雪7題
【雪月夜】
「それじゃ皆さん、お世話になりました。」
校了が終わり、今月も修羅場をなんとか切り抜けた後、小野寺律は丸川書店を退職した。
例によって、編集部員全員がゾンビのようにやつれている。
律はまるでそのドサクサにまぎれるように、去っていったのだ。
おそらくそのタイミングを見計らったのだろう。
送別会などのイベントも一切辞退したし、騒がれたくなかったようだ。
残された4人の編集部員は、いつも以上の虚脱感で呆然としていた。
今月を無事に乗り切れた安堵感と、大事な仲間を失った喪失感。
そんな気持ちが心の中で渦巻いて、4人とも自分の席に座り込んだまま動けなかった。
「律っちゃん、いなくなっちゃったね。」
「うん、寂しくなっちゃったな。」
木佐がポツリと呟けば、美濃が力なく応じる。
羽鳥は無言で頷いたものの、言葉はなかった。
誰もがあのかわいい後輩との別れを惜しんでいるのだ。
高野もまた編集長席にじっと座ったままだった。
別れを切り出された時には、絶対に嫌だと拒否した。
それでも律は何度も何度も別れて欲しい、自由にしてくれと訴え続けた。
散々悩んだ高野は、律が幸せならばと覚悟を決めて、ようやくその手を離したのだ。
だがどうしてもやりきれない気持ちを抑えられない。
やっぱり律のことは好きだし、この先あれほど愛せる人間にはもう決して出逢えないと思う。
そのとき廊下をドカドカと歩く足音が聞こえ、4人はますます重苦しい気分になった。
もう定時をかなり過ぎた深夜であるし、編集部員たちが声を発しないため、その音はかなり響く。
それに何より編集部員たちにとっては、聞き慣れた足音だ。
予想通り編集部に姿を現した営業の暴れグマに、全員秘かにため息をつく。
今はとてもあのテンションに付き合えるほどの元気はなかった。
「間に合わなかったか」
横澤は木佐の隣、すっかり何もなくなった律の机の前でそう言った。
どうやら律に用事があったようだ。
だがすぐにズカズカと高野の席の前まで来ると「お前、これでいいのか?」と身を乗り出す。
いつものような喧嘩腰でありながら、どこか親密な感じはない。
心の底から心配している、そんな様子だった。
「いいも何もない。アイツがこれを望んだ。」
「本当にそれでいいのか?」
「横澤、何が言いたい?」
「俺はこのままアイツを辞めさせたくない。」
意外な横澤の言葉に、高野は驚き、目を見開いた。
そして他の編集部員たちを見回す。
羽鳥も木佐も美濃も、横澤と同じ色を浮かべた目でじっと高野を見ていた。
*****
綺麗な月夜だ。
律は目の前に広がる夜景を見ながらそう思った。
最後の入稿を終えて会社を出た律は、自分の部屋に荷物を置いた後、ここへやって来た。
夜景が美しいこの場所は、気候がいい時期にはカップルが多い。
だが今は律以外の人間は見当たらなかった。
また雪が降り出して冷え込みが厳しい上に、足場も悪いからだろう。
とにかくおかげで月と雪とネオンに彩られた美しい夜景を独り占めできたのだ。
律は「贅沢だな」とポツリと呟くと、微笑した。
思いおこせば初めてここへ来たときも、自分たち以外は誰もいなかった。
あの時は雪が降っていたのだ。
ここが律が思い定めた最期の場所だ。
仕事も辞めて、実家に戻り、自分の家賃と食費くらいは何とか稼いで細々と生きていくつもりだった。
最後に通りすがりの少女の悩み事の相談に乗れたことを、誇りにしようと思った。
だがそれは所詮、自己満足だったのだと思い知った。
横澤に口を滑らせたことで、少女をさらに絶望させてしまったのだ。
あの後、何度かあの公園に足を運んだが、少女は現れなかった。
少女はもう自分を許してくれないのだと思った瞬間、張り詰めていた律の心の糸は切れた。
律が高野と別れようと思った原因はもちろん「普通の生活」などではない。
きっかけは急逝してしまった友人の葬儀だった。
友人の両親と自分の両親の会話を偶然聞いてしまった律は、今まで知らなかった自分の秘密を知った。
それはあまりにも衝撃的なその事実を知った時、律は高野との別れと退職を決めたのだ。
高野やエメラルド編集部の先輩社員たちを絶対に巻き込みたくなかった。
だから別れないという高野に頑なな態度を取り続け、ついに高野から離れたのだ。
律はポケットに持っていた錠剤のビンを取り出すと、中身を全部口に頬張った。
そして悪戦苦闘しながら、何とか全部水なしで飲み下す。
このまま眠ってしまえば、朝にはもう律自身も冷たく凍ってしまうだろう。
身元を証明するものは、携帯も財布も全部マンションに置いてきた。
家賃も数ヶ月分くらいは自動引き落しされるだろうし、会社も辞め、高野とも別れた。
ここで死んでしまっても、身元はわからないはずだ。
律の行方がわからなくなったと最初に気がつくのは誰だろう?
