雪7題
【雪消】
「こんばんは。寒いですね。」
エレベーターから降り立った律が、会釈する。
中途半端に抱き合った状態の横澤と高野は、律の表情をうかがう。
律は困ったような顔で「間が悪くてすみません」と付け加えた。
律が2人の横を通り過ぎて、自分の部屋の前に立つと鍵を開ける。
そして「おやすみなさい」と言いながら、ドアを開けた。
それはまったく普通の動作に見えた。
「小野寺」
高野が律に声をかけると、横澤はすっと高野から離れた。
律は「はい」と短く答えて、高野の顔を見る。
その表情も態度もまったく普通だった。
悲しみの色も、動揺による震えもまったく見られない。
「これでいいんだな?」
高野の問いは、つまり律への最終確認だ。
このまま横澤なり他の誰か、つまり律以外の人間とどうなっても関係ないのかと聞いているのだ。
横澤は息を飲んで、律の答えを待った。
「もちろんです。高野さんと俺はもう何でもないから。」
律はきっぱりとそう言い切った。
そして高野の挑むような視線を受け止める。
微妙に漂う沈黙に、横澤は居たたまれないような気持ちになった。
「明日の朝一の会議、遅れるな。」
高野は事務的な口調で、その沈黙を破った。
律は「わかりました」と短く答えて、自分の部屋に入るとドアを閉める。
高野はその様子を静かに見守っていた。
今この瞬間、高野と律の関係は終わったのだ。
横澤はその事実を目の当たりにして、動揺していた。
2人の別れにさることながら、そのことで自分の心が激しく乱れてる。
そんな自分を持て余して、横澤は途方にくれた。
*****
桐嶋禅は驚き、小さく「え?」と声をあげた。
次の瞬間には咄嗟に手近な木の裏側に身体を滑り込ませて、隠れてしまった。
最近日和は少しずつ元気になってきたような気がする。
徐々に笑顔も増えてきたし、不自然なカラ元気も少なくなった。
何か悩みがあったようだが、自力で解決に向かうことができたのだろうか?
とにかく少しホッとした。
打ち明けてくれないのは寂しいが、とにかく日和が元気ならばそれでいい。
だがまるでそれを見計らったかのように、今度は横澤が元気を失っていった。
こちらの理由は明らかだ。
ずっと想い続けていて、それでも想いが届かなかった高野が恋人と別れたせいだ。
桐嶋はその話を他でもない横澤自身から聞かされた。
そしてそれ以降、横澤はそのことを気にかけて揺れているようだ。
さすがに仕事はいつも通りにこなしているようだし、桐嶋家での家事にもそつがない。
だがときどきぼんやりしたり、何か思いつめているような表情になる。
桐嶋が話しかけても上の空だった。
まだ諦め切れていないのか。
桐嶋は忌々しい気持ちだった。
確かに横澤には「丸ごと受け止める」と言った。
高野を好きな気持ちは忘れなくていい、大事に取っておけと。
だがやはり好きな相手が、別の人間を想って動揺する姿を見るのはつらいものだ。
この日桐嶋は珍しく残業もなく、早い時間の帰宅だ。
今日は横澤と日和に、久しぶりに手料理でも振舞おうと思っていた。
だがスーパーで買出しをして、自宅マンションへ帰る途中の公園で桐嶋は見た。
ベンチに座って、親しげに何かを話している2人を。
1人は見間違うはずもない、自分の愛娘だ。
そしてもう1人は日和と同じ年頃ではなく、もう大人の青年だった。
まさか誘拐?それとも変質者か?
そう思って、青年を見た桐嶋は驚き、小さく「え?」と声をあげた。
あの青年には見覚えがある。
エメラルド編集部の小野寺律。
高野と別れ、横澤を、そして桐嶋を悩ませている張本人だ。
*****
「じゃあ、他になければこれで」
「あの」
会議を締めくくろうとした高野の言葉を遮って、律は声を上げた。
その日はエメラルド編集部の定例会議だった。
自分の担当作家の状況を各自が報告し、情報を共有する。
また編集長会議などで話された議題を、高野が部員たちに報告する。
仕事を進める上では必要不可欠な会議だ。
その会議の最後で、律は手を上げた。
「何だ、小野寺?」
「これを」
律は高野に1枚の封筒を手渡した。
表に書かれている「辞表」の2文字に、律以外の全員が驚いた表情だ。
「まさか律っちゃん、辞めるの!?」
すかさず大きな声を上げたのは、木佐だった。
律は「はい」と短く答えて、木佐から高野に視線を移した。
律は高野との別れを決意したと同時に、仕事を辞める事も決意していた。
高野への想いは、律の心の中にまるで雪のように積もっている。
消そうとしても消しきれないうちに、雪はどんどん降り積もるのだ。
忘れるために、春の雪消を迎えるために、できることは1つしかない。
雪の降らない、高野のいない場所へと行くことだ。
こうしてエメラルド編集部全員の前で切り出したのは、迷わないためだ。
大好きな職場を離れるという決意を揺るぎないものにする。
そのために律は、この時この場所を選んだ。
「一応来月末付けにしてますので、よろしくお願いします。」
律はそう言って、高野に深く一礼した。
羽鳥も木佐も美濃も、言葉もなく高野を見る。
高野は差し出された封筒を、無言で受け取った。
