雪7題
【雪路】
「あのコ、学校でイジメられているんだそうです。」
律の言葉に、横澤は呆然とした。
あのコ-日和は春の陽だまりのような明るい女の子だ。
イジメにあっているなど、到底信じられない。
横澤隆史は、最初は信じなかった。
桐嶋は日和が「恋」に悩んでいるのではないかと言い出したのだ。
しかも相手は、かつての横澤の恋敵だったあの小野寺律だと。
まさかと思いながら、学校帰りの日和を尾行した横澤は見つけてしまった。
日和と律が公園で仲良く話している姿を。
だから日和と別れて帰ろうとしている律を捕まえて問い詰め、衝撃の事実を知った。
「あのコ、お母さんがいなくてお父さんと2人暮らしなんだそうですが。」
「お父さんの友人だって男の人が、よく家に来るそうなんです。」
「それでお父さんとその友人って人は、恋仲なんじゃないかって近所で噂になってるそうで」
「学校でも同性愛者の子供だから気持ち悪いって、口を聞いてもらえないって。」
あのコのお父さんのよく家に来る友人、それは間違いなく横澤のことだ。
つまり横澤のせいで、日和がイジメにあっている。
激しく動揺する横澤に気付かず、律が話し続ける。
「それでこの公園で泣いてたあのコに声をかけて、話すようになったんです。」
律は静かにそう結ぶと、横澤から目をそらし、公園の出口の方を見た。
その視線の先には、もちろん日和の姿はもうない。
だがまだ踏み荒らされていない雪路には日和の足跡が残されていた。
横澤はぼんやりと足跡を目で追う律の横顔を見ながら、揺れる心を持て余した。
*****
「高野さん、じゃあ7時に正面玄関で。」
そう声をかけた女性社員は、サファイア文庫の編集部員だ。
そのやりとりを聞いていた木佐翔太は、ちらりと隣の席を見た。
だが隣の席の後輩は聞こえているのか、いないのか。
まったく表情を変えることなく、パソコン画面を見ながらキーを打ち続けている。
今日は女性編集者たちが主催して飲み会をするらしい。
何だか慌しいのは、あらかじめ決められたものではなく急に決まったものだからだろう。
その中でなぜか高野も誘われて、参加することにしたらしい。
わざわざ高野だけに声をかけているのは、おそらく参加者の中に高野目当ての女子社員がいるのかもしれない。
最近の高野はモテる。
律が辞表を出したあの日から、高野は急に付き合いがよくなったからだ。
誘われれば、仕事がない限りはほとんど全て応じている。
それが評判になって、誘いにくる女子社員が後を絶たないのだ。
「ねぇ律っちゃん。」
木佐はパソコンに向かう律を呼んだ。
律はキーボードを打つ手を止めて「はい、何です?」と答える。
木佐を真っ直ぐに見るその瞳には、動揺は見えなかった。
「律っちゃんは、小野寺出版に戻るの?」
「まさか」
木佐の問いに、律は驚いたようにそう答えた。
だが答えを聞いた木佐こそ、驚いてしまう。
律の本にかける情熱はよく知っている。
その律が辞表を出したのなら、行く先は小野寺出版しかないと思ったのだ。
「もしかしてうちに来て、編集の仕事が嫌になったとか。。。」
木佐はさらにそう聞いてみた。
何事にも真面目で一生懸命な律がかわいくて、高野と一緒にからかったことも数知れない。
もしかしてそういうストレスが辞職の原因かと気になっていたのだ。
「編集の仕事は今も大好きですよ。でもだからこそ、もう本に関わる仕事はしません。」
律はそう言って、編集長席に座る高野をチラリと見た。
だがすぐに木佐に視線を戻すと「でもエメラルドは毎月買いますから」と微笑する。
どこか寂しそうなその笑顔に、木佐は曖昧な笑顔を返した。
編集の仕事が好きで、高野のことだって好きなのだろうに、離れなくてはならない。
きっとそこには深い事情があるのだろう。
だが律はそれを打ち明けることなく、1人で抱えるつもりなのだ。
木佐は再びパソコンに向かう律の横顔を、切ない思いで見つめていた。
*****
「お兄ちゃん、何でお父さんたちに話しちゃったの?」