そしてそれはいつのことだろう?
「高野さん。やっぱり好きです。」
律はポツリとそう呟くと、目を閉じた。
月だけが律を静かに見守っていた。
*****
「律、いてくれよ。。。」
高野は祈るような思いで、ハンドルを握り、アクセルを踏み込む。
向かうのは最後の手がかりである思い出の場所だ。
横澤に「本当にそれでいいのか?」と問われた高野は首を振った。
いいわけなんかない。こんなに好きなのだから。
そして次の瞬間には、編集部を飛び出していた。
まずはマンションに戻り、律の部屋へ行く。
だがドアフォンにも応答がないし、ドアスコープから漏れる光もない。
部屋にいないことは間違いなかった。
携帯電話は電源が入っていないようで、つながらない。
どうしても気になった。
律が万一のために、マンションの郵便受のふたに鍵を貼り付けて隠しているのを知っている。
それを使って、律の部屋に入った高野は愕然とした。
あの散らかっていた部屋は綺麗に片付いており、あらかたの荷物は段ボール箱に梱包されていた。
実家に帰ったのかもしれないとも思う。
だがテーブルの上に見慣れた財布と携帯電話が並べておいてあるのを見て、愕然とした。
どこへ行くにしても、どちらか1つを置き忘れるならともかく2つ一緒に忘れたりはしないだろう。
まさか。
だが導き出される結論は1つしかない。
律はもうここへ戻ってくる気はない。
お金も携帯電話もない世界へ旅立つつもりなのではないのか?
どこへ行った?
マンションを飛び出した高野は、必死に律を捜した。
だが情けないほどに思いつける場所が少ない。
近所のコンビニ、図書館、そして書店。
どこにも律はいない。
10年前に律が消えた時だって、こんな恐怖はなかった。
単に高野の前からいなくなるだけではない。
永遠に逢えない場所へ、消えていってしまう。
「律。。。」
高野は何度もその名を呼びながら、最後の心当たりの場所へと車を走らせる。
目指すは高野と律が再会して初めての高野の誕生日、初めてのドライブで行った場所だ。
そこに律はいるのか、まだ間に合うのか。
高野は祈るような思いで、ハンドルを握り、アクセルを踏み込む。
時折、雪にタイヤを取られて車が横滑りしたが、そんなことはどうでもよかった。
雪月夜の下、一度は離れた高野と律が近づく。
その最後のチャンスだった。
【続く】
「それじゃ皆さん、お世話になりました。」
校了が終わり、今月も修羅場をなんとか切り抜けた後、小野寺律は丸川書店を退職した。
例によって、編集部員全員がゾンビのようにやつれている。
律はまるでそのドサクサにまぎれるように、去っていったのだ。
おそらくそのタイミングを見計らったのだろう。
送別会などのイベントも一切辞退したし、騒がれたくなかったようだ。
残された4人の編集部員は、いつも以上の虚脱感で呆然としていた。
今月を無事に乗り切れた安堵感と、大事な仲間を失った喪失感。
そんな気持ちが心の中で渦巻いて、4人とも自分の席に座り込んだまま動けなかった。
「律っちゃん、いなくなっちゃったね。」
「うん、寂しくなっちゃったな。」
木佐がポツリと呟けば、美濃が力なく応じる。
羽鳥は無言で頷いたものの、言葉はなかった。
誰もがあのかわいい後輩との別れを惜しんでいるのだ。
高野もまた編集長席にじっと座ったままだった。
別れを切り出された時には、絶対に嫌だと拒否した。
それでも律は何度も何度も別れて欲しい、自由にしてくれと訴え続けた。
散々悩んだ高野は、律が幸せならばと覚悟を決めて、ようやくその手を離したのだ。
だがどうしてもやりきれない気持ちを抑えられない。
やっぱり律のことは好きだし、この先あれほど愛せる人間にはもう決して出逢えないと思う。
そのとき廊下をドカドカと歩く足音が聞こえ、4人はますます重苦しい気分になった。
もう定時をかなり過ぎた深夜であるし、編集部員たちが声を発しないため、その音はかなり響く。
それに何より編集部員たちにとっては、聞き慣れた足音だ。
予想通り編集部に姿を現した営業の暴れグマに、全員秘かにため息をつく。
今はとてもあのテンションに付き合えるほどの元気はなかった。
「間に合わなかったか」
横澤は木佐の隣、すっかり何もなくなった律の机の前でそう言った。
どうやら律に用事があったようだ。
だがすぐにズカズカと高野の席の前まで来ると「お前、これでいいのか?」と身を乗り出す。
いつものような喧嘩腰でありながら、どこか親密な感じはない。
心の底から心配している、そんな様子だった。
「いいも何もない。アイツがこれを望んだ。」
「本当にそれでいいのか?」
「横澤、何が言いたい?」
「俺はこのままアイツを辞めさせたくない。」
意外な横澤の言葉に、高野は驚き、目を見開いた。
