雪7題

【雪糅て】

「悪いが、頼みがある。」
神妙な面持ちで切り出した高野に、横澤は黙って頷いた。
最初から何かあることはわかっていたからだ。

横澤隆史は、彼の職場である丸川書店近くのバーにいた。
カウンター席に並んで座るのは友人の高野政宗だ。
高野と共にこの店で飲むのは、かなり久しぶりのことだった。

以前は時折、2人でこの店で酒を飲んだ。
あまり外食を好まない高野は、再三誘ってもなかなか応じてくれない。
それでも店に来れば、大いに楽しんだ。
気が置けない友人同士で、本を売ることへの情熱を語り合ったこともある。
編集者と営業部員として、意見を衝突させたこともある。
だが今はこの店での出来事は、2人にとって懐かしい思い出になっていた。

最近2人で酒を飲むことがなくなったのには、理由がある。
横澤が高野に想いを寄せており、その恋心がバレてしまったからだ。
高野は高校時代の初恋の相手を想い続けており、横澤の気持ちを跳ねつけた。
その後、高野は10年越しの初恋を実らせ、横澤もまた新しい恋をしている。
一時期ギクシャクとした時期はあったが、友人に戻った。
だがやはり最愛の人間が別にいる以上、2人きりで酒を飲むことはしなかったのだ。

そんな時、高野から「飲みに行こう」と誘われた。
横澤にしてみれば、もちろん嬉しくないわけがない。
久しぶりに高野とグラスを傾けるのも、悪くない。

だがあまりにも唐突だった。
そもそも何の気兼ねもない友人の頃だって、高野から誘われたことはほとんどないのだ。
ただ単に酒を飲みたいということではなく、何か別の目的があることは想像に難くない。
敏腕営業部員、横澤の読みは正しかった。
高野は横澤が驚くある事実を告げて、1つの「頼みごと」をした。

外は小雨が降っており、それが今にも雪に変わりそうな寒い夜。
暖房が効いているはずの店内さえ薄ら寒く感じるのは、きっと気が乗らない「頼みごと」のせいだ。
横澤はグラスの中の琥珀色の液体を一気に飲み干すと、高野の頼みを了承した。

*****

「どうかしたのか?」
桐嶋禅は、愛娘の日和に聞いた。
だが日和は慌てて笑顔を作ると「何でもないよ!」と答えた。
桐嶋家のリビングに、微妙な沈黙が漂った。

最近、日和の様子がおかしい。
元々はよく喋る子供だったのに、口数が減った。
心ここにあらずといった様子でぼんやりしていたり、桐嶋をじっと見ていたりする。
かと思えば、いきなり大きな声で笑ったりはしゃいだりする。
本人は誤魔化しているつもりのようだが、カラ元気なのは見え見えだ。

日和が何か悩んでいるのではないか?
最初にそれに気がついたのは、父親である桐嶋ではない。
桐嶋の恋人であり、通い同棲状態の横澤だった。
まったくどっちが本当の親なのかと、桐嶋は苦笑する。
熊のような風貌に不似合いな細やかな気配りを見せる横澤は、まるで母親だ。

桐嶋は当初、そんなに深刻に考えなかった。
年頃の女の子なのだから、父親には言えない悩みもあるだろう。
桐嶋に言えない悩みなら、いかに母親っぽくても男の横澤にだって言いにくいはずだ。
だが横澤は「そんな単純な話じゃなさそうだが」と納得いかない表情だった。

残念ながら横澤の読みの方が正確だった。
日和はいつまで経っても元に戻らず、日に日に表情も暗くなっている気がする。
それでも何でもないように振舞う日和に、桐嶋は胸が締め付けられるような切なさを感じていた。
健気に振る舞いのは、仕事が忙しい桐嶋に余計な心配をさせなくないのだろう。
元々手がかからない子供ではあったが、桐嶋の妻が死んだ後はますますその傾向が強くなった。
だが桐嶋は実の父親なのだ。
つらいのなら、打ち明けてくれればいいのに。

「パパ、もう寝るね。おやすみなさい。」
日和が桐嶋に声をかけると、自分の部屋のドアに手をかけた。
桐嶋は「ああ。おやすみ」と答えながら、その後ろ姿を見送った。

日和がいなくなったリビングで、桐嶋はただただ途方にくれた。
いつもいるはずの横澤は、今日はいない。
高野に誘われて、久しぶりに酒を飲むのだと言う。
恋人がかつての片想いの相手と会っているというのも、どうにも落ち着かない。
だが桐嶋は止めなかった。
横澤本人が桐嶋にきちんと事前に打ち明けたのは、高野とはもう何でもないという意思表示なのだろうから。

「雪糅て、か」
ふと窓の外に目を向けた桐嶋は、そう呟いた。
夕方から降り始めた雨に、雪が混じっていたからだ。
凍えて帰ってくるであろう横澤のために、桐嶋はエアコンのリモコンを操作して設定温度を上げた。

*****

「来たみたいだな。」
ほとんど息ばかりの小声で囁かれた横澤の言葉に、黙って頷く。
高野は最後の決断の時を前にして、息を呑んだ。

高野政宗は横澤と共に、自宅マンションのドアの前にいた。
雪まじりの雨が降る寒い夜、本当ならさっさと家に入ってしまいたい。
だが家に入らずにここで待っているのは、目的があった。
隣人であり、部下であり、想いを寄せる相手を待ち伏せるためだ。

「俺と別れて下さい。」
小野寺律が高野にそう告げたのは数日前のことだ。
10年前に別れた後、再会して想いが通じるまでに約1年。
もう一生離さないと心に決めていた相手からの、よもやの別れの言葉。
最初は悪い冗談かと思ったが、どうやら本気らしい。
高野がどんなに怒っても、なだめても、律は「別れて下さい」を繰り返した。
部屋に引っ張り込もうとしても頑強に拒まれたし、身体に触れることさえ嫌がった。
再会して間もない頃の嫌だと言いながら流されていた律とは明らかに違う。

高野が気になったのは「別れろ」と言い出す直前、律が休暇を取って実家に帰ったことだ。
昔からの友人が急な病でこの世を去ったので、通夜と告別式に出るというのが理由だった。
もちろん友人の死を疑っているわけではない。
実家に帰ったことで、親に何か言われて説き伏せられたのではないかと思ったのだ。
例によって「家を継げ」とか「婚約者と結婚しろ」とかそういう類のことを。

だから律の真意を確かめたくて、横澤に頼んだ。
律の目の前で、恋人らしく抱き合い、寄り添ってくれないかと。
そんな高野と横澤を見て、律はどうするのか。
動揺するか、嫉妬するか、それとも何の反応もしないのか。
それを見れば律が心から別れたがっているのかどうかがわかる。
横澤は本当に気が進まないようだったが、とにかく拝み倒した。
こうして高野と横澤は、律を待っていた。

エレベーターが12階で停まり、扉が開く。
高野は自分の部屋のドアを背にして立ち、横澤が高野をドアに押し付けるように身体を寄せた。
互いに相手の身体に腕を絡ませ、今にもキスしそうなほど顔を寄せる。
これで同じ階の別の住人だったら、赤っ恥もいいところだ。

だが幸いにも、エレベーターから降り立ったのは律だった。
高野たちに気付くと足を止め、驚いたように目を丸くする。
そしてその後に見せる表情は---?
高野と横澤はドキドキしながら、その瞬間を待った。

【続く】
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