【続く】
「こんばんは。寒いですね。」
エレベーターから降り立った律が、会釈する。
中途半端に抱き合った状態の横澤と高野は、律の表情をうかがう。
律は困ったような顔で「間が悪くてすみません」と付け加えた。
律が2人の横を通り過ぎて、自分の部屋の前に立つと鍵を開ける。
そして「おやすみなさい」と言いながら、ドアを開けた。
それはまったく普通の動作に見えた。
「小野寺」
高野が律に声をかけると、横澤はすっと高野から離れた。
律は「はい」と短く答えて、高野の顔を見る。
その表情も態度もまったく普通だった。
悲しみの色も、動揺による震えもまったく見られない。
「これでいいんだな?」
高野の問いは、つまり律への最終確認だ。
このまま横澤なり他の誰か、つまり律以外の人間とどうなっても関係ないのかと聞いているのだ。
横澤は息を飲んで、律の答えを待った。
「もちろんです。高野さんと俺はもう何でもないから。」
律はきっぱりとそう言い切った。
そして高野の挑むような視線を受け止める。
微妙に漂う沈黙に、横澤は居たたまれないような気持ちになった。
「明日の朝一の会議、遅れるな。」
高野は事務的な口調で、その沈黙を破った。
律は「わかりました」と短く答えて、自分の部屋に入るとドアを閉める。
高野はその様子を静かに見守っていた。
今この瞬間、高野と律の関係は終わったのだ。
横澤はその事実を目の当たりにして、動揺していた。
2人の別れにさることながら、そのことで自分の心が激しく乱れてる。
そんな自分を持て余して、横澤は途方にくれた。
*****
桐嶋禅は驚き、小さく「え?」と声をあげた。
次の瞬間には咄嗟に手近な木の裏側に身体を滑り込ませて、隠れてしまった。
最近日和は少しずつ元気になってきたような気がする。
徐々に笑顔も増えてきたし、不自然なカラ元気も少なくなった。
何か悩みがあったようだが、自力で解決に向かうことができたのだろうか?
とにかく少しホッとした。
打ち明けてくれないのは寂しいが、とにかく日和が元気ならばそれでいい。
だがまるでそれを見計らったかのように、今度は横澤が元気を失っていった。
こちらの理由は明らかだ。
ずっと想い続けていて、それでも想いが届かなかった高野が恋人と別れたせいだ。
桐嶋はその話を他でもない横澤自身から聞かされた。
そしてそれ以降、横澤はそのことを気にかけて揺れているようだ。
さすがに仕事はいつも通りにこなしているようだし、桐嶋家での家事にもそつがない。
だがときどきぼんやりしたり、何か思いつめているような表情になる。
桐嶋が話しかけても上の空だった。
まだ諦め切れていないのか。
桐嶋は忌々しい気持ちだった。
確かに横澤には「丸ごと受け止める」と言った。
高野を好きな気持ちは忘れなくていい、大事に取っておけと。
だがやはり好きな相手が、別の人間を想って動揺する姿を見るのはつらいものだ。
この日桐嶋は珍しく残業もなく、早い時間の帰宅だ。
今日は横澤と日和に、久しぶりに手料理でも振舞おうと思っていた。
だがスーパーで買出しをして、自宅マンションへ帰る途中の公園で桐嶋は見た。
ベンチに座って、親しげに何かを話している2人を。
1人は見間違うはずもない、自分の愛娘だ。
そしてもう1人は日和と同じ年頃ではなく、もう大人の青年だった。
まさか誘拐?それとも変質者か?
そう思って、青年を見た桐嶋は驚き、小さく「え?」と声をあげた。
あの青年には見覚えがある。
エメラルド編集部の小野寺律。
高野と別れ、横澤を、そして桐嶋を悩ませている張本人だ。
*****
「じゃあ、他になければこれで」
「あの」
会議を締めくくろうとした高野の言葉を遮って、律は声を上げた。
その日はエメラルド編集部の定例会議だった。
自分の担当作家の状況を各自が報告し、情報を共有する。
また編集長会議などで話された議題を、高野が部員たちに報告する。
仕事を進める上では必要不可欠な会議だ。
その会議の最後で、律は手を上げた。
「何だ、小野寺?」
「これを」
律は高野に1枚の封筒を手渡した。
表に書かれている「辞表」の2文字に、律以外の全員が驚いた表情だ。
「まさか律っちゃん、辞めるの!?」
すかさず大きな声を上げたのは、木佐だった。
律は「はい」と短く答えて、木佐から高野に視線を移した。
律は高野との別れを決意したと同時に、仕事を辞める事も決意していた。
高野への想いは、律の心の中にまるで雪のように積もっている。
消そうとしても消しきれないうちに、雪はどんどん降り積もるのだ。
忘れるために、春の雪消を迎えるために、できることは1つしかない。
雪の降らない、高野のいない場所へと行くことだ。
こうしてエメラルド編集部全員の前で切り出したのは、迷わないためだ。
大好きな職場を離れるという決意を揺るぎないものにする。
そのために律は、この時この場所を選んだ。
「一応来月末付けにしてますので、よろしくお願いします。」
律はそう言って、高野に深く一礼した。
羽鳥も木佐も美濃も、言葉もなく高野を見る。
高野は差し出された封筒を、無言で受け取った。
【続く】