花で一年

【03月:アイリス(恋のメッセージ)】

「よぉ、お疲れ。」
敏腕の編集長は、何事もなかったようにそう言った。
木佐はひょっとして今見たものは幻だったのかと、本気で自分の目を疑った。

律の執筆した「花シリーズ」の残りの作品も、全て電子書籍として出版された。
その反響は、予想以上だ。
電子書籍限定なので、発行部数という形の売り上げデータはない。
だが閲覧数は、丸川書店の電子書籍の中でもかなり上位の方らしい。
これも紙の本が出ていない特殊なケースなので、単純に数字は当てにはならないが。

だがこの後、ベースとなっているコミックスは全て売り上げが上がった。
現在連載中の作品だけでなく、連載が終わっているものもだ。
これはもう小説効果だろう。
おかげでアニメーションの制作会社から、いくつかの作品のアニメ化のオファーがあった。
そしてその口火を切ったのが、木佐の担当作品だった。

そのアニメ化に合わせて、フェアもやりたい。
木佐はその企画書を作って、営業に持って来たのだ。
少し前の木佐なら、こんな風に自分からフェアの企画なんかしなかったと思う。
だが今は作品のために、できることは何でもやりたい。
こんな風に前向きになれるのは、律、そして雪名に触発されたせいだ。
ひた向きに作品に取り組む彼らに負けていられないと思ったのだ。

まずはコミックス担当の横澤に、ネゴを取る。
そう思って営業部を見渡した木佐は、先客がいることに気付いた。
押しも押されぬジャプンの敏腕編集長、桐嶋だ。
横澤の席の隣に立ち、パソコンの画面を差しながら、何か話し込んでいる。
あちらはあちらで、営業と相談することがあるのだろう。

とりあえず先に書類だけ渡しておくか。
大事な話し合いのようだが、ほんの一瞬だけならかまわないだろう。
木佐は2人の背後からそっと近づき。。。衝撃的な光景を見た。
周りからは見えないデスクの下で、桐嶋が横澤の手を握っていたのだ。
それに2人の間には、ほんのりと甘い空気が漂っている。。。気がする。
驚き立ち竦む木佐の気配に気付いて、桐嶋と横澤が振り向く。
その拍子に、繋いでいた2人の手がするりと離れた。

「よぉ、お疲れ。」
桐嶋は何事もなかったようにそう言った。
木佐はひょっとして今見たものは幻だったのかと、本気で自分の目を疑う。
だが横澤のほんのり赤い顔が、幻ではないのだと告げている。

「で、出直します!」
木佐は慌てて頭を下げると、這う這うの体で逃げ出した。
確かに最近仲がいいと言う噂は聞いたけど、まさかそんな仲だとは。
ふとどっちが「受」だろうと思い、絡み合う2人を想像すると、何だか背筋が寒い。

それでも気持ち悪くはないよな。むしろ綺麗な気がする。
何とかそう思えたのは、自分の席に戻ってしばらくしてからのことだった。
ちなみに横澤はこの後、桐嶋に猛抗議をしたが、あっさりといなされることになった。

*****

「あ~、もう!働き過ぎだよぉぉ!」
吉野は作業机に突っ伏して、叫び声を上げた。

律の作品の「花シリーズ」が全て出版されて、忙しくなったのは木佐だけではない。
吉野と羽鳥もかなり忙しくなった。
元々売れていた吉野のコミックスだが、売り上げがさらに増えた。
吉野としては、世話になっている編集部に何かしたいと思う。
だが他の作家と違い、顔を隠している吉野はサイン会などのフェアはしない。

それでも何かの役に立ちたいと思っていた吉野に舞い込んだのは、アニメ化の話だった。
しかも今まで連載した分をアニメにしようという話ではない。
律の小説に新たなストーリーを追加して、テレビアニメではなく劇場公開するという壮大なものだ。

「テレビじゃなくて、映画!?」
その話を聞いた時、さすがに吉野の声も裏返った。
現在連載を抱えており、その上さらに劇場用作品を書けということなのだ。
ただでさえ筆が遅いという自覚があるのに、引き受けて大丈夫なものか。

「お前ができないなら、小野寺にやらせるって手もあるが」
迷う吉野に、淡々とそう提案したのはもちろん羽鳥だった。
作品世界は吉野のものだが、律の小説にさらに追加するのだ。
それなら律が、小説として書いてもおかしくない。

だが羽鳥としては、複雑な気分なのだ。
やはり担当編集としては、劇場公開のアニメになるのは大チャンスだ。
新しい作品はもちろん、今までの作品もさらに売れる。
だが今の仕事でデット入稿常習者の吉野に、そんなことができるのか。

律に小説を書かせるという案は、別の意味で心配だった。
だが律は今や、吉野以上に多忙な身だ。
編集者の仕事をこなしつつ『ザ★漢』の執筆を始めている。
今、やたらにテンションが高い律は、書けと言えば書くだろう。
だが疲れているようだし、これ以上仕事を増やすのは先輩として躊躇われた。

「俺、やるよ!」
結局、吉野は決意を固めた。
いろいろ不安はあるが、やはりこのチャンスを逃したくない。
かくして吉野は、前代未聞の忙しさを迎えることになったのだ。