桐嶋日和は、いつもの公園で青年に言った。
心の中では怒っている。
だが青年に話す言葉は、涙声になってしまった。
日和はもうずっと学校では誰とも口を聞かない日々を過ごしていた。
理由は、父親とその友人である横澤のせいだ。
同じマンションに住むクラスメイトの母親が、桐嶋と横澤の親密な様子を目撃したのが始まりだった。
その母親から別の母親に、そしてそのクラスメイトから別の子供に。
噂は広まり、日和は完全に孤立した。
それでも父親にも横澤にも言わなかったのは、2人を悲しませたくなかったからだ。
父親と横澤が恋愛しているかどうかはどうでもよかった。
3人とソラ太も入れて1匹の生活が楽しくて、失いたくなかった。
だが日和の今の状態を知ったら、2人ともきっと気に病むだろう。
もしかしたら横澤はもう家に来なくなってしまうかもしれない。
それなのに昨晩、父親に「俺のことでイジめられてるのか?」と聞かれた。
そして「横澤は当分来ないから」とも言われた。
その瞬間目の前が真っ暗になった。
クラスで無視されるより、意地悪されるより、横澤に会えなくなる方がつらいのだ。
「君は、横澤さんの?」
「何で喋ったのよ!お兄ちゃんのせいで、お父さんも、横澤のお兄ちゃんもつらい顔してるのよ!」
日和には、青年の驚いた様子も悲しげな表情も見る余裕がなかった。
今までずっと耐えてきた怒りと悲しみが、激情になって口から溢れ出る。
「ごめん。あの人とはたまたま知り合いで、君が言ってた人だなんて知らなかったんだ。」
「だから話してもいいなんて、そんなわけないじゃない!」
日和は両手で勢いよく、青年の身体を突き飛ばした。
まだ雪が残る公園で、青年が尻もちをついた。
「みんなお兄ちゃんのせいだ!」
日和はそう言い放つと、身を翻して出口に向かって走り出した。
雪路は凍っており、足を取られてよろめいてしまう。
だが何とか転倒せずに、公園を飛び出した。
一度も振り返らなかったから、後に残された青年の表情を見ることはなかった。
【続く】
「あのコ、学校でイジメられているんだそうです。」
律の言葉に、横澤は呆然とした。
あのコ-日和は春の陽だまりのような明るい女の子だ。
イジメにあっているなど、到底信じられない。
横澤隆史は、最初は信じなかった。
桐嶋は日和が「恋」に悩んでいるのではないかと言い出したのだ。
しかも相手は、かつての横澤の恋敵だったあの小野寺律だと。
まさかと思いながら、学校帰りの日和を尾行した横澤は見つけてしまった。
日和と律が公園で仲良く話している姿を。
だから日和と別れて帰ろうとしている律を捕まえて問い詰め、衝撃の事実を知った。
「あのコ、お母さんがいなくてお父さんと2人暮らしなんだそうですが。」
「お父さんの友人だって男の人が、よく家に来るそうなんです。」
「それでお父さんとその友人って人は、恋仲なんじゃないかって近所で噂になってるそうで」
「学校でも同性愛者の子供だから気持ち悪いって、口を聞いてもらえないって。」
あのコのお父さんのよく家に来る友人、それは間違いなく横澤のことだ。
つまり横澤のせいで、日和がイジメにあっている。
激しく動揺する横澤に気付かず、律が話し続ける。
「それでこの公園で泣いてたあのコに声をかけて、話すようになったんです。」
律は静かにそう結ぶと、横澤から目をそらし、公園の出口の方を見た。
その視線の先には、もちろん日和の姿はもうない。
だがまだ踏み荒らされていない雪路には日和の足跡が残されていた。
横澤はぼんやりと足跡を目で追う律の横顔を見ながら、揺れる心を持て余した。
*****
「高野さん、じゃあ7時に正面玄関で。」
そう声をかけた女性社員は、サファイア文庫の編集部員だ。
そのやりとりを聞いていた木佐翔太は、ちらりと隣の席を見た。
だが隣の席の後輩は聞こえているのか、いないのか。
まったく表情を変えることなく、パソコン画面を見ながらキーを打ち続けている。
今日は女性編集者たちが主催して飲み会をするらしい。