そして他の編集部員たちを見回す。
羽鳥も木佐も美濃も、横澤と同じ色を浮かべた目でじっと高野を見ていた。
*****
綺麗な月夜だ。
律は目の前に広がる夜景を見ながらそう思った。
最後の入稿を終えて会社を出た律は、自分の部屋に荷物を置いた後、ここへやって来た。
夜景が美しいこの場所は、気候がいい時期にはカップルが多い。
だが今は律以外の人間は見当たらなかった。
また雪が降り出して冷え込みが厳しい上に、足場も悪いからだろう。
とにかくおかげで月と雪とネオンに彩られた美しい夜景を独り占めできたのだ。
律は「贅沢だな」とポツリと呟くと、微笑した。
思いおこせば初めてここへ来たときも、自分たち以外は誰もいなかった。
あの時は雪が降っていたのだ。
ここが律が思い定めた最期の場所だ。
仕事も辞めて、実家に戻り、自分の家賃と食費くらいは何とか稼いで細々と生きていくつもりだった。
最後に通りすがりの少女の悩み事の相談に乗れたことを、誇りにしようと思った。
だがそれは所詮、自己満足だったのだと思い知った。
横澤に口を滑らせたことで、少女をさらに絶望させてしまったのだ。
あの後、何度かあの公園に足を運んだが、少女は現れなかった。
少女はもう自分を許してくれないのだと思った瞬間、張り詰めていた律の心の糸は切れた。
律が高野と別れようと思った原因はもちろん「普通の生活」などではない。
きっかけは急逝してしまった友人の葬儀だった。
友人の両親と自分の両親の会話を偶然聞いてしまった律は、今まで知らなかった自分の秘密を知った。
それはあまりにも衝撃的なその事実を知った時、律は高野との別れと退職を決めたのだ。
高野やエメラルド編集部の先輩社員たちを絶対に巻き込みたくなかった。
だから別れないという高野に頑なな態度を取り続け、ついに高野から離れたのだ。
律はポケットに持っていた錠剤のビンを取り出すと、中身を全部口に頬張った。
そして悪戦苦闘しながら、何とか全部水なしで飲み下す。
このまま眠ってしまえば、朝にはもう律自身も冷たく凍ってしまうだろう。
身元を証明するものは、携帯も財布も全部マンションに置いてきた。
家賃も数ヶ月分くらいは自動引き落しされるだろうし、会社も辞め、高野とも別れた。
ここで死んでしまっても、身元はわからないはずだ。
律の行方がわからなくなったと最初に気がつくのは誰だろう?
そしてそれはいつのことだろう?
「高野さん。やっぱり好きです。」
律はポツリとそう呟くと、目を閉じた。
月だけが律を静かに見守っていた。
*****
「律、いてくれよ。。。」
高野は祈るような思いで、ハンドルを握り、アクセルを踏み込む。
向かうのは最後の手がかりである思い出の場所だ。
横澤に「本当にそれでいいのか?」と問われた高野は首を振った。
いいわけなんかない。こんなに好きなのだから。
そして次の瞬間には、編集部を飛び出していた。
まずはマンションに戻り、律の部屋へ行く。
だがドアフォンにも応答がないし、ドアスコープから漏れる光もない。
部屋にいないことは間違いなかった。
携帯電話は電源が入っていないようで、つながらない。
どうしても気になった。
律が万一のために、マンションの郵便受のふたに鍵を貼り付けて隠しているのを知っている。
それを使って、律の部屋に入った高野は愕然とした。
あの散らかっていた部屋は綺麗に片付いており、あらかたの荷物は段ボール箱に梱包されていた。
実家に帰ったのかもしれないとも思う。
だがテーブルの上に見慣れた財布と携帯電話が並べておいてあるのを見て、愕然とした。
どこへ行くにしても、どちらか1つを置き忘れるならともかく2つ一緒に忘れたりはしないだろう。
まさか。
だが導き出される結論は1つしかない。
律はもうここへ戻ってくる気はない。
お金も携帯電話もない世界へ旅立つつもりなのではないのか?
どこへ行った?
マンションを飛び出した高野は、必死に律を捜した。
だが情けないほどに思いつける場所が少ない。
近所のコンビニ、図書館、そして書店。
どこにも律はいない。
10年前に律が消えた時だって、こんな恐怖はなかった。
単に高野の前からいなくなるだけではない。
永遠に逢えない場所へ、消えていってしまう。
「律。。。」
高野は何度もその名を呼びながら、最後の心当たりの場所へと車を走らせる。
目指すは高野と律が再会して初めての高野の誕生日、初めてのドライブで行った場所だ。
そこに律はいるのか、まだ間に合うのか。
高野は祈るような思いで、ハンドルを握り、アクセルを踏み込む。
時折、雪にタイヤを取られて車が横滑りしたが、そんなことはどうでもよかった。
雪月夜の下、一度は離れた高野と律が近づく。
その最後のチャンスだった。
【続く】