「あ~、もう!働き過ぎだよぉぉ!」
吉野は作業机に突っ伏して、叫び声を上げた。
明日からアシスタントが入ることになっている。
だから今日のうちに、彼女たちをうまく回せるくらいまで仕上げておかなくてはならない。

「引き受けたからには、やれ」
羽鳥は冷やかに応じた。
最初からこうなることはわかっていたことだ。
だから英気を養わせるべく、こうして会社帰りに吉野宅に寄ったのだ。

「わかってるよ。小野寺さんに負けてられないし。でもトリにだけグチを言わせて~」
吉野はノロノロと突っ伏していた顔を上げると、再びペンを取った。
どうやらやる気はあるようだ。
そして相変わらず「トリにだけ」なんて殺し文句を、無自覚でぶっ放す。
八つ当たりされる覚悟もできていたのに、こんなところに落とし穴があるとは。

「わかった。あとで聞いてやるから、今は進めろ。」
羽鳥はスーパーの袋から食材を取り出しながら、そう言った。
律の活躍に引っ張られるように、エメラルド編集部はやる気と活気に満ちている。
そしてその波は、吉野たち作家にも確実に広がっている。

俺もできることをしなければ。
羽鳥も切実にそう思っている。
そして今しなければいけないのは、吉野に栄養たっぷりの食事を用意することだ。

*****

「一番ダウンロード数が多い作品は『アイリス』だとさ。リアリティの勝利だな」
高野は冷やかすようにそう言った。
律はパソコンのキーを叩きながら「うるさいですよ!」と叫んだ。

羽鳥が吉野宅に食事の用意をしている頃、高野も自宅で料理をしていた。
もちろん1人ではなく、律の分もだ。
その律は高野の部屋のリビングに自分のパソコンを持ち込んで、キーを叩いていた。
律は今、小説版「ザ★漢」の執筆中だ。

「桐嶋さんとは、うまくやれてるのか?」
高野はキッチンのカウンターから、リビングの律に声をかけた。
律は仕事の合間に、ジャプンの編集部に行き、桐嶋と話をしている。
もちろん小説版「ザ★漢」の話だ。
エメラルドの「花シリーズ」では担当編集は高野だが「ザ★漢」では桐嶋が担当になる。

「ええ。高野さんとはかなりやり方がちがうので、編集としても勉強になります。」
律はパソコンの画面から視線を上げることなく、そう答えた。
そして「桐嶋さん、意外と優しいし、親切です」と付け加える。
高野としては、その発言は面白くない。

「今日は伊集院先生にもお会いしました。」
「俺は話したことねーな。どんな人?」
「性格は何となく、宇佐見先生に似てる気がします。」
「へぇ。じゃあやりやすいだろ。お前昔、宇佐見秋彦の担当だったわけだし」
「はぁ。でも伊集院先生にそう言ったら、すごく嫌な顔をされました。何ででしょうね?」

高野は「俺が知るか」と答えた。
伊集院響と宇佐見秋彦には確かに因縁があるのだが、高野と律には知る由もない。
しばしの沈黙の後、高野は野菜を洗いながら「ところで」と話題を変えた。

今日、電子書籍の現在のダウンロード数が発表された。
律の小説「花シリーズ」の中の1位は「アイリス ~恋のメッセージ~」という小説。
この話は高野の担当作家のスピンオフで、主役はヒロインの友人の少女だ。
漫画の中でも数回しか登場せず、脇役というよりモブに近い。
彼女は漫画の中では、憧れの彼と付き合ったものの、短い期間でフラれて終わっていた。
憧れの彼に至っては、名前しか出てこない。

律の小説の中で、彼女は10年後にフラれた彼と再会する。
いろいろ話しているうちに、フラれたのは、互いに誤解だとわかり、再び恋に堕ちるのだ。
そしてこれが目下「花シリーズ」12作の中で、一番人気だ。

「一番ダウンロード数が多い作品は『アイリス』だとさ。リアリティの勝利だな」
高野は冷やかすようにそう言った。
律はパソコンのキーを叩きながら「うるさいですよ!」と叫んだ。
この話だけが律の実体験を元に書かれた話だというのは、バレバレなのだ。

「お前、結局社長になるのはあきらめるの?」
高野はまた話題を変えた。
律は一時期、編集と作家、小野寺出版の次期社長という3つの未来で揺れていた。
だが今は吹っ切れたように、編集者と作家の2つを凄まじい勢いでこなしている。
恋人としては身体が心配だが、編集長としてはいい傾向だと思っていた。
そのテンションの高さから、他の作家や編集者にもやる気がみなぎっているからだ。

「まさか。そっちもちゃんと目指してますよ。作家としての経験も役に立つと思ってます。」
律は相変わらずパソコンのキーを叩きながら、そう言った。
まったく貪欲なことだ。
手に入れられるものは全部手に入れて、しかも全ての経験が役に立つなんて。
そして一息ついて確認すると、律はまた成長しているのだ。

「いつか俺の上司になったりして」
高野は野菜を刻みながら、思わずポツリと呟いた。
相変わらず目の前のことに夢中な恋人には、聞かれずにすんだようだ。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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