何だか慌しいのは、あらかじめ決められたものではなく急に決まったものだからだろう。
その中でなぜか高野も誘われて、参加することにしたらしい。
わざわざ高野だけに声をかけているのは、おそらく参加者の中に高野目当ての女子社員がいるのかもしれない。
最近の高野はモテる。
律が辞表を出したあの日から、高野は急に付き合いがよくなったからだ。
誘われれば、仕事がない限りはほとんど全て応じている。
それが評判になって、誘いにくる女子社員が後を絶たないのだ。
「ねぇ律っちゃん。」
木佐はパソコンに向かう律を呼んだ。
律はキーボードを打つ手を止めて「はい、何です?」と答える。
木佐を真っ直ぐに見るその瞳には、動揺は見えなかった。
「律っちゃんは、小野寺出版に戻るの?」
「まさか」
木佐の問いに、律は驚いたようにそう答えた。
だが答えを聞いた木佐こそ、驚いてしまう。
律の本にかける情熱はよく知っている。
その律が辞表を出したのなら、行く先は小野寺出版しかないと思ったのだ。
「もしかしてうちに来て、編集の仕事が嫌になったとか。。。」
木佐はさらにそう聞いてみた。
何事にも真面目で一生懸命な律がかわいくて、高野と一緒にからかったことも数知れない。
もしかしてそういうストレスが辞職の原因かと気になっていたのだ。
「編集の仕事は今も大好きですよ。でもだからこそ、もう本に関わる仕事はしません。」
律はそう言って、編集長席に座る高野をチラリと見た。
だがすぐに木佐に視線を戻すと「でもエメラルドは毎月買いますから」と微笑する。
どこか寂しそうなその笑顔に、木佐は曖昧な笑顔を返した。
編集の仕事が好きで、高野のことだって好きなのだろうに、離れなくてはならない。
きっとそこには深い事情があるのだろう。
だが律はそれを打ち明けることなく、1人で抱えるつもりなのだ。
木佐は再びパソコンに向かう律の横顔を、切ない思いで見つめていた。
*****
「お兄ちゃん、何でお父さんたちに話しちゃったの?」
桐嶋日和は、いつもの公園で青年に言った。
心の中では怒っている。
だが青年に話す言葉は、涙声になってしまった。
日和はもうずっと学校では誰とも口を聞かない日々を過ごしていた。
理由は、父親とその友人である横澤のせいだ。
同じマンションに住むクラスメイトの母親が、桐嶋と横澤の親密な様子を目撃したのが始まりだった。
その母親から別の母親に、そしてそのクラスメイトから別の子供に。
噂は広まり、日和は完全に孤立した。
それでも父親にも横澤にも言わなかったのは、2人を悲しませたくなかったからだ。
父親と横澤が恋愛しているかどうかはどうでもよかった。
3人とソラ太も入れて1匹の生活が楽しくて、失いたくなかった。
だが日和の今の状態を知ったら、2人ともきっと気に病むだろう。
もしかしたら横澤はもう家に来なくなってしまうかもしれない。
それなのに昨晩、父親に「俺のことでイジめられてるのか?」と聞かれた。
そして「横澤は当分来ないから」とも言われた。
その瞬間目の前が真っ暗になった。
クラスで無視されるより、意地悪されるより、横澤に会えなくなる方がつらいのだ。
「君は、横澤さんの?」
「何で喋ったのよ!お兄ちゃんのせいで、お父さんも、横澤のお兄ちゃんもつらい顔してるのよ!」
日和には、青年の驚いた様子も悲しげな表情も見る余裕がなかった。
今までずっと耐えてきた怒りと悲しみが、激情になって口から溢れ出る。
「ごめん。あの人とはたまたま知り合いで、君が言ってた人だなんて知らなかったんだ。」
「だから話してもいいなんて、そんなわけないじゃない!」
日和は両手で勢いよく、青年の身体を突き飛ばした。
まだ雪が残る公園で、青年が尻もちをついた。
「みんなお兄ちゃんのせいだ!」
日和はそう言い放つと、身を翻して出口に向かって走り出した。
雪路は凍っており、足を取られてよろめいてしまう。
だが何とか転倒せずに、公園を飛び出した。
一度も振り返らなかったから、後に残された青年の表情を見ることはなかった。
【続く】