。
両手で一生懸命に温めているのに、律の白い手は冷たいままだ。
それに元々細かった顔も身体も腕も、さらにやせ細っていた。
もし大好きな人が死んだら、俺もきっと死ぬ。
高野も自分の高校時代の言葉を覚えていた。
そしてその気持ちは今も変わらない。
律が死んでしまった後の世界を生きていく自信などなかった。
「トリが俺の代わりに頑張ってくれてる。」
「木佐も美濃も何度も見舞いに来たんだぞ。」
高野は「雪訪いだな」と寂しげに笑う。
律は相変わらず目覚めない。
まるでつらい現実の世界に戻るのを拒否しているようだ。
だが高野はもう決心を固めていた。
今度こそもう間違えない。
律が何と言おうと、絶対に手を離したりしない。
【続く】